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#017『透明な迷子たちへ』

掲載日:2026/06/14

 とあるロスに陥っているとおっしゃってくださった方へ、お薬代わりの掌編です。


 空が潰れた無花果いちじくのような色に濁る、夕暮れ時。

 周りの期待に応え、「正しい未来」のために自分を押し殺して生きる17歳の少女がいました。

 完璧でいなければならない重圧のなか、息の浅さを抱えて歩く彼女の鼻腔を突いたのは、都会の片隅から漂う、芳醇で温かいおでんの出汁の香り。

 ビルの隙間にひっそりと灯る、小さな赤提灯。

 逃げ込むように暖簾をくぐった彼女が、寡黙な店主の差し出す「一杯の器」と出逢うところから、この物語は始まります。

 少しだけ心が疲れてしまった夜に、温かいお茶を片手にお楽しみください。

 『透明な迷子たちへ』


 空が潰れた無花果いちじくのような色に濁っていた。

 紫と橙が不器用に混ざり合い、境界線から夜が滴り落ちていくマジックアワー。都会の喧騒を数駅離れたこの街の路地裏には、肺の奥を刺すような、無機質で乾いた冷気が淀んでいた。

 少女は磨き上げられたローファーの踵をアスファルトに刻みながら、重たいスクールバッグのストラップを指に食い込ませた。

 紺のブレザーの肩には、完璧に手入れされた艶やかな黒いロングヘアが静かに流れている。正しく結ばれた赤いリボンと、微塵の乱れもないブルーチェックのスカート。それは彼女が、母親の設計した「正しい未来」という名の温室で育てられた、高価な標本であることを示していた。

 進学校の順位表の、その最上段に刻まれる数字。それが彼女のすべてだった。そこから一歩でも外れることは、自身の存在そのものが霧散することを意味している。肺の奥を薄氷で削られるような呼吸の浅さを、彼女はもう数年も感じていた。

「どこへ、行けばいいんだろう……」

 湿ったコンクリートの壁に吸い込まれていった呟きは、誰の耳にも届かない。

 その時だった。

 少女の鼻腔を突いたのは、記憶の地層を激しく揺さぶるような、芳醇でいて鋭い香り。

 醤油の焦げる香ばしさ。

 鰹節の野性味のある旨味。

 そして、それらすべてを包容する昆布の、深く静謐な沈黙。

 香りは路地の湿り気を切り裂くようにして、彼女を誘っていた。

 角を曲がった先の、古いビルの隙間。

 およそ商売には向かない袋小路に、ぽつんと赤い提灯が灯っていた。

 煤けた木製の屋台。長年使い込まれた厚手の暖簾が、内部の熱気と明かりをひっそりと守っている。ただ、そこだけが街の時間の流れから切り離された、異界の入り口のように見えた。

 彼女は、逃げ込むようにその前に立った。

「……ごめんください」

 その丁寧な言葉遣いのかすれた声で暖簾のれんを押し上げると、一気に溢れ出した熱い湯気が、彼女の顔を包み込んだ。

「いらっしゃい。ちょうどいい出汁だしが出たところだ」

 それは低いが、よく通る声。

 視界が晴れた先にいたのは、使い込まれた藍色の作務衣さむえまとった男だった。深く刻まれた眉間の皺は、何か一つの真理を凝視し続ける職人の矜持きょうじに見える。

「あ、あの、いいですか……? 高校生ですけど」

「おでんに身分証はいらないよ。そこに座りな」

 男はカウンターの下から丸椅子を引き出した。腰を下ろすと、古い木の温もりがスカート越しに伝わってくる。

 目の前の四角い鍋の中では、琥珀色の海が静かに波打っていた。

「なにから、いくかい」

 店主の声に彼女は戸惑った。常に「正解」を求めてきた脳が、ここではうまく働かない。

「……大根。それから、卵を」

「あいよ」

 店主が鍋の底から掬い上げた大根は、中心まで均一に、そして美しい透明感を伴って煮含められていた。

「いただきます」

 箸を割り、大根の角を切り落とす。抵抗はまったくない。口に運ぶと、まず柚子の爽やかさが鼻を抜け、その直後に、暴力的なまでの旨味が溢れ出した。

「熱っ……」

「ゆっくり食べな。逃げやしない」

 彼女は、その温もりを必死に飲み込んだ。家で食べる、整いすぎた化学調味料の味とは決定的に違う。どこか複雑で、苦味やエグ味すらも包容力に変えたような、深い慈しみ。

「おじさん、この出汁……」

「利尻の昆布と、枕崎の枯節かれぶし。あとは、この街の空気だ」

 店主は手際よくがんもどきを仕込みながら言った。

「街の空気?」

「そうさ。毎日同じように作っても、雨の日と晴れの日じゃ味が変わる。行き交う人たちの溜息が多い日は、少しだけ塩を控えるんだ。そうしないと、味が尖って食えたもんじゃない」

