27番目 良い別れと悪い出会い
ちらりと横を見やれば、みな一様に真剣な顔をして机にかじりついている。
まさに必死だ。
上田は、少し考える時間ができると手を止め、こうして一生懸命になっている周りの人間を眺めるのが好きだった。馬鹿にしているわけではない。自分も含め狭い空間の中に閉じ込められた人間が、同じことに同じように力の限り取り組んでいる。そして周囲と変わらないことをしているのに、結局差が出てしまう。今この場においては、全員がほぼ等しく力を尽くしているのに。それで努力が無意味だとは言わない。ただ、みなどのように決着をつけているのだろうか。運が悪かった。事前の努力が足りなかった。才能がなかった。どれだろうか、何を拠り所とするのだろうか。上田は、自分は……、いつも決着をつけないでいた。結果として、事実として認めはするが、それに対して何の思いも抱かないようにしていた。終末は、新たな端緒にすぎない。次の結末に向けて進んでいくだけだ。
最後のピリオドを打って、鉛筆を置いた。
それから間もなく、試験管の号令とともにDiv.Ⅴ昇格試験、第1次筆記試験が終了した。
試験期間中でも、訓練は続く。
槍術についての教えを受け、最後にジョーと模擬試合をする。しかし、勝てない。突けばかわされ、斬れば防がれる。それでも手を止めず攻撃を繰り返すのだが、有効な一撃を与えることができない。そうする内に隙ができ、そこをつかれて膝をつく。戦うたびにあざを増やしていた。
「今日も俺の勝ちだな」
ジョーは爽やかに笑いながら、上田の手を引いた。
「中々難しいものだね」
手を借り立ち上がると、そうつぶやいた。
2人は教官の元へと歩いていく。教官はいつも眉間にしわを寄せている。太い眉と合わせて、とても男らしい人だ。そんな彼が、良く響く低い声を洩らす。
「相変わらずだな、ウェーダ隊長」
怒っているのかいないのか、未だに判断しづらい。そして、このような曖昧な雰囲気を、横にいるジョーという男は好まない。
「本当に相変わらずだよな、ソータは。でもまあ、動きのキレは増してきてるんじゃねえか?」
軽い口調ながらも、若干のフォローを入れてきた。能天気なように見えて、案外鋭かったり気がきいたりする。一筋縄ではいかない男だ。
教官は一つ頷いて、
「クロス軍曹の言い分も間違っていないな。以前にも言った通り、ウェーダ隊長は動作のつなぎが甘い。そしてそれは今もあまり変わらん。しかし、一つの動作ごとの素早さ、精度は着実に上がってきている。それのおかげで、クロス軍曹との戦闘時間も少しずつ伸びてきてはいる」
「そうだな、確かに速えんだよな。まあ、まだ余裕で避けられるけど」
ジョーがちらりと上田を見ながら言った。砂埃で汚れた顔に、白い歯がのぞく。
彼の言うことは決して強がりではない。上田の攻撃は、見切られている。自身でも攻撃スピードの上昇は体感していた。それでも初めのころと同じように、紙一重でかわされ、死角へと移動されている。
「攻撃をあてるにはどうすればよいのでしょうか?」
上田が教官にきいた。
「貴様がクロス軍曹に、まともに攻撃を加えることができるようになるには、長い訓練が必要だ。速くなってきてはいるが、それだけでは届かん。戦いの流れを崩すことなくのれるようにせねばならんだろうな。その弱点を完全に克服するのは容易なことではない。ただ……、そうだな、あてるだけならば、近いうちにできるようになる方法がある」
「あれ? これって俺はきかない方が良いんじゃねえの?」
「良いよ。どうせすぐわかることだからね。むしろ一緒にきいて、何かアドバイスをしてもらえると助かるな」
「ああ、そう。じゃあ、きくことにしようか」
「そう大したものでもないんだがな。……良いだろう。1人も2人も同じだ。かしてみろ」
そうして教官は上田の持つ短槍を手にとった。
腰を落とし、右半身を引いて半身になる。基本の構えだ。
「貴様の持つ槍は、斬るか」
教官が短槍を上から振り落ろす。空を斬る音がした。それから元の構えに戻して、今度は突く。
