3. 運命の、人?
*
「ただいま」
事故が昨日の今日だったので、店はまだ閉まっていた。
母と一緒に、建て付けの悪い木戸をギイ、と開けて中に入る。
間柴の家には何度か遊びに行った事もあるし、野球の買い物もしているので、満更知らない家ではない。
美香さんが弓道、カナが野球をしているので、その関連商品も仕入れるようになっていて、若い客も意外に訪れる。
しかし――いつ見ても相変わらず、古い家だった。
時代に取り残されたような、木造の平屋。
と言っても、文化財に指定されるようなご立派な建物でもない。
木戸を抜けて入った店先は土間になっていて、商品が並んでいる。
店の奥に上がり框があり、そこが玄関を兼ねていた。勝手口はあるにはあるが、不便なのであまり使っていない。
「ああ、お帰り。疲れただろ? お茶でも淹れるさ」
玄関からすぐそこの、居間のソファに座っていた祖母が立ち上がり、台所の土間に向かう。
祖母はカナよりさらにちいさく、少し腰が曲がっていた。
「あららお母さん、いいのよ、私やるから」
母が慌てて後を追いかけた。
居間の隣にはかなり広い大広間があって、奥に仏壇と先祖の写真が掛けてあった。
女所帯の四人は、居間と大広間のほぼ二部屋で生活している。
他にも部屋はあるにはあるが、古い家なので夏はともかく、冬は寒くて凍えてしまう。
広間の一角にカーテンで仕切れるスペースがあるものの、プライバシーはほぼ無いと言って良かった。
*
言われるがままに、部屋着に着替える。
カーテンを引こうとすると、母に変な顔をされた。
どうやらカナのヤツ、いつもは隠さずポンポン脱いでいたらしい。
しかし今日だけは、箪笥の中身を確認する必要があると思い、構わずカーテンを閉めた。
六段ある箪笥の引き出しは、上から姉が何故か二段、母、カナ、祖母の順。
いちばん下はいろんな小物が入っていると、俺になったカナに教えてもらった。
カナの引き出しはすぐに分かった――靴下が引き出しの隙間からぶら下がっている。
引き出しを開けて、思わずため息が出た。
――お前、女だろ……もうちょっとこう、整理整頓てヤツ、しろよ……
それでも野球関係のソックスやらアンサポやら、乱雑だが分けて置いてあるのは、カナらしかった。
引き出しの隙間にねじ込んであるシャツとジャージを取り出し、服を脱いだ。
下着姿になったカナ――つまり現在の俺――の身体が、鏡台の鏡に映る。
元々カナの身体に欲情も期待もしていなかったが、久しぶりに見るカナの裸は、脂肪というモノがほとんど存在しなかった。
腕も脚も、筋肉のカタマリ。
腹も筋肉の線が見えるほど、鍛えてある。
こいつ、こんなになるまで――俺はさっきとは別の意味で、長いため息を漏らした。
広間の片隅には、美香姉さんの机と並んで、カナの机が置いてあった。
私物が乱雑に積み重なっているが、そのほとんどが野球の本。
ド真ん中にはプロテインのデカい缶が、ドーンと置かれている。
そして、特別な感じで立て掛けてあった写真立てが、ふたつ。
ひとつは栗川在住の有名人、北海道フロンティアーズの栗川英樹監督。
栗川町民で、栗川監督を好きじゃない人は居ない。栗川は言葉に表せないほどの恩を、監督から受けている。
もうひとつには、東京ドルフィンズに今年入団したNPB史上初の女子選手、遠野みづほのサイン入り写真が入っていた。
そう言えばこないだ、懸賞で当たったって自慢していたよな――
間違いなくカナは、女を完全に捨てて、身も心も野球に捧げている。
だが、現実はどうだろう――俺は唇を噛んで、栗川監督と遠野みづほ選手の写真を、交互に見つめていた。
*
「ただいま。香奈、帰って来てる?」
弓道部の練習を終えて、美香さんが帰って来た。
ちなみに美香さんの事は『お姉ちゃん』と呼ぶよう、カナに厳命されてある。
「お姉ちゃん、お帰り」
――美香さんとは学年も違うので、あまり話した事はない。何だか変な気分だ。
「香奈、もう大丈夫? どこも痛くないかい?」
美香さんが屈んで、おでこ同士をコツン、とぶつけてくる。甘くて良い匂いがした。
「なんもなんも、明日っから野球の練習出来るよ」
「――あんまり無理しちゃ、ダメだかんね」
「うん。分かってる」
姉の優しい笑顔に、こっちもつい表情が緩んでしまう。
姉もまた、カーテンを引く素振りもなく、堂々と制服を脱いで着替えている。
女所帯の同姓ばかり、しかも家族なんだから、裸を隠す習慣などないのだろう。
しかし俺は――今のカナは、中身は男なんだから、ちょっと目の遣り場に困っていた。
チラッと盗み見した姉の下着姿は、どっかのグラビアみたいで、とても綺麗だった。
少し落ち着いた頃、祖母が俺たち姉妹を呼んだ。
「香奈。ちょっとこっち来ておちゃんこ(=座る)しなさい。お姉ちゃんもおちゃんこして」
「はい」
「なにさ、おばあちゃん。いつまでも子ども扱いしてぇ」
姉の苦笑に、祖母の表情が一瞬緩むが、すぐに厳しい顔になった。
「香奈。昨日の事故は、お前が国道に飛び出したから、て言うじゃないか。何か言うこと、あるか?」
