鍵のない扉
書斎に籠もって三日。
エドワルドと二人、ダリウスの暗号書簡と向き合い続けている。机の上に羊皮紙が散乱し、蝋燭の蝋が何層にも重なっている。窓から差す光の角度で時間を知る生活。
「ここの記号列は日付だ。月と日を逆に書いている。去年の取引記録なら——ここが九月、ここが十一月」
エドワルドがペンを走らせる。インクが羊皮紙の繊維に沁みる微かな音。彼の指先にインクの染みが増えている。
「九月の取引は『白磁二十個』。十一月は『薬膳香辛料三十包』。——どちらも実物は確認されていない」
「架空の取引。金を動かすための偽装ね」
「そうだ。金の流れ先は——ルンデリア側の名前が暗号化されている。まだ解けていない」
焦りが胸を掻く。
証拠は断片的に集まっている。ダリウスとルンデリアの間に資金の流れがあること。「薬膳香辛料」が毒の原材料の隠語であること。しかし——ルンデリア側の受取人が特定できない。暗号が二重になっている部分があり、鍵がまだ見つからない。
「エドワルド。ここの記号——見覚えがある」
一枚の書簡を引き寄せる。暗号の中に、繰り返し現れる記号列。他の部分とは異なるパターン。
「人名だ。暗号表に当てはめると——」
文字を一つずつ置き換える。S。E。R。A。
手が止まる。
S-E-R-A-F-I-N-A。
「……セラフィーナ」
エドワルドの声が低くなる。
私の名前だ。ダリウスの暗号書簡の中に——私の名がある。
「文脈を見る。前後の文は——」
エドワルドが前後の暗号を急いで解読する。
「『セラフィーナを排除する手筈は整っている。ただし時期は指示を待て』——去年の十月の書簡だ」
去年の十月。前世なら、私が毒見師として任命されて半年後。
「『この娘の味覚は脅威となる。体質ではなく——』」
暗号がそこで途切れている。次の語が解読できない。
体質ではなく——何だ。
「ダリウスは、お前のことを早い段階から把握していた」
「ええ。前世でも——最後に殺されたのはダリウスの仕業でした」
前世という言葉を口にしても、もうエドワルドは驚かない。
「だが問題はそこじゃない。この書簡はダリウスが書いたものではなく、ダリウスが受け取ったものだ。つまり——」
「指示を出した人間が、ルンデリア側にいる」
沈黙。蝋燭の芯が弾ける。
「エドワルド。ヴェルナ・レイスフェルトについて、何か分かりましたか」
「調べている。ルンデリア外務省の特別顧問。だが——外務省に配属される前の経歴が空白になっている。五年分」
「空白」
「記録がない。消されたか、最初から存在しないか」
ヴェルナ。あの黒い髪の女。茶会で私の舌を試すように振る舞い、概念毒について何かを知っている素振りを見せた。
味方なのか。敵なのか。あるいは——どちらでもない第三の立場なのか。
「もう一つ気になることがある」
私は書簡の束の中から一枚を抜く。
「この書簡。他の全てはルンデリアの羊皮紙だけれど、これだけ紙質が違う。もっと古い。インクの匂いも異なる——鉄胆子のインクではなく、植物性の顔料」
「年代が違うということか」
「少なくとも十年以上前のもの。ダリウスが宰相になる前から、この取引は始まっていた可能性がある」
十年前。ダリウスがまだ一介の官僚だった頃から、ルンデリアとの繋がりがあった。ダリウスは——最初から駒として育てられた。
全ての糸を引く人間がいる。名前はまだ見えない。
ふと、ルシアのことを思う。ダリウスに操られていた侯爵令嬢。彼女もまた駒だった。前世では敵だと信じて疑わなかった相手が、今世では別の顔を見せている。ルシアが何か知っているなら——話を聞く価値はある。
だが今は、目の前の暗号が先だ。
扉を叩く音。メイの声。
「セラフィーナ様。ヴェルナ様が——お会いしたいと」
エドワルドと目を合わせる。
「……会いましょう」
書斎の扉を開ける。
ヴェルナが廊下に立っている。黒い髪。冷静な目。そして——手に一冊の革装丁の書物を抱えている。
「セラフィーナ。二人きりで話したいことがあるの」
革の表紙から、薬草と古い紙の匂いがする。年代物の書物特有の、乾いた甘さ。この匂いを知っている——前世で薬草園の書庫に通い詰めた夜の記憶が、一瞬だけ重なった。