「突くかの2択だな」
上田の持つ槍は短槍の一種で、ランデベヴェと呼ばれている。木の葉を縦に伸ばしたような、刃元に突起のないストレートな穂先が特徴だ。その幅広の穂先のおかげで、振り回すことで普通に切ることもできるし、貫通力も高い。一般的には全長2m前後するものであるが、上田は携帯性などを重視して全長120cmと、同型の中でもとりわけ短いモノを使用していた。ただ、素振りなどではそれを使うが、最後の模擬戦は穂先まで木で作られた模造槍を使用するようにしている。
槍をしげしげと見つめる上田に構わず、教官はその石突きを地面に突き立て会話を続けた。
「ウェーダ隊長の速さを活かすのであれば、初撃が肝心となるが、どちらを選ぶ?」
「突き、ですね」
「理由は?」
「速いから、です」
「そうだな。斬撃は構えから振りかぶり、そして斬るというように三つの動作が必要だ」
言いながら教官が実演してみせる。顔に似合わず一つ一つの動きは洗練されており美しい。
「しかし、突きの場合は、構えてから、すぐに突きを繰り出せる。工程が一つ減るだけではあるが、戦いにおいてはそれが大きな差となる。だから貴様が最初に選ぶべき攻撃方法は、突きだ。では、その突きをさらに速くするためにはどうすれば良い?」
両手を頭の後ろに回しながらジョーが答える。
「おもいっきり力こめりゃいいんじゃねえの?」
「でも、それだと溜めに時間がかかるよね?」
「それもそうか」
「ふん、では質問を変えよう。速さを決定する要素には何がある?」
上田は前世界で習った算数を思い出す。
「『き』の下の『じ』いさん『ば』あさん。……距離と時間ですね」
「きの下云々は良くわからんが、そうだ。距離と時間と速さ。これら三つの要素が互いを決定――」
ブザー音が教官の言葉を遮った。それからアナウンスが響く。
「昇格試験第1次筆記試験の結果が発表されます。受験者は、該当する訓練塔3階の掲示板にて結果の確認をしてください。なお、合格者については、後日改めて日程が掲示板にて張り出されますので、ご確認ください。繰り返します――」
放送が終わると教官は槍を上田に渡した。
「今日はこれで終了にする。ヒントはだした。後は貴様で答えを見つけろ。……さっさと試験結果を見に行ってこい」
腕を組む教官の顔は厳めしい。
上田が自分の訓練塔に戻ると、そこは人でごった返していた。大半が沈んだ顔をしている。それらを横目で見ながら、3階にある掲示板の元へと歩いた。
ほとんどの人間は、結果を確認し終えて戻っていくようだ。上田はこれから行くところなので、自然その流れに逆らうこととなる。下を向いているものがほとんどで、何度も肩をぶつけた。上田は精一杯避けようと努力しているが、彼らの足取りがどうにも不安定で、目測を見誤ってしまうのだ。そしてぶつかる度に顔を上げ、睨みつけてくる。八つ当たりのつもりだろうか。中には掴みかかろうとしてくる者もいた。当然おとなしく殴られるようなことはしない。しないが、仮に上田を力の限り、思いのままに殴り倒すことができたとして、彼らはすっきりするのだろうか。しないはずだ。上田は見た。同じ部屋だった者の姿しか見ていないが、全員必死で試験に取り組んでいた。時間いっぱいまで死力を尽くす姿を見た。見てはいないが事前の努力も怠らなかっただろう。怠ったつもりはないだろう。だから、そのような彼らが、ちんけな暴力で満足するわけがない。上田はそう思う。ただ、実際はどうなのだろうか。喜ぶのか。怒るのか。哀しむのか。それとも楽しむのか。そうして、次にぶつかってきた人間の殴打を、甘んじて受け入れることにした。
「いってえなあ、おら!」
茶色のセーターを着たスキンヘッドの男性とぶつかった。彼は細い眉尻を吊り上げてつっかかってきた。
「ちゃんと前見て歩いてんのか!」
鼻息が荒い。目は充血している。髪は、ない。どうしたものだろうか。ここは、挑発でもしよう。
「何か残念なことがあったのか知りませんが、うつむいてめそめそしながら歩いていたのは、あなたではないですか?」