「ない――です」
確かにアレは、カナの前方不注意で起きた事故だ。
俺たちを轢いたコーチの人は、完全なとばっちりだった。
となると……カナの代わりに、カナになった俺が謝らなくちゃならない。
「カナが悪かったです。ごめんなさい」
正座したまま、指をついて頭を下げた。
*
仕入れの受け取りをしていたらしい母が、居間に戻って来た。
母もまた、難しい顔をしている。
「そだよ、香奈。お前が車に轢かれたって聞いて、おばあちゃん真っ青になって倒れそうだったんだから。高校生にもなって、飛び出しなんて恥ずかしい」
はい――返す言葉もございません。
「ごめんなさい。二度としません」
再び深々と頭を下げる。
悪いのはカナなんだけど、今は俺がカナだからなあ……
母はカナを見下ろし、ふうっと鼻から息を吐いた。
「まあ反省もしてるようだし――したっけそろそろ行くかね」
「え? どこに?」
「穂波さんまでお詫びと、香奈を助けてくれたお礼だよ」
そう言う母の手には紙袋が提げられている。
明らかに穂波家への手土産用に、ひとっ走り買ってきた風だった。
「香奈、髪がわや(=ひどい有様)になってるよ。穂波さん行くんだったらきちんとしなくちゃ」
姉が香奈の手を引いて、鏡台に連れて行こうとする。
「いいよぉ、自分でやるから」
「だぁめ。お姉ちゃんに任せなさい」
勝手がどうにも分からない事もあり、カナは鏡台の前にちょこんと座って、姉のされるがままに大人しくしていた。
*
カナの髪を丁寧に梳きながら、姉の声が肩越しに聞こえてくる。
「穂波の加南ちゃん、飛び出した香奈を抱きかかえて、助けてくれたんだって?」
「うん」
その結果、身体がそっくり入れ替わってしまったわけだが、助けようとしたのは事実だ。
「――加南ちゃんは香奈の、白馬の王子さまだね……」
姉の言葉に一瞬、目が点になった。
「へっ?! ――いやいやいやぁ、そんな大袈裟なモンじゃないさぁ」
「香奈こそいい加減、気付きなよぉ」
姉の整った顔が、鏡越しにカナを見つめている。
姉は言葉を続けた。
「小っちゃい頃から香奈、ずっと加南ちゃんの事ばっか話して……姉ちゃん知ってるんだから。香奈は加南ちゃん、好きっしょ」
「ふええっ??!」
また変な声が出てしまった。
カナが好きなのはフクローだと、ずっと思っていた……
だってフクローと話す時は楽しそうなくせに、いざ俺に口を開くと、出てくるのは文句ばかり。
手加減なしに叩かれたり、ドロップキックを食らった事も、数知れず。
カナが女じゃなくて、こんなちいさくなかったら、完全にいじめの図式だった。
「加南ちゃんは香奈の、運命の人かも知んないよ? 女の子って一度は、そういうのに憧れるもんさぁ……現実的じゃないって知ってても、さ」
正直なとこ、カナを助けたのは身体が咄嗟に動いただけの話だし、反応に困る。
カナの気持ちは、本人しか知る由もないから。
俺はカナなんだけど、カナじゃないから……なんだか混乱してきた。
*
「加南ちゃんはあれでも、女子たちの間じゃ評判だよ? 優しいし、身体が丈夫だし、開土ちゃんの面倒もよくみてて家事もカンペキだ、って噂……それにだいぶ背も伸びて、カッコ良くなってきたしょ。結婚するならああいう子だって、栗高じゃ早くも一番人気だよ」
え――――???
そいつはガチで初耳だった。
そんな気配、欠片も感じなかったけどなあ……事実、俺の学年ではフクローファン一色だし。
「カナは、フクローが一番人気だと思ってた……」
「福朗ちゃんに目が行くのは、まだ子どもの証拠さぁ」
姉にふふん、と鼻で笑われた。
「福朗ちゃんは確かにカッコ良いけど、あの子はお医者さんの息子だから。将来、栗川を出て行く人だから……加南ちゃんと野球したくて、栗高に残ったらしいね」
ああ、それは本人から実際に聞いた。
俺たちバッテリーで栗川を盛り上げようって、嬉しい事を言ってくれたんだ。
「あーあ。香奈が加南ちゃん行かないなら、あたしが獲っちゃおうかなあ」
こ、これは……マジで何と言って良いか分からない。
何故って、純粋に女として見るなら、美香さんはカナの一万倍は魅力的だったからだ。
「ごめんごめん、冗談だよ」
無言のままのカナを、怒ったと受け止めたらしく、姉は優しく肩越しに抱きしめてくれた。
「さ、終わった。行こ」
*
居間に戻ったカナを見た祖母に母は、少し呆れた表情だった。
「またお姉ちゃんは……香奈の髪で遊んで、仕方ないねえ……」
「えっ? なに? なにっ??」
前から見たら、両サイドをちいさいリボンで結んであるだけ――それでもいつものカナからしたら異常な部類――だが、そう言えば美香さん、後ろでいろいろゴソゴソやってた気がする……
「なんもなんも、めんこいじゃないかね。見違えたよ」
祖母がカナの肩にポンと手を置いたので、不安なまま、曖昧な微笑を浮かべた。
そうして夕食の支度に入った祖母を置いて、母と姉、カナの三人で、穂波の家――今は我が家じゃない俺の家――に歩いて向かった。