前世の傷痕
それは突然だった。
厨房で翌日の食材を確認していたとき、白い粉が目に入った。
小麦粉だ。ただの小麦粉。料理人が生地をこねるために篩にかけていた、何の変哲もない粉。
なのに——体が震え始めた。
白い粉。杯の底に沈んでいた、あの白い粉。
石灰砒素ではない。最後の夜に使われた、もう一つの毒。名前すら分からない、ダリウスが特注で調合させた毒。無味無臭で、飲んだ瞬間は何も感じない。三十分後に——喉が灼ける。
視界が歪む。
ここは厨房だ。あの夜ではない。
分かっている。分かっているのに——
「セラフィーナ様?」
メイの声が遠い。
前世の記憶が奔流のように押し寄せる。最後の晩餐。果実酒の甘い香り。安全だと判断した——はずだった。
一口飲んで、三十分。執務室で報告書を書いているとき、突然喉が灼けた。
声が出ない。息ができない。廊下に倒れ込んだ。メイが駆けつけた。泣いていた。
遠くなる意識の中で理解した。自分は殺されるのだと。三年間、忠実に毒見を続けた報酬が——これだったのだと。
「セラフィーナ様!」
メイの声で意識が戻る。
厨房の床に座り込んでいた。手が震えている。額に冷たい汗が浮いている。
「大丈夫……大丈夫よ。ちょっと立ちくらみがして」
「お顔が真っ白ですわ。お部屋に戻りましょう」
メイに支えられて廊下に出る。足が重い。前世の記憶がまだ体にまとわりついている。喉の灼ける感覚が消えない。
中庭に面した回廊を通りかかったとき、足がもつれた。
壁に手をつく。呼吸が浅い。
「——大丈夫か」
低い声。
顔を上げると、エドワルドがいた。書物を小脇に抱え、こちらを見ている。灰色の瞳に——心配の色。
「第二王子殿下。失礼いたしました。何でもございません」
「何でもない人間はそんな顔をしない」
ぶっきらぼうだが、嘘がない声だ。前世では聞くことのなかった声。
エドワルドがメイに目を向ける。
「水を持ってきてくれ」
「は、はい——」
メイが走っていく。
二人きりになる。回廊に午後の光が差している。
「座れ」
エドワルドが石の手すりを示す。私はそこに腰を下ろした。彼も隣に——十分な距離を取って——座る。
しばらく無言だった。
「……先日の薬草の話、面白かった」
唐突に、エドワルドが言った。
「え?」
「月見草のアルカロイドの話。あの後、自分で調べた。君の言った通りだった」
こんな話を、今するのか。だが——不思議と、呼吸が楽になる。
「古い文献には載っていないんです。実際に乾燥させた種子を舌に載せないと分からない」
「……舌に載せたのか。毒かもしれないものを」
「毒見師ですから」
エドワルドが何か言いかけて、やめた。
メイが水を持って戻ってくる。一口飲む。冷たい水が喉を通る。前世の灼熱の記憶が、少しだけ薄れる。
「ありがとうございます、殿下」
立ち上がろうとする。
「セラフィーナ」
エドワルドが、名前を呼んだ。敬称なしで。
「宮廷は危険な場所だ。——知っているとは思うが」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見ている。
この人は知っている。宮廷が安全ではないことを。自分自身が危険の中にいることを。それでも逃げずにここにいる。
「知っています」
「なら——無理はするな」
不器用な気遣い。だが、その声に嘘がないことが分かる。
胸が熱くなる。前世では交わせなかった言葉。前世では知ることのなかった、この人の声。
「無理はしません。でも——守りたいものがあるんです」
「守りたいもの?」
「はい。今は、まだ言えませんが」
エドワルドが怪訝な顔をする。だが追及はしない。この人はそういう人だ。
メイと共に自室に戻る。扉を閉めて、ベッドに座る。
手のひらを見る。まだ少し震えている。
前世の記憶は消えない。三年分の毒の味は、二度目の体にも刻まれている。
だが——だからこそ、私は戦える。
あの記憶が武器なのだ。恐怖もろとも。
拳を握りしめる。爪が食い込む痛みで、震えが止まる。
「私は、もう一度殺されるわけにはいかない」
声に出して言う。メイが頷く。
前世の私は、従順に死んだ。
今世の私は——生き延びて、全てを暴く。
あの人を守るために。
そして——自分自身のために。




