終幕 『翡翠の指輪』
シスタリス東部の大都市カルダイ。
夜になるとこの街は首都シスタリアに負けぬほどの猥雑な賑やかさに包まれる。
酒場では男女が酒を酌み交わし、気が乗ればそのまま安宿に場所を移して情を交わし合う風景が日常的に繰り広げられていた。
そんな街中に無数にある酒場の一つでは、逞しい体格を持つ若い男が赤毛の女を相手に酒を飲んでいる。
しかし酒を飲んでいるのは男だけで、女が飲んでいるのはただの茶だった。
一杯くらいいいだろうと男が勧めても女は頑として飲まなかった。
酒は飲まない主義だからだ。
酒場で茶を飲む珍しい女がいると思って声をかけた男は、拍子抜けしたように言った。
酒が進めば男女の仲も進むものだからだ。
「本当に一杯も飲まないんだな。弱いってわけじゃないんだろう?」
麦酒の杯を片手にそう尋ねる男に、その赤毛の女は肩をすくめる。
「さあな。ただ、酒を飲んでイザッて時に動けなくなるのが嫌なんだよ」
その言葉に若い男は思わず顔を綻ばせる。
「イザッて時? へぇ。それはどんな時なのか教えてくれないか?」
期待するような男の言葉に赤毛の女は鼻を鳴らして笑う。
こうした男女の駆け引きは嫌いではなかった。
興が乗れば行きずりの相手であっても褥を共にする。
もちろん相手が今目の前にいるような自分好みの男である場合に限ってだが。
彼女は懐から硬貨の詰まった財布を取り出し、指を突っ込む。
そこで女はふと顔色を変えた。
それを見た男は涼しい顔で言う。
女の持ち金が少ないのだろうと推察したからだ。
「ああ。ここの支払いは俺に任せて。いい部屋があるから案内するよ」
そう言う男の話を女は聞いていなかった。
財布の中に硬貨の他に緑色に輝く翡翠の指輪を見つけたからだ。
不意に脳裏に浮かぶのは、その翡翠の指輪を彼女に渡した気弱で情けない貴族の三男坊の顔だった。
思い出すだけで笑ってしまいそうになり、赤毛の女は財布から銅貨を3枚ほど出して机の上に置くと立ち上がる。
男は面食らって女を見上げた。
「いや、ここの支払いは俺が……」
「今日はやめとくぜ。そんな気分じゃなくなっちまってな。またどこかで見かけたら声をかけてくれ」
そう言うと赤毛の女は男に背を向けた。
すっかり期待していた男は自分がフラレたのだと悟り、意気消沈して椅子に深く腰掛ける。
「俺じゃアンタのお眼鏡にはかなわないみたいだな。誰か想い人でもいるのかい?」
白旗を上げてそう言う男に、赤毛の女は振り返って笑った。
「別に。ただ今日は気分が乗らなかっただけさ。悪いな。色男」
そう言うと赤毛の女は背を向けて歩き出す。
男はどうにも未練が断ち切れずにその背中に声をかけた。
「せめて名前くらい聞かせてくれよ」
その言葉に赤毛の女は振り返らずに軽く手を振った。
「アタシはネル。ダニアのネルだ」
それだけ言うと赤毛の女は酒場から悠然と立ち去っていくのだった。
ダニアのネル。
彼女は自由だった。
どこの国にも所属せず、誰からも縛られず、流浪の民として生涯続くであろう自由を心から楽しむ女だった。
後に人々はその魔術のごとき正確無比な弓矢の腕を持つ彼女を、畏敬の念を込めてこう呼ぶようになる。
絶弓の魔女、と。
それはまだもう少し先の話である。
【完】
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
お楽しみいただけましたら幸いです。
枕崎先生の次回作にご期待ください(笑)。