 店主の言葉は彼女の胸の奥にある、ずっと閉ざしていた扉を静かに叩いた。

「溜息……。私の味も……わかりますか?」

 彼女は自分でも驚くほど素直に尋ねていた。

 店主は手を止め、初めて彼女の目を真っ直ぐに見つめた。

「お嬢ちゃんのは、味が染み込みすぎて、自分の形が崩れかけてる大根みたいだ」

 彼女は息を止めた。

「周りの出汁に合わせて、自分を透明にしすぎた。煮崩れる寸前だ。これ以上火を通すと、自分という種が溶けてなくなっちまうよ」

 目頭が急に熱くなり、視覚が歪む。

 母に言われるがままの塾。友人たちの視線。学校と社会での立場。完璧でいなければならない重圧。それらすべてが混ざり合った「出汁」の中で、自分を殺して泳いできた。透明になることが、唯一の生きる術だと思っていた。

 その時、カバンの奥で、微かな振動が始まった。

 ブブブッ、ブブブッ。

 膝の上にのせていたスクールバッグから太腿へと伝わる不快な震えに、彼女は息を呑んだ。カバンの中の暗がりで冷たく浮かび上がっているだろう白い光。そして三文字。

『お母様』

 心臓が跳ね上がる。その三文字は、温かい屋台の空気を一瞬にして凍りつかせる、鋭い氷柱のようだった。

 震えは止まらない。逃げ場のなさを突きつけるような、重く無機質な振動。

 店主はその様子を黙って見ていた。そして、鍋の隅にある、不格好な巾着を彼女の皿に置いた。

「それを食べてみな。特製だ」

 彼女は震える手で箸を持ち、その巾着を半分に割った。

 中から現れたのは、およそおでんには不釣り合いな、荒く刻まれた蓮根(れんこん)だった。

 一口噛み締める。

「……あ」

 口の中で、シャキシャキとした力強い音が響いた。周りがどれほど熱く、どれほど出汁に浸かっていようとも、その蓮根は頑固なまでに自分の硬さを保っていた。

 その独特の食感が、彼女の脳の奥底に眠っていた「色」を呼び覚ます。

 ――中学二年生の時の、雨が降り出しそうな夕暮れ。

 高架下の湿った段ボール。

 ザラザラとしていて生温かかった舌。

 「大丈夫だよ」と囁いた自分の声。

 誰にも内緒で過ごした数日間。

 空っぽの段ボールを見つめたときの、あの胸を突くような寂しさと、同時に感じた「自分の意志で何かを守った」という、たしかな手応え。

 あの時の自分は、まだ煮崩れていなかった。

 母親の「出汁」に染まりきらない、自分だけの「硬さ」を持っていたはずだ。

「……歯ごたえがある。おでんなのに、全然、馴染んでない」

「そうだ。そいつは『馴染まない』のが仕事だからな。そいつが一人入るだけで、おでん全体の格が上がるんだ」

「……格」

「そうだ。——お嬢ちゃん、全部が同じ柔らかさである必要はないんだよ。自分の芯だけは、蓮根みたいにシャキシャキさせておきな」

「芯……」

 膝の上のカバンは、まだ震えている。

 だが、先ほどまでの「侵食される恐怖」は、もうなかった。

「おじさん、おいくらですか」

「五百円だ。高校生割引」

 彼女は五百円玉を置き、ゆっくりと立ち上がった。指先にはまだ、おでんの熱が残っている。

「ごちそうさまでした。……あの、また来てもいいですか」

「気が向いたら、いつでもな」

 屋台の外に出ると、空気はすっかり夜の冷たさを纏っていた。

 彼女は立ち止まり、夜空を見上げた。都会の灯りに隠された、数えるほどの星。

 カバンからスマホを取り出す。画面には、不在着信の履歴。

 彼女はそれを一瞥し、すぐにはリダイヤルしなかった。

 一度、大きく深呼吸をする。肺の中に、おでんの出汁の香りと、冬の夜の冷えた空気を同時に吸い込む。

 一分。

 たったそれだけの時間を、自分自身のためにだけ贅沢に使ってから、彼女は電話を掛けた。

「……もしもし、お母さん」

 声を出した瞬間、自分の声が驚くほど静かで、確かな輪郭を持っていることに気づく。

「ごめんなさい、いま、駅に着いたところ。すぐ帰ります」

 歩き出した彼女の足取りは、先ほどよりもずっと力強かった。

 彼女の胸の奥には、いま、あの一切れの蓮根が宿っている。

 周りの色に染まったフリをしながら、中身は決して譲らない、自分だけの歯ごたえ。

 曲がり角を過ぎる直前、彼女は一度だけ振り返った。

 ビルの隙間の暗がりに、琥珀色の光が小さく揺れている。

 それは、迷子たちの帰る場所ではなく、再び荒野へと歩き出すための、ささやかな灯火ともしびだった。

 少女は小さく微笑みながら息を吐くと、光の差す大通りへと、確かな一歩を踏み出した。



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ありがとうございます。 わたしのたわごとに応えていただいて、嬉しくて仕方がありません。 久しぶりに、大好きだった旧友に逢えた気分です。 こんなサプライズは初めてです。 本当にありがとうございます。 第…
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