素顔
車を道向かいまで移動して、グラウンドに駆け戻った弘明はトラックの白線の上、四つん這いの明美の姿に、なんで明美はあの衣装を選んだのだろうと思った。
良く分からぬまま適当にかき集めた女性用衣類。
正確な年齢もサイズも知らず。言ってしまえば、まだ女性も知らなかった少年弘明が、青臭い印象と思い込みだけで選んだ衣装。
その中から明美が今日選んできたのが、白いサマーセーターに白いスカート。
とりどりの衣装を選んできたはずなのだが、明美が今着ているのは只純白の上下。
ぺたりと腰を下ろした明美の向かいに巨大なヒグマを連想させる肉塊を弘明は認める。
ヒグマといっても似ているのはそのシルエットだけ。
その体表面には毛など無く、生肉を思わせる脂の如きぬめり。
シルエットの顔に当たると思われる上部に、大きく開いた洞。
弘明の眼がその洞の中に一瞬、見知った2本の異物を見る。
洞が蠢き、咀嚼していると弘明が理解した時、明美が両手を挙げた。
肘から先が無い。
弘明の思考が形を成すより早く、弘明は我が身の背中が裂けるのを感じた。
揺らめく明美の姿目掛けて弘明は飛翔した。
天を仰ぐ明美を、最早腕とも呼べぬ弘明の左の翼が覆う。
鉤爪を有した弘明の右の翼が眼前の肉塊を横殴りに薙ぐ。
肉塊はもんどりうってグラウンド外まで跳ね飛ばされる。
全身の骨と言う骨、腱という腱がビキビキと音を立てる感覚が何処か遠く感じる弘明。
理解は出来ない。
出来ないが感じる事は出来た。
そして知った。自分が知るべきことがなんだったのか?
巷の噂で聞こえていた、霧がもたらす異変。
変化を遂げた我が身に、期待していたような喜びも、心踊らされる感動も無かった。
只分かったのは「遅すぎた」という事。
物心ついた時から優秀な両親に育てられ、優秀な遺伝子にも助けられてエリート街道まっしぐらだった弘明。
言われなくともペンを握り、急かされる前に参考書を開いた弘明。
両親は自慢し、結果必要以上に自我を肥大させてしまった弘明。
学業は勿論の事、やり手の両親に似て、耳年増になった弘明は、その年齢にしては早過ぎる世の中のあれこれまで学んでしまい、為に肝心な事柄を学び遅れてしまっていたのだ。
遅すぎた。
腕の中で冷えていく柔らかな身体を抱きしめて、弘明は慙愧の念に身悶えする。
何故こういう事を学ばなかったか?
小指を握ってくれた赤子が教えた慈しみ。
明美の膝が示してくれた温もり。
幾何学よりも。
社会学よりも。
経済よりも。
学ぶべき肝心な学びに、気付くのが遅すぎた。
だからこの温もりは失われる。全て自分自身の責任だ。
変身した弘明の威容に萎縮したように引いてゆく霧の中、弘明の身体は少年の姿を取り戻していく。
冷えてはしまったが、慰め合った明美の骸を抱きかかえて弘明は立ち上がる。
魂の去った明美の素顔は、苦しみも悔やみもあらゆるしがらみから解放されたように清々しい微笑みを浮かべていた。
子供の所に連れて行ってやらなくちゃな。
冷たい明美に頬ずりして、赤ん坊の待つ車へと歩き出す弘明。