歯を食いしばり、喉から言葉にならない音を出す彼の渾身の左フックが上田の頬を捉えた。
強い衝撃を受ける。すぐに後悔した。変な好奇心を湧かせるものではないと。
顔がゆがむ。血の味を感じる。頬の内側が切れたようだ。しかし歯は折れていない。良かった。いや、良くない。確認しなくては。このままでは、ただ殴られただけになってしまう。彼はどうなっているのか。どんな顔をしているのか。
上田が頬を抑えながら顔を向けると、そこには2発めを入れようと拳を振りかぶる姿があった。相変わらずその目は血走っているが、口元には笑みを浮かべている。理性を失っているようだ。
つまらない結果になったものだ。
周囲の人間に取り押さえられる彼を見ながら、上田は頬をさすった。怪我をした部位は熱いのに、心が急速に冷えていくのがわかった。そうか、こんなにも早く考えることをやめてしまうのだな。
目を細め、掲示板に自分の名前があることを確認すると、上田は静かにその場を立ち去った。
いつものように夕食ラッシュも収まった頃、上田は独り食事をしていた。かみしめるたびに痛む口内の傷は、想像以上にストレスがたまるものだった。やはり、うかつなことはしないものだ。というか、改めて考えてみると、なんと無駄なことをしたのだろう。わかっていたはずなのに。人は独りで、どこまでいっても自分が中心であり、また、そうであるべきだと。
何を期待したのだろうか。
愛だなんだといって、自分を犠牲にしてまで弟を助けたゲイリーや、本人にとっては全く益のない忠告をしたビンガム。彼らに何を見たのだろうか。
「ご飯、食べないの?」
突然の声に顔を上げると、ジャンが立っていた。向かいの席に腰をおろしながら、繰り返す。
「早く食べないと、スープ冷めちゃうよ」
言われて初めて気付く。いつの間にやらスプーンは置いて、眉間に手をやっていたようだ。
「ああ、そうだね」
冷めてしまっては、折角の食事が台無しだ。短く返答して、スプーンを手にとりスープを口へと運ぶ。若干温くなってはいるが、まだ問題ない。それどころか、今くらいの温度の方が傷口への刺激が少なくて済むみたいだ。
具の少ない、コンソメ風のスープを飲んでいく。しばらくジャンはその様子を黙って見つめていた。彼にしては口数が少ない。もっとも、今は冷める前にスープを飲みほしたい上に、喋ると傷口にも障るので、この珍しくおとなしいジャンの方がありがたかった。とはいえ、何も言わずじっとみつめられるのは、気持ちが良いものではなかった。
スープを飲み終え、スプーンを置いたところでジャンが口を開いた。タイミングを見計らっていたということらしい。
「掲示板、見たよ。合格おめでとう」
彼は、笑顔だった。
「ありがとう」
上田は、それだけ言って、残りの料理に手をつけた。
息を漏らすように笑って、ジャンはぽつりと言った。
「それだけなんだね」
それだけ。意味は察することができている。それでも上田は、黙って食事を進めた。
「優しさ、なのかな?」
「違う」
と、思う。ただ面倒なだけだ。無意味なことがしたくないだけだ。
「まぁ、どっちでもいいや。でも、おれは、ソータのそういうとこが、気に入ってるんだ。慰めの優しい台詞って、もう言いあきたんだよね。だから……、言われたくない、聞きたくない。……あ、そういえば、そこんとこわかって言ってるんだったら、ソータって相当誑しだね」
また、今度は普段通り爽やかに笑ってジャンは言った。
「ありがとう。それじゃぁ、おやすみ」
だんだんと遠ざかっていく足音を聞きながら、弾力のあるベーコンをかんだ。
掲示板を確認した時、30人ほどの名前があったが、そこにジャンの名前は無かった。つまり、彼は第1次試験に落ちたということだ。まだチャンスはあるといっても、ショックを受けたのだろう。注意して見ているわけではないが、その笑みはいつもと違うように感じた。ただ、ショックを受けるということは、悔しいということで、それは彼が力を尽くしたということでもある。だから、『ありがとう』の一言しか言わなかった。それ以上上田が何を言っても無意味だからである。しかしジャンはそれを、良いように解釈したようだ。彼を気遣って、あえて短い言葉で会話を終わらせたと。違う。優しさではない。だが、この訂正の方が、無意味なのかもしれない。
