この国を、正しく壊すために
王城の執務室に、怒声が鋭く裂けた。
「――どういうことですか、父上。
なぜイリス・グランディアと婚約など!」
第一王子セイランの眼は、怒りと戸惑いの熱を宿していた。
国王は深く息を吐き、石像のような顔で答える。
「本人の申し出だ。
今までどれほど国に尽くしてきたか、お前も知っていよう」
「だからといって、無理矢理通したのですか」
「もし拒めば、他国へ向かうと言い出した。
……あれを失えば、国の損失だ」
セイランは唇を噛み、冷たく問う。
「……イリスは今どこに」
「客室だ」
「失礼します」
足音だけが、長い廊下に乾いた余韻を残した。
焦燥とも怒りともつかない感情が、彼を扉の前まで押し出す。
ノック。
「どうぞ」
柔らかく響いた声は、覚えているよりずっとよそよそしかった。
扉を開いた途端――
セイランの胸が強く詰まった。
そこにいた少女は、彼の知るイリスではない。
金糸の髪は完璧に整い、
淡い青のドレスは気品に満ちていた。
しかし、瞳だけが死んでいる。
笑う口元の形だけが、昔のまま。
けれど目は何ひとつ笑っていなかった。
「まあ……殿下が自ら来てくださるなんて。光栄ですわ」
声は甘いのに、ひどく冷たい。
セイランは息を整え、静かに告げた。
「どういうつもりだ。婚約の件だ」
イリスは涼しい顔で茶器を持ち上げた。
「無理に通した? そんなことはありませんわ。
アデール様より私が適任だと判断しただけのこと」
「……本心か?」
「国のためですもの」
そう言うくせに、心がどこにも宿っていない。
魂が抜け殻になったような少女の姿に、セイランは胸の奥がざわついた。
視線をそらさず問う。
「お前は今、何を考えている」
イリスは振り返った。
その瞳は、
誰かに裏切られ、何かを喪い、すべてを諦めた者の眼 をしていた。
「それを言って……何か変わりますか?」
乾いた声だった。
深い絶望が、言葉の端々から滲み落ちる。
“あなたに何ができるの?”
その意味が、氷の刃のように突き刺さる。
イリスはゆっくりとソファへ戻り、丁寧な所作でスカートを整えた。
「殿下。先程はしゃぎすぎましたわ。……婚約のパーティーも早く開きたいですの。どんなドレスがいいかしら」
無邪気な言葉。
しかし、その笑みは完全に作り物だった。
セイランはたまらず声を荒げる。
「イリス……何があったんだ。お前は、そんな顔をする人間じゃない!」
イリスは静かに瞼を伏せた。
そして、ゆっくりと彼を見据えた。
その眼差しは、
過去に何かを決定的に失った者のそれだった。
――いや、喪失ですらない。
最初から戻る道を捨てた者の覚悟だ。
「殿下。私は昔、あなたに申し上げましたよね。
“無知は恥だ” と」
その言葉を静かな刃として突き立てる。
「私は今、自分の歩く道を
知識と、自信と、そして……足がかりで固めています」
淡々と語る声が、逆に胸を締めつけるほど重い。
「殿下は、あの時から何を学びましたか?
あなたは無知すぎる。知らなすぎる。
見ようともしなかった」
セイランの喉が音を立てる。
イリスは微笑んだ。
優しいふりをした、破滅の微笑。
「だから――私が来たのです」
空気が震えた。
「この国を。
正しく、壊すために。」
その宣告は、祈りのように美しく、
断罪のように冷酷で、
そして何より――揺るぎなかった。
イリスは微笑を深める。
「安心なさって。
滅びもまた……この国の救いですわ」
セイランはただ立ち尽くすしかなかった。
目の前の少女が背負っているものが、
もはや王太子ひとりの手でどうにかできる領域ではないと――
直感で理解してしまったから。
イリスはもう、戻れない。
いや。
戻る気など、最初からなかったのだ。




