母性
「あっちだ!」
良平の叫びにまだあどけなさを残すポニーテールの少女、順子が頷く。
商店街の入り口、逃げ惑う人々が右に左へと蜘蛛の子を散らしていく。
つい先程だ、本来は商店街の広報の為に使われるスピーカーが霧の発生を知らせた。
始めは比較的冷静に避難を呼びかけていたアナウンスが、次第に緊迫感を増し、ついには悲鳴の如き放送に変わるのに時間は要しなかった。
「そっち行ったら下りだろうが!」
良平の言葉を揶揄するような声を上げたのは同級生の男子。
「霧から逃げるのに下ってどうするんだよ」
追い打ちをかけるように続けるもう一人の男子。
下校時間と重なったせいでメインストリートには制服姿の男女が数多い。
非常時にも関わらず下卑た物言いで良平の発言が否定されるのはここに至るまで、普段の良平が同級生やクラスメート達にどう思われていたかだ。
小太りで近眼、絵に描いた様なオタク少年の良平は憎まれこそしないが好まれもしない。
有体に言ってしまえば誰にも相手してもらえない生徒だ。
良平自身は別にそのことを気にも留めてはいなかったが。
いや、それは嘘だ。
表向きはへらへら笑って周囲の態度を受け流していたが、内心はいつも冷や汗。
いつへまをやらかしてみんなの標的になってしまわないかとビクビクしていた。
だが、怯えた様子を見せればそれもまた格好の餌になりかねない。
からかい甲斐のある奴だと思われても困ると、常に周囲の反応に怯えて作り笑い。
そんな態度が誰にもまともに相手されない要因なんだと分かっていても、いざ人を目の前にすると作り笑顔を作ってしまい。自分の頬を切り裂いてしまいたい歪んだ衝動が自分の中に湧いて苛立つ。
男子の言葉に、良平について行こうとしていた順子が立ちすくむ。
「でも良平君が」
「そいつの言う事の方が信用出来ると?w」
あからさまに嘲笑を浮かべる男子の言葉にも順子はいいつのる。
「でも目算があるからこそ指示出してるんじゃ…」
順子の援護は嬉しかったが、逆に良平は俯いて黙り込むしかなかった。
根拠があって言った訳ではないからだ。
只、不意に身体の内に湧いた衝動があっちだ、と教えただけだ。
そんなことを説明できるわけがない。
それでなくとも普段からオタクとからかわれているのに。
虫の知らせなんて言おうものならどういう反応が彼等から返ってくるかは火を見るより明らか。
良平の沈黙にさっきの男子が口を開く。
「向こうのビルに行こう、頑丈で高い建物の方がまだ安心だ!」
男子の言葉に何故か良平の脳裏で警報が鳴る。
だが良平にそれを口にする度胸は無い。
順子が顔色を窺うように良平を見るが良平は目を逸らした。
又だ、また俺は繰り返す。
良平は心の中の臆病な良平に唾を吐きかける。
背を向け、顔を伏せ、猫背の自身の姿を、一段高い視点から見下ろす自分が居る。
か弱い少女を、守り、導く力強い良平の姿をまだ脳裏の隅で描いて自分を慰める良平。
男子生徒は背中を丸めてついて来る良平と、その背中をついてくる順子の姿に顔をしかめてあからさまな不快感を示す。
こんなオタク男のどこがいいのか。
どう見ても俺の方が男として上だろうが。
男子は誰に言う訳でも無く口の中で毒づく。
男子も別に順子に気が有る訳でも無し。
単に明らかに自分より劣る男子に、女子がついていくのが面白くないだけだ。
リーダーシップを発揮したいのか、良平の意見を否定した男子が先頭に立ち。
数人の男女がそれに続き、さらにその後方に良平、順子達が続く。
商店街前の道路も右往左往する住民でごった返している。
男子生徒に続きビルに向かう路上、突然感じた激烈な気配に良平は左足を軸にその場でターンして後ろから小走りについてくる順子の行く手を塞いだ。
「!!」
突然進路をふさがれた順子はたたらを踏んで止まり切れず、良平の胸に飛び込んでしまう。
体当たりした良平の胸の感触に順子は驚く。
胸板が厚い。
つい手を掛けた良平の上腕の筋肉が隆と感じる。
順子の知っている良平は、言っては悪いが小太りの贅肉の塊。
顔を上げれば間違いなく見知った良平の顔なのに、皮膚に感じるこの感触は何なのか。
良平が意識してやった訳でも無く、良平の両腕が拡げられ、順子の視界を奪う。
刹那、良平の前方、数歩先を走っていた女生徒の悲鳴が轟く。
良平の腕に視界を遮られていた順子には見えなかったが。右前方、逃げ惑う人々の中に。乳児を抱えて立っていた母親と思しき女性の頭部が、飛来した大きな影に持ち去られるのを女生徒はモロに目撃してしまったのだ。
頭部を失った女性の身体はゆるりと半回転すると、意志を失ってまだ身体は我が子を守ろうとしたのか仰向けに道路に倒れた。
良平の左腕が順子の顔を胸に抱くように抱え、数歩踏み出した良平の右腕が今にも絶叫を迸らせようとする乳児の襟首を掴み上げると順子のそれなりに存在を主張する胸元に押し付ける。
突然押し付けられた小さな暖かい塊に、順子の中の何かが答えた。
抱え込んだ小さな塊がまだ育ちかけの順子の乳房をブラウスの上から掴む。
痛みと共に感じる疼きに戸惑う順子。
その順子の背中を優しく押しやり前方の男女の集団に誘う良平。
流れるような一連の行動、だがこの時点で良平は己の行動を自覚できてはいない。
慌ただしくビルの入り口をくぐった一行はエスカレーターを駆け上がり、息もつかず3階まで昇ると大きな催事場を思わせる部屋に籠った。
窓の外は相変わらず霧が立ち込めてはいるが、今の所ビルの周辺には怪物も姿を見せてはいないようだ。
固まってへたり込む人々の中、部屋の隅の方に座る人影の中に見覚えの有るポニーテールを見掛け、ふらふらと近ずく良平。
路上で安全の為集団の中に押しやった順子が、無事な姿を確認しようとポニーテールに近づいた良平は、順子まで後数メートルという距離に近づいた時、順子の後ろ姿に凍り付いた。
その後ろ姿に、順子が何をしているのか分かってしまったのだ。
順子のブラウスの左肩が少しはだけている。
順子は乳児を抱えて逃げて来たのだ。
あり得ない光景に良平は歩を緩めゆっくり順子に近づく。
気配に気づいたのか、順子が伏し目がちに振り向き小声で良平に告げる。
「おっぱいあげたら寝ちゃって」
脳天を殴られたような衝撃を覚えつつ順子の隣に腰を下ろす。
「お、お前」
順子に掛ける声が震える。
「あたしまだバージンだから…」
安心させるセリフだが、目の前で順子の小さな乳房を咥えて安らかな寝顔を見せる乳児との違和感に良平の頭はどうにかなりそうだった。