第四話
初めて聞くヒューバートの焦った声に、わたしはうっかり閉じそうになった目をあわてて開いた。
わずかに眇めた瞳はとても真剣で、今ちょっとだけ寝そうだったなんて、とてもじゃないけど言えない雰囲気だ。
……そういえば言葉遣いだっていつもはもっと丁寧よね。よほど心配させちゃったのかな……。でもこっちのほうが話しやすくていいと思うけど。
「おい! しっかりしろ! どこか痛むところはあるか?」
「ううん、大丈夫よ。ちょっと安心しちゃって……。それより、みんなが助かってよかった」
「大丈夫なわけないだろう! まったくこんなに真っ青な顔色をして。大体お前はそんな細い腕と身体であの化け物とどうやって戦うつもりだったんだ」
「戦うっていうか、とにかく遠くに行こうと思って……。そういえばヒューバート、わたし、思い出したの!」
「思い出した? なにをだ?」
「シーサーペントよ! 以前わたしが人魚の里にいた時にも、やっぱりシーサーペントが襲ってきたことがあったの。その時はわたしが囮になって、あいつを遠く離れた海まで連れて行ったのよ」
「お前、記憶を……いや待て。今囮だと言ったか?」
「ええそうよ。あいつ、わたしのウロコみたいにキラキラ光るものが好きなの。だからわたしが……ひっ!」
得意げにそう話した次の瞬間、ヒューバートの眉間にできた今まで見たことのないくらい深い眉間の皺に、わたしはあわてて口を閉じた。
「……お前という奴は! おい、もう二度とそんな無茶をするな!」
「う、うん。あの、ごめんなさい。もうしない、よ?」
「チッ、お前のそのふやけた顔は信用できん。仕方ない。この際どこかに水槽でも作って囲っておくか。いや水槽よりもっと広いプールのほうが……」
「しない! 本当にもうしない! 約束するから! そ、そういえば、ヒューバートはどうやってわたしを見つけたの?」
本気でやりかねないヒューバートの様子に、わたしはあわてて話題を変えた。
「ああ? さっきも言っただろう。お前が原因を調べに行くなんて言ったから、船で追いかけてきたんだ」
「追いかけて? そんなことぜんぜん気がつかなかったわ」
「海の中のことはわからんが、人間は空と潮の流れを読める。お前が冷たい潮が流れ込んでると教えてくれたからな。俺達は船の上から潮目を探したんだ」
「潮目……?」
ヒューバートいわく、あたたかい潮の流れと冷たい潮の流れでは海の色がぜんぜん違うのだそうだ。だからヒューバート達は海の色が変わる場所を探していたらしい。
「あとな、不思議なことにこの荒れた天気の中、沖に鳥山ができていたんだ。普通ならカモメは餌となる魚を狙って旋回してるはずだ。だが魚が姿を消したとお前は言っただろう? だからもしや鳥山の下にお前がいるのではと予測したんだ」
「カモメが……。わたし、てっきりカモメには嫌われたんだと思ってた」
「だが、鳥山を目差して来たのはいいが、お前を探すのを邪魔する奴がいてな。酷く暴れるもんだから退治に少し手間取ってしまったんだ。……遅くなってすまなかった」
「ヒューバート……」
気がつくとヒューバートはロープをたぐり寄せるのを止め、両手でしっかりわたしを抱えている。ううん、抱えているというよりは、抱きしめられてる……?
そのことに気がついた途端、なんだかドキドキしたわたしはあわてて下を向いた。そして誤魔化すように逸らした視線に飛び込んできたのは、太くてがっしりした腕とたくましい胸板で……。え? 胸板!?
