父性
「霧が登ってくるぞっ!」
良平たちがしばし腰を休めた広間の階下から、何処の誰かは知らないが、引き攣る様な男の叫びが届く。
「!?」
エスカレーター近くに陣取っていた男達が立ち上がるが、叫びの意味が理解出来ずその場で顔を見合わせる。
「霧が登ってくるって何だ?」
「霧が上に登ったりするかよw」
言った男の笑顔は急速にしぼんでいく。
誰も今の状況を事実だと認めたくないのだ。
根拠も示さず現れては、人も動物も残さず呑み込み。廃墟と残骸だけを残して消えていく霧の中の怪物共。
だから無意識に現状を認めまいと、人は既に役に立たなくなった常識を無理矢理引きずり出すのだが、じきにそれがもう役に立たない常識だと自ら認めるのだ。
そして霧はそんな人間の浅はかな抵抗を嘲笑うかのように、街ごと、現実を呑み込んでいく。
「見て来る!ここで待っててくれ」
言ってエスカレーターを駆け下りたのは、リーダー格の男子にくっついてきた男子生徒。
少しでも役に立つところを見せたかったのだろう。
「もっと上に登った方がいいんじゃないの!?」
座り込んでいた住民の中から男達に提案する女の声が上がった。
「そいつはどうかな」
窓際に立っていた壮年の男が窓の外に目を向けながら答える。
「さっきから見ていると霧の高さが上がってきてる」
周囲の人間が息を呑む。
「ここに来たときは精々1階の高さほどだった霧がもう2階を呑み込む勢いだ」
実際男の目に映る外の様子はまるで雲海だ。
顔を見合わせる人々。
男の言葉にエスカレーター近くの男達が下を覗き込む。
「もう霧が途中まで上がってきてる!!」
悲痛な男の叫びに別の男が問う。
「下に居たやつらは?さっき降りた坊やも」
顔を見合わせた男たちの顔から血の気が引いていく。
霧の襲来を告げる叫びの後、何の物音も聞こえてこないのだ。
「元々得体のしれない霧。どこまで上がれば安全だとか、誰かわかる人は居るのかな?」窓際の男が問いかける。
冷徹な事実を突きつけられ、言葉を発する者は誰も居ない。
乳首を咥えていた赤子がわずかにむずかる気配に、順子は隣に座る良平を見上げる。
幼子に乳を与えながら、順子はまだポニーテールを揺らした少女。
その現実離れした二人の姿は傍目にはまるで絵画のようにも映る。
子供の気配に気づいた良平と目が合うと、僅かの間に大人びた雰囲気を纏い始めた良平が低い声で順子に告げる。
「子供を頼むね。俺行ってくるから」
ゆっくり立ち上がった良平の姿が外で見た頼りなげな少年の面影では無い事に気づき、順子は思わず声を掛ける。
「気を付けてね」
この世の物とも思えぬ怪物達を迎え撃とうと言う良平に、気を付けてもくそも無いようなものだが順子も言わずに居られなかったのだろう。
足を踏み出しかけた良平が身を屈めて子供の頬を軽く撫でる。
「この子を頼む」
再度順子に念を押して立ち上がる。
立ち上がりざま、子供を撫でた良平の指が順子の頬も掠める。
瞬時良平の指に頬ずりする順子に良平も手を停めて答える。
立ち上がると背筋をしゃんと伸ばし、良平はゆっくりと足を踏み出す。
歩き出した良平の後姿を見送る順子の目から、理由も分からず滂沱と涙が溢れ出て来た。
「もうあの人には会えないんだ」
根拠無く、だが疑うべくも無い確信を持って順子は呟く。




