仮面舞踏会
仮面舞踏会の夜。
メイがドレスの背のボタンを留め終えると、鏡の中に見知らぬ女がいた。濃紺の絹に銀糸の刺繍。毒見師の制服とは別世界の装い。
「お似合いです、セラフィーナ様」
「見た目はどうでもいい。——鼻が利けばいいの」
大広間は蝋燭の光と花の香りで満ちている。天井から吊るされた銀燭台が百を超え、大理石の床に光の粒をまき散らす。楽隊の弦の音が、人々の笑い声の下を流れている。
私は濃紺のドレスに銀の仮面をつけ、広間の端に立っていた。毒見師として宴席に出るのは不自然ではない。だが今夜の任務は——毒見だけではない。
「東翼の料理は私が見る。西翼はあなたが見て」
すれ違いざま、ヴェルナが囁く。漆黒のドレスに鴉の羽の仮面。隣国の外交官として出席しながら、同時に毒の監視を行う。
概念毒が国王の茶器に仕込まれていたことは、エドワルドと私、ヴェルナ、メイの四人しか知らない。公にすれば犯人が姿を消す。だから——泳がせている。
料理が次々と運ばれる。
私は配膳の動線を目で追いながら、すれ違う皿の匂いを嗅ぐ。仮面越しでも鼻は利く。ローストした鴨の脂、焦がしバターの香ばしさ、ハーブの青い匂い。異常はない。
飲み物の監視は難しい。グラスが何十と並び、給仕が持ち歩く。全てを確認することは物理的に不可能だ。
エドワルドが広間の中央にいる。銀灰色の仮面。背が高いから仮面をしていても分かる。隣国の使節と談笑しながら——時折、私のほうに視線を送る。
合図。異常なし。
広間の反対側で、見覚えのある姿が目に入る。金色の髪に白い仮面。ルシアだ。仮面舞踏会にまだ出席できるということは、侯爵家の立場は完全には失墜していない。
ルシアが私に気づく。一瞬、体が硬くなるのが見えた。だがすぐに——小さく頭を下げた。前世の彼女なら、あり得ない仕草。敵意の代わりにあるのは、ぎこちない感謝のようなもの。
ダリウスの駒から解放された彼女が、これからどう生きるのか。それは——彼女自身が決めることだ。
舞踏会が進む。音楽が変わり、舞踏が始まる。
そのとき——匂った。
仮面の下から。すぐ近くを通り過ぎた人物から。
冷たい匂い。いや、匂いではない。嗅覚が拾った「不在」の感覚。概念毒特有の、空気の温度が局所的に下がる微かな兆候。
振り返る。仮面をつけた人物の背中が、人混みに消えていく。中肉中背。黒い外套。仮面は鷹の意匠。
追う。人の間を縫って、黒い外套を目で追う。
その人物が向かう先は——西翼。王が休憩のために控えている部屋。
走り出す。ドレスの裾を掴み、広間を突っ切る。
「どこへ行くの」
ヴェルナの声。後ろから追いついてくる。
「西翼。王の控え室。仮面の男が——概念毒の匂いがした」
「匂いを嗅ぎ取ったの? この距離で?」
「走りながら説明する時間はない」
廊下を駆ける。革靴の音が石の床に反響する。ヴェルナが追いかけてくる。
西翼の控え室の前。衛兵が立っている。
「毒見師セラフィーナです。国王陛下のお飲み物の確認に参りました」
「陛下は先ほど、お茶を所望されました。すでに侍従が——」
扉を開ける。許可を待たずに。
部屋の中。国王がソファに座り、茶器を手にしている。傍らに侍従。
そして——もう一人。鷹の仮面をつけた人物が、部屋の隅に立っている。
「失礼いたします、陛下」
歩み寄り、国王の手から茶器を受け取る。まだ口をつけていない。間に合った。
茶を嗅ぐ。表面上の匂いはカモミール。だがその奥に——あの空白。冷たい影。
概念毒。
「陛下。この茶には問題がございます。新しいものをお持ちします」
「また異物か。最近多いな」
国王が苦笑する。だが私の目は——鷹の仮面の人物を捉えている。
その人物が、一歩後退する。
「お待ちください」
声をかけた瞬間——鷹の仮面が翻り、窓に向かって走った。ヴェルナが動く。だが相手のほうが速い。窓を開け、身を躍らせ——夜の闇に消えた。
二階。飛び降りれば庭園に着く。追跡は困難。
ヴェルナが窓から庭園を見下ろす。月明かりの下、人影はすでにない。
「逃げられたわね」
「でも——顔は見ていない。仮面の下を」
「見ていなくても分かることがある。概念毒を持ち歩ける人間。この宮殿に出入りできる人間。術式を扱える人間。——範囲は狭い」
振り返ると、国王が不安げな顔をしている。
「セラフィーナ嬢。何が起きているのか、説明してもらえるか」
エドワルドに相談してから——と言いたいが、もう隠し通せる段階ではない。
「陛下。少しお時間をいただけますか。全てをお話しします」
窓の外から夜風が吹き込み、蝋燭が一斉に揺れる。仮面舞踏会の楽の音が、遠く微かに続いている。華やかな夜の裏で——見えない戦いが、新しい段階に入った。




