逆鱗
まさか我が身で知る事になろうとは。
背中を貫くような衝撃に、霧がもたらす異常をその身に実感して弘明は咆哮する。
天に向かって突き上げた明美の両手にもう肘から先は無い。
生まれながらに父親を持たぬ我が子をその手に抱いた手のひらも、少年の背中を掻きむしった細い指も失われた。
今は差し上げられた腕から滴る鮮血が白い明美の身体を染めていくばかり。
失われる血液に体温も奪われて、冷えていく己が身体を意識しながら明美は思った。
ああ、やっぱり。
少年を己が内に迎え入れた時理解していた。
自分は悪魔に魂を売ったのだと。
だから取り立てが来たのだと今再び認識する。
子供を車に残してきたことだけが救いと言えば救いだなと、遠のきかける意識の隅で思う。
恵まれた人生が送れたとも思わない。
普通の家に生まれ普通の学生生活を送り、普通に就職して普通の人生を送るのだとあの男に出会うまでは思っていた。
仕事に不慣れな明美を何かと気にかけ面倒を見てくれた上司に、恋愛経験も無いまだ年若い明美の気持ちが傾くのに大して時間は掛からなかった。
きっかけは些細でも許されぬ仲であればこそ気持ちは燃え上がる。
いつの間にかあの男の妻と、気持ちで張り合うようになっていた明美。
そしてその明美の気持ちが、明美一人の幻想だと言う事を思い知らされた。
悪い人生じゃなかったよ。
後悔しながらも明美は自分に言い聞かせる。
一時地獄も味わったけど、あの少年がほんの一時とはいえ又夢を見せてくれた。
突き上げた失われた両手の先、濃霧に覆われた上空に青空が垣間見えた気がした明美。
あの少年と先に出会っていたら。
考えても無駄な事を今更のように考える。
この生がどんな終わり方をするのか。
差し上げた両手から零れる鮮血を、少しの間でもあの少年と出会えたこの生を引き延ばそうとするように腕に口をつけて啜る。
あと何秒生きていられるか分からぬこの事態に、見苦しく生に縋る我が身が狂おしく愛おしい。
もっとあの少年と一緒に居たかった。
充実した時間ではあった。
あの男と過ごした何年よりも遥かに濃く、遥かに満たされる時間を過ごした。
けれどあまりに短い。短すぎる。
未練だけが残る。
血液と一緒に未練も流れ出てしまえばいいのに。
未練が血と共に流れ出て、あの少年が与えてくれた涙が全て洗い流してくれたらいいのに。
よろめく身体を一層伸ばして明美は天空に手を差し上げる。
一瞬の迷いが弘明に選択させたのだ。
どちらもは救えない。
意を決して街を出ようと車を走らせた弘明達。
東京の父親の元へ行こうとした訳ではない。
只此処に居てはいけないと、急かされるような気持に押されて家を出てきてしまったのだ。
街を離れてしまえば霧に怯える心配は無い。
口座の金が続くうちはモーテルでも渡り歩けばいいしと弘明らしからぬ安直な考えで出てきてしまった。
車庫に仕舞いっぱなしの母の車を引っ張り出し、身の回りの物を積めるだけ積むと弘明がハンドルを握って車を出した。
18の誕生日を迎えるとすぐ、親が不在なのをいいことに早々に教習所通いを始め。当然の如く学科も実技も一発合格し、学校の手前人目の有る時こそ運転はしていないが、親の目の届かぬ独り暮らし。人目を忍んで幾らも運転はしていた。
寄るつもりなど毛頭なかった高校だが、どうした訳か学校が近づくにつれ激しく泣きだした赤ん坊。
「お乳かな」
後部座席で胸をはだけた明美だが、泣き止む気配は無い。
「御免ね、おむつ変えるから何処かにちょっと止めてくれない?」
僅かに胸騒ぎはしたが、弘明は良く知っている高校のグラウンド近くの駐車場に車を停めたのだ。
「まるで夜逃げみたいだね」
自嘲気味に呟く明美の姿を、運転席で身体を捻りヘッドレストの横から覗く弘明。
明美の言葉に様々な想いが弘明の脳裏を巡る。
何から逃げようというのだろう。
恐ろしい霧か?
空虚な現実か?
見通せぬ未来か?
明美と過ごした時間、赤子をあやした温もり。
どちらもこれまで弘明が知らなかった実体の有る現実だった。
だったらこれまで弘明が生きていた、いや、生きていると信じていたあの現実はなんだったのか?
想いに囚われていた弘明に明美の叫びが弘明の意識を現実に引き戻す。
「霧っ!」
叫ぶなりドアを開け飛び出す明美。
グラウンドの方へ駆け出しながら弘明に叫ぶ。
「その子をっ!お願いっ!」
子供か?明美か?一瞬の躊躇いが弘明の決断を待つまでも無く二人の運命を形づけた。