結局上田は『ありがとう』と言ったきり、顔を上げなかった。
1週間後、上田は第2次試験を受けた。体力測定試験で、走ったり、跳んだり、鉄球を投げたりと、前世界の学校の体育の授業でやったものと同じようなものばかりだった。
さらに1週間後、上田は基地上官に囲まれて、面接試験を受けた。この時点ですでにほとんどの受験者が脱落しており、合格決定同然らしい。隊員としての心構えなどをきかされるばかりで、上田が喋ることはほとんどなかった。
そして――。
「昇格おめでとう」
「ありがとう」
「絶対すぐに追いつくから」
狭い部屋を出る際、ジャンとは少ししか話さなかった。食堂での一件のあとも、それまでと変わらず何かと時間をみつけては声をかけてきていた彼だったが、最後はそれだけだった。
それから替えの服といった僅かばかりの荷物を持ち、Div.Ⅳ訓練塔へ移動する。Div.Ⅴ訓練塔を出て基地の壁沿いに北西へ進んだところにそれはある。正直大きな違いは無い。多少人が減ってすっきりした感はあるが、それだけだ。外観などに違いは無い。もっとも、Div.Ⅰまで昇格したとしても、訓練塔そのものは同じらしい。変わるのは所属人数と、内装や設備で、しかもはっきりとした差が表れるのはDiv.Ⅲからということだ。
期待せず新しい部屋に入ってみる。7人部屋から5人部屋になったということで、個人スペースは広くなったように見えた。もちろんそれでも狭いことには変わりないのだが、文句を言ったところで何が変わるわけでもない。受け入れるしかないのだ。
荷物を置いて、隣の部屋に向かう。
「すみません、ウォードさんはいますか?」
そうなのだ。上田は偶然にもウォードの隣の部屋に住むことになったのだった。加えて、昇格試験に合格したことも、まだ報告できていない。筆記試験の合格は、上田の魔術講師であるウォードの力によるところが大きいため、引越しのあいさつもかねてお礼を言おうと考えたのである。
「あ、やあ、ウェーダ君。な、何か用かな?」
木の板で区切られたスペースで、窮屈そうに座り、顔だけ通路に出しながらウォードは言った。
「こんにちは。昇格試験に合格したので、その報告とお礼に来ました」
「君、君もなかなか律儀だね。だけれど、まあ、おめでとうと言わせてもらおうかな。それで、それで、用件はそれだけかい?」
用件は本当にそれだけだったのだが、ついでと思い、少し前から気になっていたことをきいてみることにした。
「あの、『失われた魔法』について、人の居場所を特定する魔法があるという噂を耳にしたのですが、あり得ると思いますか?」
「あり得るとは思うね。ただ、ただ、ぼくはその魔法は初耳だ……。それでほかには?」
「いえ、以上です。ありがとうございました。では、これで」
上田が立ち去ろうとしたところで、声がかかった。
「ああ、待った」
立ち止まり振り返る。
「『禁じられた書庫』の場所がわかったら教えてね。解析するのに力になれると思うよ」
そう言ったウォードは、相変わらず生気のない目をしていた。
その日の午後、上田は久しぶりに街を歩いていた。
上田はエリアLv.3の森で保護されて以来、自分の足で『禁じられた書庫』を探すのをやめていた。短期間に三度も見回りに保護されて、これ以上は目立ってしまうと考え、出歩かないようにしていたのだ。実際、ジャンには迷子のことを指摘された。やはり何度も迷子になるというのは、おかしなことだからだ。ただ、上田はそれ以上におかしな点をみつけていた。それは、上田が何の問題もなく、無事に戻ってくることができたという事実である。人のいないような、わかりづらい場所にいるにも関わらず、確実に保護されたのだ。しかも三度めに至っては、事前に行く場所を伝え、わざと伝えた場所とは全く別の場所へ行ったのに、無事保護された。
