書簡の影
穏やかな朝は、三日で終わった。
この三日間、宮廷は静かだった。ダリウスの拘束後、毒見で引っかかるものは何もない。食事はただ美味しく、朝の紅茶はただ温かい。メイは「平和って退屈ですね」と笑ったが、私の舌はずっと警戒を解いていなかった。
ルシアとは一度だけ廊下ですれ違った。ダリウスに利用されていた侯爵令嬢。今は宮廷の片隅で静かにしている。目が合ったとき、彼女は何か言いかけて——やめた。唇を噛む癖は、前と同じだった。
王の私室に呼び出されたのは、ダリウス拘束から一週間後の昼下がり。エドワルドも同席している。部屋には甘い薫香が焚かれているが、その奥にかすかな紙とインクの匂いが混じる。古い書簡の匂いだ。
「セラフィーナ嬢。毒見師としての功績に、改めて礼を申す」
国王の声は重い。だが今日は——礼だけのために呼ばれたのではない。
「先日、匿名の書簡が届いた。封蝋の意匠は不明。中身は——これだ」
侍従が一枚の羊皮紙を差し出す。受け取る。指先に触れる羊皮紙は、この国のものより厚く、繊維の手触りが異なる。表面にわずかな油脂の膜。
——隣国の製紙法だ。
文面は短い。暗号でもなく、平易な文語で書かれている。
『ダリウスは駒に過ぎぬ。毒の本流は、まだ止まっていない。次は——味覚では見抜けぬものが来る』
指先が冷える。
「陛下。この羊皮紙は——」
「分かっている。国内のものではない」
「隣国——ルンデリア王国の製法です。紙の厚みと表面の油脂処理が、この国の職人のものとは違います」
エドワルドが私を見る。驚きではなく、確認の目。私がそこまで見抜けることを、もう知っている。
「ダリウスの暗号書簡の解読も進んでいる」
エドワルドが口を開く。
「書簡の宛先はルンデリア側の人間だ。取引記録のようなものも含まれていた。ダリウスは——単独犯ではない」
空気が変わる。
前世では、ダリウスを倒した時点で全てが終わったと思っていた。いや——前世では、ダリウスの正体すら見抜けないまま死んだ。その先に何があったかなど、知る由もない。
今世は違う。ダリウスの向こう側が見え始めている。
「セラフィーナ嬢」
国王の声。
「毒見師としての任を継続し、さらに——ダリウスとルンデリアの繋がりを調査するよう命じる。エドワルドと共に」
「謹んでお受けいたします」
膝を折る。顔を上げたとき、エドワルドが微かに頷いた。
私室を出る。廊下の石壁を伝う風が冷たい。
「エドワルド」
「ああ」
「『味覚では見抜けぬもの』——心当たりはありますか」
「ない。だが、ダリウスの書簡の中に『概念毒』という単語が一度だけ出てくる。薬学書にも記載がない」
概念毒。
前世の記憶を探る。三年間で百を超える毒を味わった。だが——その中に「味のない毒」はなかった。全ての毒には舌に触れる何かがあった。金属の痺れ、甘い罠、遅れてくる灼熱。それが私の武器だった。
味覚で見抜けない毒が存在するなら、私の武器が通じない。
前世の最後——喉が灼けた記憶がよみがえる。果実酒の奥に隠された針のような苦み。あのとき、もし味のない毒だったなら——私は何も気づかずに死んでいただろう。今世でも。
不安が胸の底で渦を巻く。
「それと——もう一つ」
エドワルドが足を止める。
「来週、ルンデリアから外交使節団が来る。表向きは友好親善。だが——この時期に、だ」
「ダリウスの拘束直後に」
「偶然とは思えない。父上もそう見ている」
隣国の外交使節。ダリウスの背後にいた存在。そして——味覚では見抜けない毒。
線が一本に繋がりかけている。まだ全体像は見えないが、糸の先に何かがある。
「エドワルド」
「何だ」
「一つだけ、約束してください」
「言え」
「何があっても、私が確認していないものは口にしないで」
エドワルドが私を見る。灰色の瞳に、笑みとも心配ともつかない光がよぎる。
「お前に言われなくても——もう学んだ」
不器用な冗談。だが声の奥に真剣さが滲む。前世で同じ約束ができていたなら——彼は死なずに済んだかもしれない。
廊下の先に、夕陽が差している。影が長い。
ダリウスの影は消えた。しかし——新しい影が、もう伸び始めている。




