錯乱
「あの、なんで…」
振り向いて立ち止まった順子は、目の前の長身の上級生。風紀委員で見知った弘明に話し掛ける。
話しかけられた弘明は彫像のように立ち尽くすだけ。
普段は沈着冷静、下級生は言うに及ばず教師にも一目置かれる弘明だが、自分の身体が自分の思うようにならない現実に、思考がついて行かない。
目の前の上級生の様子に戸惑う順子に、並んでいた若い母親が尋ねる。
「お友達なの?」
「あ、いえ、高校の先輩です」
順子の説明に、いまいち納得していないような母親は、あからさまに訝し気な視線を弘明に向ける。
この母親の態度に、固まっていた弘明が僅かに反応する。
なまじの大人になぞ怯える事など無い弘明だが、所詮高校生。
乳児を胸に抱き、見るからに大人の女性に、知識は兎も角、異性との接触経験とはおよそ無縁な生活を送っていた弘明は無意識に怯える。
幾ら参考書を読んだところで計り知る事が出来ない体験だけは、単純に弘明より早く生まれ、早く経験する大人には叶わない。
「あの、状況から考えて…」
弘明はなんとか辻褄の合う言い逃れをしようと、混乱する頭を整理しようと試みる。
「不自然な要素が多過ぎると思うんですよ…」
何時もの不遜な態度が出ていない事に、自分でも焦る弘明。
脇の下に嫌な汗が流れるのが分かって焦りを加速させる。
眩暈がして今にも吐きそうだ。
なんでこんな目に合うのかと、誰にともなく口の中で毒づいて何もかも投げ出したくなる。
こめかみに血が集まるのが感じられ。前方に倒れ込む自分の姿が浮かびかけて、弘明は額に充てられた布の感触に意識を取り戻す。
「先輩…酷い汗」
充てられていたのは順子が差し出したハンカチ。
額の汗が吸い取られて、放射冷却効果か暴走しかけた弘明の熱を奪っていく。
よろめきかけた弘明の腕を若い母親が支える。
再び眩暈を感じる弘明だが、先程の眩暈とは明らかに違う感じ。
さっきの眩暈が底なし沼に落ちていく様な感覚なら、今の眩暈は太陽を直視し過ぎて眩しさによろめく感覚。
暗闇に堕ちかけた弘明が、明るい現実に引き戻されて最初に目にしたのが乳児の瞳。
見られている。
ハンカチを弘明の額に充てる順子の胸の前。
ベビーベルトに収まって、真っすぐ前を見る乳児の視線は、明確な意思を持って弘明の瞳を捉える。
なんだこの子は?
なんだこの眼は。
自分を支える二人の女性と、いまだ自我すら芽生えていないはずの乳児が見せる力強い瞳。
その瞳の中に。
人より強く。
人より賢く。
人より狡猾で。
人より強欲で。
人より傲慢で。
人より臆病で。
人より卑しい自分がハッキリ見える。
弘明は初めて見る真実の自分の姿に鞭打たれる。
痛い。
苦しい。
切ない。
そしてなにより狂おしいほど恥ずかしい。
今度こそ、間違いなく弘明は気を失った。
但し、不快にではなく気持ちよくだ。




