花は折られず、道を分かつ
翌朝の王城。
陽光が差し込む応接室の扉を開けた瞬間――
アデール・ノルンの瞳が、鋭くイリスを射抜いた。
まるで、毒蛇を見るような目だ。
「……どういうつもりなのか、説明してくださる?」
声は氷のように冷たい。
毅然としているように見えるが、イリスには分かった。
アデールの指先が微かに震えている。
イリスは紅茶をそっと置き、
ゆっくりと微笑む。
「まあ、お招きいただいた覚えはないけれど……いいわ。何かしら?」
その余裕ある態度に、アデールは怒気を隠しきれない。
「ふざけないで。
――殿下との婚約。どうしてあなたが?」
イリスは、わずかに首をかしげた。
淑女の所作なのに、どこか舞台の演技のように計算されている。
「どうして? そんなの、簡単な話よ」
細い指で、アデールの胸元――その誇りを示す紋章を、軽く指し示す。
「あなたより、私の方が“国に必要とされた”の。
……ただ、それだけのこと。」
アデールの顔色が、すっと青ざめた。
「そんな……!
私は王家に相応しい教育も、覚悟も――!」
「いいえ、アデール様。
あなたじゃ、この国は変わらない」
イリスの声は甘く優しいのに、その奥に鉄の刃が潜んでいた。
「あなたは“与えられた道”を歩くように教育されてきた。
王家のための花として、気高く、従順に」
アデールの喉が震える。
「……それの何が悪いの?」
「悪くなんてないわ。
でもそれじゃ、誰も救えない」
イリスは一歩、静かに近づく。
「この国はね、腐っているの。
女だから意見するな?
男の決定に従え?
“黙って笑っていろ”?
幼児教育の段階で貴族はこれを刷り込まれる」
軽く笑ってみせるが、その瞳は冷たい。
「そんなの、時代遅れよ。
男が力で勝つなら――女は頭で勝てばいい」
アデールは小刻みに首を振る。
「……あなたが……何を言っているのか、分からない……!」
「ええ、あなたは知らないままでよかったの。
花として、美しく生きられるならそれでよかった」
イリスはそっとアデールの手に触れた。
驚きに目を見開くアデール。
「あなたはね、
産まれた時から“誰かのために生きろ”と押しつけられてきた。
結婚のため、家のため、王家のため」
イリスの声は優しかった。
「でも――
本当は、あなたも“あなた自身”のために生きていいのよ」
アデールの瞳が揺れる。
イリスはそっと手を離し、くるりと背を向けた。
「私は忙しいの。
この国を壊して、作り変える仕事があるから」
歩き出す前に、ほんの一瞬だけ振り返る。
その一瞥には、かつての“優しいイリス”がいた。
「アデール様。
あなたは、壊す必要のない場所で満開の花を咲かしてね」
応接室の扉が閉まる。
アデールは、ただ茫然とイリスの背中を見送ることしかできなかった。
⸻
扉が閉まった瞬間、
アデールは深く息を飲んだ。
胸が、痛い。
いや、痛むだけじゃない。
何かが軋んで、壊れていく音がした。
「……なんで……そんな顔、してるのよ……イリス様……」
さっきのイリスの目。
あの“全部諦めて、それでも前に進もうとする目”。
セイランを見るときの自分とは、まるで違っていた。
アデールは唇を噛んだ。
彼女は、セイランを愛していた。
幼い頃から、その隣に立つように育てられ、
そのための勉強をして、
努力して、
心まで、その未来に合わせてきた。
「私は……ずっと殿下の隣に立てるように……」
ぽたり、と涙がひとつ落ちた。
「……努力してきたのよ……
ただ“愛されたい”だけじゃなくて……
“相応しくありたい”って……ずっと……」
でもイリスが言った。
あなたじゃ、この国は変わらない。
その言葉が、胸に突き刺さる。
避けようとしても避けられない。
イリスには、セイランを守れる力があった。
アデールには、なかった。
「殿下の……隣に立てるのは……私じゃなかったの……?」
涙が頬を伝う。
愛していた人の“未来の隣”が、
自分ではないと知ってしまった。
――努力した。
――健気に尽くした。
――心から愛していた。
なのに。
イリスは“壊す”と宣言して、
それすらも置き去りにしてしまった。
アデールは膝の上で拳を握った。
「……悔しい……
悔しいのに……
あの人の言葉が……痛いほど正しい……」
涙がぼたぼたと落ちる。
イリスの言葉は残酷だった。
優しさすら痛みとして突き刺さった。
だけど。
だけど――
アデールの胸には、確かに残っていた。
イリスが最後に見せた、ほんの一瞬の優しさ。
誰より孤独な覚悟の色。
「……あんな目をしてたら……
嫌いになんて、なれないじゃない……」
涙の粒が震えた。
そしてアデールは気づく。
イリスは敵でも、恋敵でもない。
戦う相手でもない。
ただ――
自分の世界よりもずっと広い場所で、生きているだけだ。
「……私……いつか……
殿下のためじゃなく……
私自身のために……強くなってみたい……」
それは未練と、痛みと、希望が入り混じった呟きだった。
アデールは頬を伝う涙を拭いながら、ひとつ息を吸った。
「……殿下は、きっと私を……好きじゃなかったのよね」
それは責めるでも、恨むでもなく。
彼女自身がずっと目をそらしてきた答えだった。
「だって……一度も、私を見てくれなかったもの」
初めて口にした本音だった。
胸の奥で軋むように痛む。
「努力すれば、いつか振り向いてもらえると……信じていたのに」
静かに笑う。
けれどその笑いは、砂のように崩れた。
「好きになってもらえなかったのは……私のせいじゃない。
でも、そう思えるようになるまで……きっと時間がかかるわね」
そして小さく呟いた。
「……それでも私は、殿下を恨めない。
だって私は……本当に好きだったから」
彼女は今日、
好きだった人を失い、
同時に自分自身を見つけ始めたのだ。




