3番目 白い英雄
赤茶けた岩の壁から察するに、この部屋はどうも洞窟のようだ。といっても、空気が淀んでいる訳でもなく、割りと快適な空間である。室内の気温も少し肌寒い程度で、服を着れば問題ないはずだ。
床には、何かアルファベットのようなものが描かれている。円形の枠の中に隙間なく敷き詰められてあり、あまり美しいとは言えないものの、溢れんばかりに押し込められた文字たちの様子は、どこか芸術性を感じさせる。いわゆる魔方陣というやつに見えるが、果たしてどこまで本気なのだろうか。冗談でここまで緻密にかつ精妙に描いたりするのだろうか。薄く照らされた床の模様からは多くを読み取ることはできない。外界と一切を遮断されたこの空間で、ただあり続けるその様子は、何かあったはずもないのに、まるで死んでいるかのように静かで冷たく感じた。
床の模様の上、茶色を基調としたシックな椅子に座り、男は話に耳を傾けていた。
全身が筋肉の鎧で覆われ、180cmを越える身長の彼は、その恵まれた肉体にもかかわらず、白い肌と、ずっと変わらぬ表情のせいで、不気味だ。なにしろ彼は普段からあまり表情を崩さない。もちろん全くの無表情、無感情ということではない。しかし内心ではどうであれ、それを表だって、特に顔にだすということをほとんどしないのがこの男だった。
それは生来の性質ではない。努めて、反応の薄さを装っているのだ。この場所に来て、そして彼女に出会ってから、心の平静を取り戻すのにいくらかの時間をかけてしまった。それまでに大した表情の変化はなかったが、困惑は言動に表れてしまった。そこから立ち直るために、異常な状況に置かれた男は、異様な風景を見ることで現状を把握した。周囲を観察して、己の立場を認識したのだ。異例の事態も、奇怪な環境の中にあれば、もはや普通だ。とりあえずはそう思い込むことで無感動な自分を演出した。
そんな男の葛藤を知る由もない女性が話しだす。
「そういえば、まだお互いの自己紹介をしていませんでしたね。私は、マリア=アレンと申します。どうぞマリアとお呼び下さい」
「私は、上田聡太といいます。呼び方はどうぞご自由に」
「ウエダソータ、ですか。……では、ソータさんとお呼びしても?」
どうもマリアには、ウエダという発音が難しいようだ。それに対して上田は応える。
「ええ、構いませんよ。……マリアさん」
「ふふ、呼び捨てでも構いませんのに」
喋り口は非常に丁寧ながら、多少は上田に好意的ではあるようだ。
そして、仕切り直すかのように大きく息を吐いて続けた。
「それでは、納得できないことや、理解し難いこともあると思いますが、どうか我慢して聞いて下さいね」
上田の対面に座っている、彼の肌より、なお白い修道服を身に纏ったマリアは、そう前置きをしておいて、さらに語りかける。
「ソータさんには、異世界からここへ来て頂きました。お喚びしたのは、私たちです。……あなたには、私たちを守って頂きたいのです」
言葉だけを捉えれば、頼みごとだ。しかし、上田を見つめる目には、強い光が宿っており、それ以上の意味を予感させる。
「あなたには、力があります。まだ、その力には慣れていませんが、私たちの下で、然るべき訓練を受ければ、あなたが想像もしないような力を手に入れることができます。名誉や、お金、あなたの望む全てが得られるでしょう」
言葉が進むにつれて怪しさを増していく翠の瞳に対して、上田の持つ黒い瞳は、落ち着いた様子で、光を吸いこんでいる。時間の経過に加え、荒唐無稽なマリアの話のおかげで、一歩引いた、冷めた目で見つめることができた。
「僕自身についてはそれでおわりですか?」
「……ええ、まあ、そうですね」
「では、続きを」
「……ああ、えっと、はい。……次に、あなたが守るべきこの国と、倒すべき敵をお教えします。我が国は、ノーサ・べリカと呼ばれ、大陸の西に位置する、この世界で最も偉大な国です。主の教えを守り、そのおかげで国も、民も、土地も、そして心も豊かでとても良い国です」
ここで明らかにマリアの声色が変わった。
「ーーにもかかわらず、大陸北の、悪魔の住まう国、魔術至上国家ソヴェットは、私たちに明確な敵意を示し、あまつさえ、領土へと侵攻しさえするのです。私たちは何も悪いことをしていないのに…… 。おかしいと思いませんか?」
語気が、鼻息が、荒い。
表情が見えなくとも、興奮していることが伝わってくる。
「……確かに、あなたたちが、何もしていないのであれば、その通りですね」
「そうですよね、当然そう思いますよね?」
上田の同意が得られたとみえるや、今度は一転して嬉しそうだ。
「では、憎きソヴェットに、正義の鉄槌を下す英雄となって頂けますよね?」
「……それは……今の段階では、お応えしかねます。まだ、わからないことだらけですので」
一つ大きく息を吐いて、マリアが応える。
「そうですか。……確かにこんな所では、落ち着いて考えることもできませんよね……。疲れもあるでしょうし、一旦場所を変えましょう」
