暴食
救急車のサイレンに、水橋は窓際のデスクに座る八神主任に声を掛ける。
「誰か具合でも悪くしたんですかね?」
二日前にここに配属されたばかりの水橋はここではまだ新入り。
自分より年下の女性主任に腰を低くして尋ねなければならないのは癪に障る事この上ないが、未曾有の事態に急遽招集された水橋としては恥を忍んで先任の八神に頼る他ない。
「どうせ喰われたんでしょ」
ぶっきらぼうな八神の物言いが癇に障るが、それ以上に八神の言葉に水橋は疑念が湧く。
政府が接収したこの建物は霧の発生源とはかなりの距離がある。
未だ霧と接触したことも無いこの建物で誰が怪物の犠牲になるというのだ。
「奴らが喰うのはモノだけじゃないのよ」
八神は水橋に顔も向けず、デスク上のモニターを凝視したまま語る。
「あなた、まだカメラの映像見てないんだっけ?」
如何にも無粋な研究者を思わせる、色気もくそも無い作業服に白衣を引っ掛けた八神のぞんざいな言葉に、多少の反骨神を覗かせて水橋は答える。
「この後見せてもらう予定になってますが?」
「モニター室に行く前に、総務に寄ってビニール袋を貰って行くことね」
「??」
八神のいう意味が分からず怪訝な顔を向ける水橋に、斜め前の席に居た同僚が気の毒そうな目を向ける。
「映像を見てくればあたしが言った言葉の意味も分かるわ」
追い打ちをかけるような八神の言葉。
三々五々昼食を済ませた職員達が集う休憩室で、ブラックコーヒーを啜る八神の前に、青ざめた顔をした水橋が顔を見せた。
「食事は済ませたの?」
微笑んで水橋に語り掛ける八神に水橋は苦渋を呑んだ表情を返す。
「嫌味ですか?あんなもの見せられて食事が喉を通ると?」
半分自嘲の笑みを浮かべて八神の前に腰を下ろす。
「あれがあったから私たちも少しは事態に対処出来てるのよ」
八神が言うアレとは市街の各地に設置されていた防犯カメラの事だ。
霧の発生時、霧に呑まれた生き物は、ほぼ霧の中に現れた異形の怪物共の餌食になったが、自動で周囲を撮影する防犯カメラだけは、霧の中の惨劇を、躊躇う事も怯える事もなく冷徹に記録していた。
引き裂かれる男達。
貪られる女達。
若者も老人も、子供も幼児も、等しく啜られ肉片も残さず大小の怪物の饗宴の中に消えていった。
まだ口の中に残る酸っぱさを紙コップの紅茶で喉の奥に流し込んで、少しは落ち着いた水橋は目の前の八神に問いかける。
「情報はあれだけじゃ無いんですよね?」
ブラックコーヒーの苦みに顔をしかめながら八神は答える。
苦いなら始めからブラックなぞ呑まなければいいのにと思いながら、そんな八神の振舞いに多少留飲の下がる水橋。
「数こそ少ないけど、霧の中から生還した人も居るのよ」
水橋は身を乗りだす。
帰還者がいること自体は聞き及んでいたが、どうやってあの場を切り抜けたのか聞きたかったのだ。
水橋の態度に八神は若干引きつつ話を続ける。
「説明してもあなたの疑念は晴れないわよ」
テーブルの向こうで八神が足を組むのが感じられて、水橋は八神の姿に想いを馳せる。
無粋な服装で普段はそれと感じさせないのだが、まだ30になるかならぬかの八神は人並みに化粧でもすればそこそこ見れた風貌。いささかメリハリには欠けるが体型も悪くはない。
「単に窓を閉めた車の中に籠ってただけなのよ」
八神の意外な言葉に水橋も半開きの口をあけたまま。
「おかしいでしょ、車なんて窓閉めても幾らでも外気室内に入るわよね?」
霧が車内に入れば外と危険度は変わらない気もするが。
防犯カメラの映像では、怪物は大は車を踏み潰さんばかりの巨体から、小は手のひらに乗るほどの物まで多種多様だった。
車の中に出現してもおかしくないのだ。
「理由は考えるだけ無駄なんでしょうけど、車の中で襲われた形跡は何処でも見つかっていないのよね。」
言うだけ言って口をつむいだ八神から目を逸らし、水橋は窓の外に目を向けて考える。
霧は間違いなく車内にも入っているだろうに。
もしかして、霧そのものに今回の異常事態の要因を求めるのは間違っているのか?。
「でもね、水橋さん」
突然の敬語に驚いて八神の顔を見つめると、研究室で見せていた険しい顔つきと違ってどこか心細げ。
「問題はそれじゃないのよ」
「霧の中で怪物と戦う影を見たと言う人が居るの」
「しかも怪物を倒したと」
今度こそ水橋は目を丸くして八神を見た。
まじまじと八神の顔を見つめるが、八神は目を逸らさない。
怪物と戦い、あまつさえそれを倒しただと。
幾ら睨むように八神の瞳を覗き込んでも、八神に怯む様子はない。
「そいつは何か武器でも持っていたとか?」
霧の中で失踪した人々の中には警官も居れば自衛隊も居る。
彼らが残した武器が役にたったのだろうか。
疑いながらも、窺うように問う水橋。
「いいえ、その娘は何も持っていなかったそうよ」
「今なんと?」
「霧の中で怪物と思しき影と戦って、霧の中から出てきたのは女子高生だったそうよ」
再び水橋は絶句した。
先程見たビデオに映っていた大小無数の怪物達の姿が蘇る。
生身の人間が戦って勝てるような代物ではなかった。
「その目撃者の話では、霧越しではあるけれど、重機ほどもある巨大な化け物と戦っていたというのよ」
真顔でとんでもない話を続ける女性の顔を、不思議な物でも眺めるような面持ちで見つめる水橋。
謎の霧に人々が貪られていく事態だけでも頭がどうにかなりそうなのに、その謎の霧と戦う少女が居るだと。
視界が急激に暗くなりそうな気分に、水橋は強く深呼吸して耐える。
「俺は何かの間違いで場違いな場所に迷い込んでしまったんじゃないのだろうか」
水橋は頭の中で自分に問う。
ここに来て水橋は八神の言っていた言葉の意味を痛感した。
霧の見えざる牙は水橋の心にまで歯を立て始めていた。