「きゃああああああああっ!」
「うおっ! おい、なんだ、どうした?」
「ちょっと、なんで服を着てないのよ! 年頃の女の子の前で非常識だよ!」
「はあ? 服ってなんだ。お前だっていつも裸同然……グッ」
「わあああああ! ヒューバートのばか!!」
わたしは力の限り尾ビレでヒューバートのお腹を叩いた。そして手がゆるんだ隙になんとか縄から抜け出して海にもぐり、ちょっと離れたところまでいってから海面に顔を出した。
「ヒューバートなんてもう知らないから!」
「おい待て! 怪我の治療くらいさせろ! いや、せめて名前くらい教えていけ!」
「やだ! そんな服も着てない野蛮人と話したくない!」
「なっ、野蛮人とはなんだ! おいこら待て!」
「ふん!」
大声でなにかを叫ぶヒューバートをその場に残し、わたしはゆうぜんと泳いで姿を消したのだった。
そして──
それは久しぶりの晴れ間の下、いつもの岩の上で自慢の尾ビレのお手入れをしている時だった。
シーサーペントから逃げ回っていた時に海草の茂みにかくれたせいか、ウロコのあちこちに細かい藻屑がついている。それを一つ一つ丁寧に取り除いていると、遠くから一隻の船がゆっくり近づいてくるのが見えた。
「高い場所から失礼する。お嬢さん、少し時間をもらえるか」
いつもとは違い白いピカピカした制服のような服を着たヒューバートの手には、なぜか花束が見える。そして船から下りるなりわたしの前で膝を折った。
「体調はどうだ? 身体は大丈夫なのか?」
「ええ、すっかり大丈夫よ。ちょっと尻尾で弾かれただけだし、それにもともとわたしは丈夫だから」
「そうか。……よかった。心配してたんだ」
きつく寄せていた眉根がふっとゆるみ、その下から現れた優しい笑顔に、わたしもつられて笑顔になる。
「ふふ、ヒューバートって心配性だよね。ところでその服はどうしたの? それにその花束も。これからどこかに行くの?」
「ああ、これか。野蛮人だなんて言われたからな。仕切り直しだ」
「仕切りなおし……?」
ニヤリと口の端を吊り上げたヒューバートは居住まいをなおし、そしてわたしに向かって花束をさしだした。
「今日は我々の海を守ってくださった女神にお願いがあって参りました」
「え? お願い?」
「はい。女神のご尊名を教えていただけないでしょうか」
額にかかる黒髪が潮風にさらさらと揺れ、いたずらっぽく細く眇めた瞳はわたしの好きな海の色。……まあ、あいかわらず笑顔は怖いし、人魚に花束なんてちょっとずれてる気がするけど。
わたしはヒューバートに向かってにっこりと笑った。
「ええ、もちろんよ。わたしの名前はサラーキア。おばあさまの名前をいただいたの。みんなからはサラって呼ばれてたわ」
「サラーキア、サラか。いい名だ」
「ふふ、嬉しい。……ねえヒューバート、わたしのほうこそお礼を言わないと。助けてくれて本当にありがとう」
……戻った記憶はあいまいで、ところどころが欠けている。人魚の里がどこにあるかもわからないし、これからどうすればいいのかもわからない。
でも、このあたたかな海が好きなのはたしか。
だから、本当は人間に近づかないほうがいいのかもしれないけど──しばらくはこのままでもいいよね?
「これからもよろしくね」
「ああ。こちらこそよろしくお願いする。……まあお前は女神なのにずいぶん危なっかしいからな。誰かが見張ってたほうがいいだろう」
「もう、わたしは女神じゃないって言ってるじゃない! それにひどいわ! ヒューバートなんて知らないから!」
──実のところ人魚は海神の眷属なので、ヒューバートの言う「女神」はあながち間違いではない。
そして自分ではわかっていないが、サラーキアは前世の記憶を持つ「愛し子」と呼ばれ、里では大切にされていたこと。サラーキアの行方を捜し続ける人魚達が世界中に散らばっていることや、その中には「婚約者」を称する幼なじみがいることは、また別の話だ。
これは記憶を失ったちょっと天然な人魚サラーキアと、思い込みの強い強面軍人ヒューバートが恋愛にいたるまでのお話。
~Fin~
これにて完結!お読みいただきありがとうございました!