毒杯の夜
王宮の大広間が燭台の光で金色に染まる。
外交使節団の歓迎晩餐会。国王、第一王子アレイン、第二王子エドワルド、そして宰相ダリウス。宮廷の重要人物が一堂に会する夜だった。
私は毒見師として広間の隅に控えている。王と王太后の食事は全て事前に毒見を終えた。問題はなかった。
しかし——嫌な予感がする。
ダリウスが穏やかに微笑みながら、使節団と談笑している。数日前に私に「警告」をしてからダリウスの態度は表面上何も変わっていない。
それが逆に怖い。
あの男が何もしないはずがない。
晩餐が進む。料理が運ばれ、杯が満たされる。私の管轄は王と王太后の食事のみ。第一王子と第二王子の食事は、それぞれの侍従が管理している。
エドワルドの侍従。前世の記憶を探る——ダリウスの配下に入れ替えられたのは、いつだっただろうか。
前世では二年目だった。しかし今世では、全てが加速している。
三皿目のデザートが運ばれてきた。ワインが注がれる。
エドワルドの前に、赤い果実酒の杯が置かれる。
距離がある。私の位置からでは——匂いは分からない。
だが、侍従の手が——少し、震えていた。
前世の記憶が閃光のように走る。
最後の夜。果実酒。甘い香り。そして——喉が灼ける。
同じだ。同じ構図。
エドワルドが杯に手を伸ばす。
体が動いていた。
「お待ちください、殿下」
広間を横切る。貴族たちが驚いて道を開ける。エドワルドの手が杯に触れる寸前——私の手がその杯を掴んだ。
「セラフィーナ嬢? 何を——」
国王の声。広間中の視線が私に集まる。
「申し訳ございません。毒見師として——確認させてください」
杯を鼻に近づける。
赤い果実酒の香り。その奥に——甘い。花のような。睡蓮花の根の毒。
だが濃度が違う。今までの遅効性ではない。これは——致死量だ。
手が震える。これを飲んでいたら、エドワルドは今夜——
「どうされましたか、セラフィーナ嬢」
ダリウスの声が背後から聞こえる。穏やかに。
ここで「毒です」と叫ぶのは簡単だ。しかしそれは——ダリウスに直接疑いの目を向けることになる。まだ確定的な証拠を王の前に示せる段階ではない。中途半端な告発は、逆にこちらが潰される。
一瞬の判断。
「——申し訳ございません。果実酒の醸造に用いた添加物が、殿下のお体に合わない可能性がありまして」
嘘だ。だが、この場を収めるには必要な嘘。
「毒見師として、念のため別の杯をご用意させていただきます」
エドワルドが私を見ている。灰色の瞳に——理解の色。彼は馬鹿ではない。私が何を防いだか、察している。
「……分かった。別のものをもらおう」
エドワルドが静かに頷く。
新しい杯が用意される。今度は私が確認した果実酒。安全だ。
晩餐は再開された。だが空気は変わっていた。
ダリウスが私を見ている。穏やかな微笑み。だがその奥に——
怒りだ。計画を邪魔された怒り。
晩餐が終わり、貴族たちが広間を去る。
廊下に出ると、エドワルドが待っていた。
「……あの杯に何があった」
低い声。周りに人がいないことを確認して、私の前に立つ。
嘘をつくべきか。
エドワルドの灰色の瞳が、逃げることを許さない。
「……致死量の毒が含まれていました」
エドワルドの目が見開かれる。そしてすぐに——険しくなる。
「誰が」
「まだ、確証がありません。ですが——」
「宰相か」
直感で当てた。この人は、薄々気づいていたのだ。自分が狙われていることを。
「殿下——」
「なぜ、そこまでする?」
エドワルドの声が——わずかに震えていた。怒りではない。困惑だ。
「管轄外の王子の杯を奪い、宰相に目をつけられるような真似をして。お前にとって、俺は何だ」
答えに詰まる。
「前世で救えなかった人です」——とは言えない。
「……あなたを死なせたくないからです」
言葉が口をついて出た。嘘ではない。私の中にある、最も純粋な動機。
エドワルドが息を飲む。
しばらくの沈黙。
「……馬鹿だな」
エドワルドが、小さく呟く。
「お前が死んだら、誰が毒を見つけるんだ」
それは——不器用な、心配の表現だった。
「死にません。二度とは」
「二度と——?」
失言だった。しかしエドワルドはそれ以上追及しなかった。
「……明日、薬草園に来い。話がある」
背を向けて去っていく。
一人になった廊下で、壁にもたれる。心臓がうるさい。
エドワルドを救った。前世では救えなかった夜を——変えた。
しかし代償がある。ダリウスは、もう私を放置しない。
時間がない。決着をつけなければ。
エドワルドの命を救えるか——手に汗握る毒杯の夜。
「なぜ、そこまでする?」
セラフィーナが選んだ答えは——