言いながら立ち上がると、マリアは、自身の後ろにあった扉へと向かおうとする。つられて上田も立ち上がるが、それを静止して彼女は言った。
「ソータさんは、少し待っていて下さい。……その、着るものを持って来させますから」
洞窟の中の一室に残された上田は、始めと変わらず、分厚い筋肉に白い肌を晒しながら、独り佇んでいた。
上田は自室では、いつもトランクスしか身に付けていない。
いわゆる、パンツ一丁だ。
1日のほとんどをその格好で過ごしている。
締め付けられることを嫌い、トランクスを一枚。それ以外は、来客があるか、外出時しか服を着ない。
大学進学とともに一人暮らしを始めて以来、彼はこの鉄のルールを破ったことは無かったし、これから先、破るつもりもなかった。それが例え冬であろうとも。
さて、現在、彼は自室にはおらず、少々肌寒さを感じる洞窟の一室にいる。
普通なら服を着ている状況だ。
しかし、今は普通ではなかった。
なんの前触れもなく、なんの準備もできず、いつのまにかそこにいた。
見知らぬ女性と相対しているときには、特に何も感じることはできなかったが、それは、極度の混乱があったからこそだ。冷静さを取り戻せさえすれば、ルール云々だけでなく、彼の中にも、思い返して悶えたくなるような、恥ずかしさを感じるだけの常識は充分に存在していた。
マリアから手渡されようやく手にした服は、白いワイシャツに、黒いズボンだ。どちらも薄手で、彼にとってはサイズが小さい。上半身は、体勢を間違えてしまえばボタンが飛んでしまいそうだ。下半身においても、尻や太腿の筋肉はあまりの窮屈さに、薄く黒い布を今にも破いてしまいそうに見える。丈に関して言えば、腕も脚も同様に、分厚い筋肉に引っ張られて、7割から8割を隠すので精一杯といったところだ。まさに溢れんばかりといった様子である。
「……よく、お似合い……ですよ」
彼女の目にも、その格好はやはり不格好に映るようで、何の疑問も抱かず褒めることの難しさが、言葉の隙間となって表れた。
着心地の悪さと、着こなしの悪さのせいで、居心地まで悪くなってしまいそうにも思えるが、それでもやはり、着ないという選択はできないようで、見た目の不気味さをより一層強めながら、上田はマリアの後を着いていった。
部屋から出て、人1人通るのがやっとの狭い道を抜けると、少し広めの道へと出た。 1人なら余裕を持ってすれ違うことができる程度の幅をもったその道は、左右両方向に続いてはいるが、どちらも道が大きく曲がっており、その先は見ることができない。出てきた地点から右手に進むと、右へとカーブを描きながら出口へと辿り着くまで、いくつかの扉があった。最初にいた部屋の正面に二つと、進行方向の左側に扉が四つ、彼らがいた部屋の扉を除くと、合計六つの扉だ。何かの意味を持って配置されているのだろうか、等間隔に並んだそれらは、どれも重そうな金属でできており、壊して中に入ったりすることはできそうになかった。
洞窟を出ると眩しい光が目を射すが、気温は洞窟内よりも低い。
上田が腰の辺りをまさぐっているが、一切の余裕をみせずに太腿に張り付いているズボンのポケットは、最早何かが中へと入り込む余地は一切なく、手を入れることは不可能だ。腕を組むことで一応の解決策とするようだが、相変わらず吐く息は白く、その効果も期待できそうにない。
彼が寒さ対策に見切りをつけたところで洞窟の出入口を見ると、そこには、男が2人横にそれぞれ立っていた。
全身を鎧で固めた2人が、マリアに敬礼をした。
「ご苦労様です。召喚は無事に終わりました」
マリアが2人に、そう労いの言葉をかけると、今度は、それぞれが上田と彼女の前後に分かれる。2人は護衛か見張り、もしくはその両方のようだ。
マリアの号令とともに、森の中へと入っていく。
底冷えする空気の中でも、青々と茂った木々の間からは、十分に太陽の光が射し込んでいる。その割にはあまり草深くはなく、歩きやすい。
特に会話をするでもなく、10分程歩いたところで森を出た。
目の前には屋敷がある。周りを柵で囲まれたその屋敷は、レンガでできた壁は白く、屋根は深い緑色。屋敷自体それほど大きいわけでもなく、また、見た目にも大変シンプルだ。
護衛の存在などから、良家のお嬢様だと推測していたが、もう少し複雑な事情を持っているようだ。この世界で初めて見た家であるため、金持ちの住む家がどの程度のものなのかはわからない。それでも、この屋敷の外観では富豪の自尊心を満足させることができそうもない。別荘にしても、もう少し金をかけるだろう。
先程の提案に関してもそうだが、判断を下すには情報がまだまだ足りないことがあらためて思われた。
召喚。
異世界。
洞窟。
床の模様。
要求。
マリアの素性。
秘められた力。
ピチピチの服……。
上田の頭は、長いアイドリング状態からようやく覚めつつあった。




