概念の味
翌朝の毒見で、それは起きた。
国王の朝食。パンと蜂蜜、茹で卵、季節の果物、薬草茶。いつもと変わらない献立。厨房の確認も済ませた。食材の出所も把握している。
匂いを嗅ぐ。パン——小麦と酵母の温かな香り。蜂蜜——花の甘さ。卵——問題ない。果物——熟した桃の匂い。茶——カモミールの穏やかさ。
全て正常。
舌で確認する。パンの一切れを口に含む。噛む。味は正常。次に蜂蜜。甘い。純粋な甘さ。卵。果物。全て問題ない。
最後に茶を一口。
カップを唇に近づけたとき、湯気がかすかに頬を撫でた。いつもと同じカモミールの香りが鼻腔を通る。何の変哲もない朝の一杯。
舌に触れた瞬間——味がない。
いや、味はある。カモミールの味がする。しかしその奥に——空白がある。味の層の間に、何も存在しない空間がぽっかりと開いている。
そして喉を通った瞬間——冷たい。
氷を飲んだのではない。物理的な冷たさではない。喉の内側に、影が落ちたような感覚。一瞬で消えるが、消えた後に——喉の奥がかすかに痺れる。
茶会のときと同じだ。ヴェルナが「概念毒」と呼んだもの。
「——お待ちください」
配膳係を止める。声が震えていないか、自分でも分からない。
「陛下のお茶を、念のため新しく淹れ直させてください」
「何か問題があったのか」
国王が怪訝な顔をする。
「微かな異物感がございました。毒見師として、万全を期したく」
カップを下げさせる。新しい茶を厨房に手配し——その足で、ヴェルナの部屋に走った。
扉を叩く。三度目で開く。
「……朝から何事?」
黒い髪を下ろしたまま、寝起きの顔のヴェルナ。だが私の顔を見た瞬間、表情が変わる。
「——概念毒ね」
「国王の茶に。今朝の」
ヴェルナの目が鋭くなる。寝衣のまま部屋に戻り、革装丁の書物を引き出す。
「飲んだ?」
「一口。毒見の分だけ」
「体に異変は」
「喉の奥が——少し痺れる。前回より強い」
ヴェルナが私の顎を掴み、口を開けさせる。舌を確認する。乱暴だが、手際は医師のそれだ。
「舌の奥に薄い青みがある。概念毒の痕跡よ。少量だから命に別状はないけれど——」
「もし国王が飲んでいたら?」
「即座には死なない。概念毒は遅効性。だけど通常の遅効毒とは違って、体の中に『根』を張る。一度根づいたら、通常の解毒では抜けない」
背筋が冷える。
「前世でも——この毒はなかった」
呟きが漏れる。ヴェルナが一瞬、目を細める。「前世」という言葉に反応したのか——しかし追及しない。
「概念毒を混入できる人間は限られている。術式を扱える者でなければ作れない。つまり——」
「犯人は、この宮殿の中にいる。毒師の血を引く人間が」
「もしくは、外から持ち込まれた完成品を誰かが混入した。どちらにせよ——内部に協力者がいる」
厨房は私が管理している。食材のルートも確認済み。にもかかわらず、毒が混入された。
つまり——厨房の外で、茶に手が加えられた可能性がある。配膳の過程。あるいは——茶器そのもの。
「ヴェルナ。概念毒は液体にしか定着しない?」
「いいえ。固体にも定着する。ただし——」
「茶器は」
「……可能よ。カップの内壁に概念毒を塗布すれば、注がれた液体に溶け出す。量は少ないけれど、長期間繰り返せば——」
蓄積する。少しずつ。毎朝の茶を飲むたびに。
ダリウスの手口と同じ構造。だが使われているのは、味覚で検出できない毒。
私の武器が——通じない。
「これは——毒ではない。呪いだ」
言葉が口をついて出る。ヴェルナが頷く。
「概念毒は、かつて呪術と呼ばれていた。薬学が発達する前の時代に。毒師たちが術式を体系化して——『概念毒』という名称に整理した。でも本質は同じ。害意を形にしたもの」
エドワルドに報告しなければ。国王の茶器を全て検査しなければ。配膳ルートを洗い直さなければ。
やることが山のように積み上がる。だが最も恐ろしいのは——
「ヴェルナ。もし国王がすでに何日も、この茶器で茶を飲んでいたとしたら」
「……概念毒の根が、もう体内に張り始めているかもしれない」
窓の外で、朝の鐘が鳴る。穏やかな朝の光が部屋に差し込む。石壁に朝日の四角い影が落ち、埃の粒子が金色に舞っている。
だがその光の下で、見えない毒が王の命を蝕んでいる。
エドワルドに報告に向かう。廊下を歩く足音が、自分でも分かるほど硬い。喉の奥の痺れがまだ消えない。舌の先に残る空白の感覚が、前世にはなかった恐怖の味を教えている。




