脱皮
正直、目覚めた時に腕の上に乗っていた明美の白い顔に、弘明の時間が止まったのは事実だ。
ハッキリした記憶は無いが、柔らかさ、熱さは明確に記憶の底に刻まれている。
想像したより遥かに熱かった。文字通り弘明は溶けた。
明確な快感の記憶などは無いのだが、「扉が開かれた」という認識だけはあった。
後頭部に繰り返し鈍器で小突かれる様な鈍い痛みを感じながら何とか明美の頭の下から腕を抜いた弘明はベッドを抜け出し、自分が全裸で寝ていたことに狼狽える。
バスルームに向かいながら思わず2階の子供の声に耳をそばだてる自分に苦笑する。
腰に重いような軽いような得も言われぬ感覚を抱えながら熱めのシャワーを浴びる。
熱い湯を頭から浴びて、その刺激に後頭部の鈍痛が幾らかやわらぐ。
皮膚を伝わる刺激に、徐々に昨夜の記憶が朧げに蘇る。
唇を這わせた明美の白い肌、擦れ合った太もも。
まだ霞が掛ったような頭を振り、バスルームの壁に両手をつく。
ただこうしているわけにはいかない。
昨夜の記憶と並行して霧の事が思い起こされる。
異常事態は少しも改善されていない。
このままここでこうしていていいものか?
「あたしにも浴びさせて」
突然身体を寄せられて弘明は頭を上げる。
身体をくっつけて平然とする明美に、よけ様とも思わない自分。
これが男女の仲と言う奴か。
実感と言えるものも感じないが、お互い触れても心地よいばかりでまるで違和感も感じない。
呑み過ぎたアルコールの所為か、霧の出現からこのかた、未体験の出来事の連続に気持ちが追い付いて行かないのか、明美に身体を寄せられるまで明美がバスルームに入って来たことにまるで気付かなかった弘明は、シャワーヘッドを掲げる明美の二の腕に見とれつつ声を掛ける。
「やっぱりここ離れた方がいいのかな」
シャワーのお湯を肩にかけながら明美が答える。
「行くあては有るの?」
明美の質問に弘明は答えに詰まる。
正直、東京に行けば父親が居るのだ、迷う事など必要ないはずなのだが。
答えない弘明に明美が身体を一層寄せる。
「急いで決めなくちゃいけないのかな?」
東京の父親の元へ行くなぞ本音を言えばまっぴらな弘明。
そもそも父が東京で、誰と、どんな生活をしているのかも知らないのだ。
まして目の前の明美や乳飲み子を連れて行ったりなぞしようものなら。
「焦らずもう少し考えようか」
自分から話題を振った癖にあっさり引っ込める弘明。
肩に額を押し当てられて、弘明は思わず明美の背中に手を廻す。
子供の泣き声は聞こえない。
神経が鋭くなっているのか、まだ暫くは大丈夫と、頭の奥の声に導かれて弘明は明美を抱き寄せる。
若い弘明の腕に抱すくめられて、何故か明美は場違いな切なさに包まれる。
何故?
何故切なくなる?
自分は何を予感している?
訳も分からず。明美は目の前の少年の胸板に顔を埋めた。
地上の人の営みを嘲笑うかのように山頂では霧が身じろぎしていた。




