あの人の横顔
任命から一週間が過ぎた。
毒見の仕事は順調だ。前世の記憶通り、七日目の王の昼食に混入された石灰砒素も検出して防いだ。厨房は大騒ぎだったが、私は冷静に報告書を上げた。
宮廷内での私の評価は、じわりと上がり始めている。
——だが、それは本題ではない。
中庭に面した回廊を歩く。午後の陽射しが石畳に影を落とす。
あの場所に、彼はいるだろうか。
角を曲げると、見えた。
エドワルド。
中庭の片隅、古い石のベンチに座り、分厚い書物を読んでいる。黒髪が風に揺れる。頬は少しこけている——生まれつき体が強くないのだと、前世の記憶が囁く。
足が止まる。
前世では、彼とまともに話したことがなかった。遠くから見かけるだけ。第二王子は宮廷の華やかな場に出ることが少なく、いつも一人でいた。
そして——二年目の冬に、「病」で死んだ。
宮廷は三日間の喪に服した。それだけだった。第一王子アレインが次期国王として確定し、ダリウスはますます権力を固めた。
あのとき私は何も感じなかった。縁のない人が死んだ、それだけだと思った。
今は——違う。
彼は殺されたのだ。ダリウスの陰謀によって。王位継承から邪魔な存在を排除するために、ゆっくりと毒を盛られて。
前世の最後、自分が毒で死にかけたとき、初めて気づいた。エドワルドの「病」の症状と、自分の症状が同じだったことに。
遅すぎた。何もかも。
「……何かご用ですか?」
エドワルドが顔を上げた。灰色の瞳が、まっすぐに私を見ている。
不機嫌ではない。ただ、人に慣れていない目だ。
胸が痛む。この人は、あと二年で死ぬ。前世の流れのままなら。
「失礼いたしました。毒見師のセラフィーナです。中庭が美しかったので、つい足を止めてしまいました」
「……ああ、新しい毒見師の」
エドワルドが小さく頷く。
「噂は聞いている。初日から毒を見つけたとか。大したものだ」
「偶然です」
「偶然で毒は見つからない」
彼の声には皮肉がない。ただの事実確認。前世では知らなかったが、この人は理知的な人なのだ。
「……何をお読みですか?」
問いかけると、エドワルドは少し驚いたような顔をした。自分に興味を持つ人が珍しいのだろう。
「薬草学の文献だ。宮廷書庫にあった古い本で、もう誰も読まないものだが」
「薬草学」
心臓が跳ねる。
「毒と薬は表裏一体だからな。国政に携われない身でも、学ぶことはできる」
国政に携われない——その言葉の奥に、複雑な感情が滲む。第二王子として生まれたが、ダリウスとアレインの体制では発言権がない。だから学問に逃げた。
前世では「やる気のない王子」と見なされていた。本当は、逃げるしかなかったのだ。
「薬草学は私も少し心得があります。よろしければ、お話を聞かせていただけますか」
エドワルドの目が少し開く。警戒——ではない。純粋な驚きだ。
「……構わないが。退屈だぞ」
「毒見師にとって、退屈な薬草はありません」
ベンチの端に腰を下ろす。距離は十分に取る。前世で交わせなかった言葉を、一つずつ拾い集めるように。
エドワルドが開いていた頁は、月見草の項だった。
「月見草の根は煎じれば胃薬になるが、花粉を大量に吸えば眩暈を起こす」
「ええ。そして種子には微量のアルカロイドが含まれています。乾燥させると毒性が増しますが、適切に処理すれば鎮痛剤になります」
エドワルドが本から顔を上げる。灰色の瞳が、初めて私を——ちゃんと見た気がした。
「……詳しいな」
「毒と薬の境界が、好きなんです」
嘘ではない。ただ、その知識を「好き」で手に入れたのではなく、三年間の毒見で叩き込まれたのだが。
しばらく薬草の話をした。エドワルドは寡黙だが、話し始めると止まらないところがある。植物の構造について語るときだけ、少し声が明るくなる。
前世で知ることのなかった、彼の横顔。
ふと、風が変わった。
エドワルドが持っていた陶器のカップ——書物を読みながら飲んでいたお茶——から、微かに甘い匂いが鼻をかすめた。
甘い。果実でも花でもない、人工的な甘さ。
——この匂いを、私は知っている。
前世の最後、私を殺した毒の匂いだ。
体が強張る。
同じ毒が、もうエドワルドに使われている。前世よりも——早い。
「殿下、そのお茶はどちらから?」
「ん? 侍従が淹れてくれたものだが」
声が平静に聞こえただろうか。わからない。
「少し、いただいてもよろしいですか」
エドワルドが不思議そうにカップを差し出す。
一口含む。舌の先に——かすかな、蜜のような甘さ。そしてその奥に、遅れてくる冷たい影。
間違いない。睡蓮花の根から抽出した遅効性の毒。無味に近いが、甘い茶に混ぜると微かに匂いが出る。
前世では、この毒が二年かけてエドワルドの体を蝕んだ。「原因不明の衰弱」として。
吐き出したい。でもそれはできない。
カップを返す。手が震えないように気をつける。
「……殿下。このお茶は、お体に合わないかもしれません」
「どういう意味だ?」
「差し出がましいことを申し上げますが——私が毒見をしたお茶をお飲みになりませんか。毒見師として、そのほうが安心できます」
エドワルドが怪訝な顔をする。だが——拒絶はしなかった。
「……好きにしろ」
「ありがとうございます」
立ち上がる。膝が少し震えていた。
メイの元に戻りながら、拳を握る。
もう遅い——にはさせない。
今度こそ、この人を守る。
第二王子エドワルド——前世では救えなかった人。
彼の運命を変えることはできるのか。
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