実戦
「緊急!」
通信員の叫びが阿部の耳を撃つ。
「至急、現地点を撤退せよとの指令です」
緊迫した通信員のセリフに阿部は訝しむ。
指令?現場指揮官の俺に撤退命令を下せるのは後方に待機している先輩隊員だろうか。
「本部命令です!」
混乱する安部の耳に、想像もしていなかったセリフが飛び込んできたとき、幕が下りたように周囲の景色が暗転した。
思わず上を見上げた阿部の眼に見慣れた空は無かった。
「砲撃やめー!総員退避ー!」
恥も外聞も無く阿部は叫んだ。
空が落ちて来る。
正確にはいつの間にか立ち込めた暗雲が明確な質量を伴って頭上から降ってきていた。
恐るべき重圧感。見たことも無い異常な光景にあっさり阿部は恐慌をきたした。
上空の雲の広がりは空一面を覆い、阿部の視界には地平面近くに僅かに灰色の空が見えるばかりだ。
唖然と立ち竦む阿部の眼が、上空の暗雲から落下する黒い塊の落下を捉える。
黒い雲を背景に黒い塊が落ちて来るのだ、形も大きさも判然としない。
見る間に眼前の榴弾砲上に落下したそれは爆発そっくりな爆炎ならぬ爆霧を見せた。
呆気にとられる阿部の眼前。爆霧は異様な形を成し、今の今まで砲火を吐き出していた榴弾砲を頭上に巻き上げる。
まるで巨大な怪獣を思わせる霧の化け物の出現に戦闘なぞ予想していなかった部隊は瞬く間に霧に呑まれていく。
「後退!後退しろ!!」
血を吐くように叫ぶ阿部を部下が車内に引きずり込む。
「3尉、中に!外に居たら喰われます!」
越権行為もいいところだが。部下が引き込み、ハッチを閉じねば阿部はおろか乗員の命も危なかっただろう。
「本部より、北へ避難せよと指示が出ています」
通信員が報告する。
動転する阿部を待たずに車長が返事をする。
「北上します!」
「誰か!」
「どうなって!」
「退避っていったい何処へ…」
インカムに飛び交う隊員達の阿鼻叫喚に阿部はヘルメット毎頭を抱えた。
成りたてとはいえ指揮官としては大失態。
だが生きて帰れば笑われようと貴重な経験。帰れねば恥と屍しか残せない。
「どういうこと?」
指揮所の混乱振りを伝える同僚の言葉に八神は聞き返す。
陸自の火砲部隊が霧の発生源に攻撃を加えるというのは聞いていた。
しかし遥か遠方からの射撃で反撃の恐れなど無い作戦と聞いていた。
だが、今もたらされた情報では、その安全なはずの部隊が霧の爆撃に晒されているというのだ。
「霧が爆撃?」
八神達研究室のメンバーが居座るデスク群の隣のデスク群にちゃっかり居座っている松山が口を挟む。
松山達には専用の待機室があてがわれているのだが、何故か松山はそちらに行きたがらない。
「霧を只の異常気象だと思っていれば足元を掬われますよ」
これも又ここの居心地がいいのか、松山と共に居座っている立花が、松山の問いに答える。
親子程も年齢が違うし、境遇も恐らく似ても似つかぬだろう松山と立花。
人の縁という物は分からないものだと二人を見ていて水橋はつくづく思う。
今ではまるで親子の様につかず離れず。
「出るかね?」
現場上がりの松山が我先にと身を乗りだす。
「情報が足りません」
この場に居る人間の中では最年少の筈だが、一方でこの場に居る人間の中で最も冷静に状況を把握しているであろう立花が発言する。
「部隊編成もまだですしね」
続けて立花は釘を刺す。
「逸る気持ちはわかりますが、軽挙妄動は自滅を招くだけだと思いますよ」
忌々しいほど冷静沈着な立花に、松山は舌打ちしながらも逆らう事はしない。
実際、立花の発案による対ミスト兵器部隊。といっても改装を施した放水車に過ぎないのだが。
車両は揃えたが、隊員の訓練も行き届かないし、対ミスト戦闘なぞ隊員の誰も経験していないのだ。
いざ霧に対峙してどう戦えばいいのかの戦術も手探りなのだ。
松山だけではない。八神も、水橋も、暫定的ながら対ミスト戦闘の参謀役を任された立花も内心は「徒手空拳」の心境を免れていない。
「せめて一人でも実戦経験者がおったらなあ」
しみじみと松山が呟く。
「ワシもとうに戦争が終わった世代だから大先輩に聞いた話でしか知らんが」
「勝敗に関わらず、戦場から生きて戻ったちゅう事実を持ち帰った人間がおると度胸が据わるもんらしい」
勿論戦争など知らないし、松山の言い分も半分も理解出来はしないのだが、八神も立花も不思議と共感は出来た。




