紅茶が冷める前に
翌朝の商館は、まだ淡い朝靄に包まれていた。
扉が軽くきしむ音とともに――
イリスは何事もなかったような顔で帰ってきた。
「お前……なんで出てった時と服装違うんだよ」
ガルドが腕を組んでいる。
不機嫌に見えるが、その眉間には明らかな“不安”の影があった。
イリスは軽く肩をすくめ、さも当然のように言った。
「レディには色々あるのよ。それより、ルイは?」
「お前の布団で寝てる。すげぇ安心して寝てたぞ」
「そう。なら良かったわ」
ほんの一瞬、イリスの表情がほどけた。
しかし、すぐにいつもの微笑みに戻る。
「ねぇ、オズ?」
ソファに腰を下ろしたイリスに、
オズは手際よく湯を注ぎながら振り返る。
「なんだよ?」
イリスはカップを両手で包み、唐突に言った。
「私がさ……婚約してって言ったらどうする?」
「はぁ?寝ぼけてんのか?」
即答したオズは、鼻で笑う。
「絶対やだ。俺が一生苦労するわ」
「だよねぇ。安心したわ」
イリスは笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄い影を落とした。
「はい、これ。子守のお礼」
「なんだよ……石か?」
「お守りよ。効くかは知らないけど。
……あと、これからもよろしくね」
「おい、どこ行くんだよ
茶入れたばっかだぞ!」
「ふふっモテる女は忙しいのよ」
イリスはひょいっと立ち上がり、軽く手を振った。
その軽さに、オズはいつも通りの彼女を見た気がした。
――けれど。
扉が閉まる瞬間、
イリスはほんの小さく、独り言のように呟いた。
「……ありがとう、オズ」
かすかな声だった。
聞こえたかどうかも怪しいほどに。
「は?」
オズが慌てて扉を開けると、
そこにはもうイリスの姿はどこにもなかった。
残されたのは、まだ湯気を立てる紅茶だけ。
その香りは妙に空しく、
胸の奥に違和感だけを残した。
⸻
数日後。
王都中を揺るがす発表があった。
“第一王子セイランとアデール・ノルン公爵令嬢、婚約破棄”
“第一王子セイランとイリス・グランディア公爵令嬢、婚約へ”
商館の紙を握りしめたオズは、
怒りで顔を真っ赤にした。
「……なんなんだよ、これ!!」
机を叩いても怒りは収まらない。
胸がざわつく。
不吉な予感が暴れ出す。
そして、第七寮でもその一報が入っていた。
ガルドも苦々しい顔で言う。
「イリス……何をひとりで背負ってるんだよ……」
しかし、誰も知らなかった。
あの日、ガルドの胸の中で震えて泣いたイリスが、
どれほどの闇を見てしまったのか。
そして――
自分が動かなければ“誰か”が死ぬと理解した瞬間、
彼女は迷わず自分ひとりを差し出したのだということを。
イリスが選んだのは、
仲間を巻き込まないための“孤独な道”。
誰の助けも届かない高い場所へ、
たったひとりで歩き出したのだ。
「……みんな…
ごめんね。あなたたちのせいじゃないの。
全部、私が決めたことだから」
イリスが誰にも聞こえない声で呟いたその言葉は、
商館や第七寮には届かなかった。
ただ冷たい風だけが、
彼女の覚悟を静かに運んでいった。