そして上田は、その経験から、二つの仮説をたてた。一つは、上田の行動を気にしている存在がいる。もう一つは、その存在は上田の居場所を知る何らかの手段を持っている。
まず一つめの仮説だが、これは特に不思議なことではない。リュジュアックまでの道程で一度襲われてもいるし、上田の動向を気にしている存在がいることはわかりきっている。当然その襲撃犯と、上田を監視する存在が、同一かどうかについては、まだわからないが。何しろこの世界にとって上田はイレギュラなのだから。
次に二つ目だが、こちらが特に重要であると考えられる。今回の迷子騒動で浮かび上がった疑惑だ。そもそもがエリアLv.5やエリアLv.4は道が入り組んでおり、非常にわかりにくいらしい。基地の近くならそうでもないのだが、ひとたび離れてしまえば、あとは上田が体験した通りだ。それでも迅速に上田をみつけてしまった。さらに嘘を教えても結果は同じだった。ほぼ間違いないだろう。そして居場所を見つける方法としては、魔法が一番に考えられる。ウォードにきいてみたところ、そのような魔法があってもおかしくは無いと言っていた。本当に魔法とは便利なものだ。
以上二つの仮説をたて、『禁じられた書庫』の場所を自分の足で歩いて探すのは危険だという結論に達した。それにもかかわらず、未だエリアLv.5をうろついているのはなぜか。アプローチの手段を変えたからだ。
場所を自力で探すには、街の隅々まで歩いて回らなければならない。そうなれば、また迷子になってしまう危険がある。それは避けたい。目立ちたくはない。だが、『禁じられた書庫』はみつけたい。行動が可能な範囲は基地周辺のみ。基地周辺ということは、いくらさびれたエリアでも人がいる。自分で捜索にでることはできない。では、どうするか。場所の情報を探すのである。それであれば、行動範囲が迷うことのない基地周辺のみで済み、かつ、人の多い区域の方が有利となる。よって、上田は“『禁じられた書庫』の場所探し”から、“『禁じられた書庫』の場所の情報探し”へと方針を転換することにした。
これまでの捜索では素通りしていたため気付かなかったが、基地近くともなれば、エリアLv.5とはいえそれなりに人がいることがわかった。また、4月となり、以前と比べて格段に暖かくなっている。北国らしく、まだ完全な春とはいえないまでも、季節の変わり目ではあるだろう。
基地の周りは赤い屋根のエクワインもあるし、人が住んでいそうな建物もちらほら見える。てっぺんに十字架を付けたひときわ大きな建物は教会だろうか。そういえばマリアが何度か教会という言葉を口にしていた憶えがある。ただ相変わらずどの建物も平均的に高く、気をつけていなければ、すぐにでも奥へと行ってしまいそうだ。それに汚さも、同区域内ではあまり変わらないようだ。さすがにエクワインや教会の壁にはなかったが、様々な落書きがある。
迷わないように、そして石畳の段差に躓かないように気をつけながら聞き込みを続けていく。しばらくすると人に出会わなくなった。行きすぎたようだ。引き返して今度は反対側の路地へと曲がってみる。
良かった。前方に人が見える。
壁に背を預けるフードをかぶった人。それから、髪をツンツンに立てた男性が3人。フードの人を取り囲むようにして、立っている。既視感を感じる。
声をかけるべきか、かけざるべきか。
やめよう。面倒なことになるのは、目に見えている。
振り返って足を踏み出そうとしたところで、足元に黒い影が見えた。ねずみだ。
咄嗟に足を踏み替えるが、バランスを崩したたらを踏む。それでも体重を支えきれず、木製家屋の壁に手をついた。すると朽ちてもろくなっていた壁は、大きな音を立て抜けていった。
上田にとって幸運だったのは、その家がすでに無人の廃屋であったこと。そして不運だったのは、壁を壊す音が聞こえるだけの聴力を、ツンツン髪の男性たちが有していたことである。




