嵐の前の静けさ
窓の外では静かに雪が降っていた。GRU副長官室の窓から見えるモスクワ川のほとりの公園の並木には雪が積もりつつあった。12月も後半になってくると雪は激しく降るようになって、一面銀世界になるだろう。ロシア連邦の諜報機関であるGRUの副長官ナザイリ・フリンGRU中将は、背を椅子の背もたれに預けて窓の外を眺めていた。この建物で仕事を始めて30年以上の月日が流れていた。今では、ほぼ最上階にいるも同然だった。フリンの同期の幾人かも共に、出世コースを順調に辿っていた。今のGRU長官がまさにそうである。セルゲイ・ガーラスGRU大将は、フリンと同じ軍事外交アカデミーの出身であった。ガーラスは常に教室でトップの成績を保ち続け、主席でアカデミーを卒業した。フリンは二番手で、歯痒い思いをしていたのは事実だった。フリンはガーラスを個人的に妬んでいるわけではないのだ。しかし、どうしても1つだけ許せないことがあった。2022年2月24日からのウクライナに対する侵攻のことであった。あの侵攻のせいでロシア連邦の将来を担うはずであった多くの若者が墓場へと送られることになり、祖国は世界から見放され、大国としての権威は地に堕ちた。根っからの愛国者であるフリンにしてみれば、侵攻は大罪であり、祖国に対する裏切りだった。そんな作戦の立案に助力し、敵の実態とかけ離れた情勢判断を大統領に上申したガーラスも裏切り者である。フリンはガーラスに対して深い憤りを感じていた。そんな時だった、シュレンコフから偉大なる祖国を取り戻す計画を聞かされたのは。モスクワ軍管区の司令官であるミハイル・シュレンコフ陸軍大将が、南部軍管区司令官のルカ・ゴルシコフ陸軍大将と共に、彼の別荘にやってきた。あの日は、9月に入ったばかりで少し肌寒い風が吹いていた。フリンの別荘の周りの木々の葉は赤や黄色になり、緑は姿を隠しつつあった。
「我々の軍は、あの忌まわしき侵攻によって受けた損害を着実に回復しつつある。」
フリンの書斎でウォッカのグラスを飲み干すと、シュレンコフは言った。
「特にゴルシコフ大将の軍は実戦経験があるので、新型の装備を多めに回されている。そうだな、ゴルシコフ?」
長身で痩せ型のルカ・ゴルシコフは長年野外で過ごしてきた為、肌のシワが年齢の割には多く見え、目は険しかった。それゆえに、その繊細な見た目に反した荒々しさを保っている。
「その通りだ。私の配下の機甲師団は、T-90がその主力だ。その他の装甲車に関しては、BTR系が半分で、ブーメランクが残りの半分と言ったところだ。」
シュレンコフは話を継いだ。
「私の軍団に機甲兵力はあまりいないのだが、市街戦では有利な歴戦の歩兵が多い。」
シュレンコフは再びウォッカを注ぐと、口を潤した。
「次に我々が必要としているのは、GRUのスペツナズだ。確かに私の部下は技量が高い。しかし、FSBのアルファ部隊や大統領警護局の戦闘員には引けを取る。そこで彼らの力が必要なんだ。」
興奮で頬を赤めながら、勢いづいて話し続ける。
「あなたはそんなことが成功するとは思えない、と思っているかもしれない。しかし、今の国内の様子を見てみるんだ。国民の誰もが家族を失った悲しみに暮れ、涙している。それに加え、弾圧も酷いものだ。まともな生活なんか送れやしない。一体今まで何人の隣人がいなくなった?今の国家に命をかけるようなやつらはそう多くはないだろう。」
シュレンコフの話を聞いたフリンは、不愉快な冷や汗でシャツが湿っているのに気がついた。いまだに国内にこのような考えを持つロシア人がいるとは思いもしなかった。シュレンコフの話に乗れば、失われた祖国を復活させることができるかもしれない。しかし、同時に大きな罪を背負うことになるのは確かだ。彼の思考は揺れ動いたが、それは顔に出さず、冷静に状況を受け止めているように、シュレンコフとゴルシコフを交互に見つめた。ダークオーク材の机の上に置いてあったウォッカ入りのグラスを手に取り、一口含んだ。
「少し考えさせてくれ。2週間後に、またここに来てくれ。その時までに返事は決めておこう。」
その言葉を聞くと、シュレンコフはサイドテーブルに置いていた軍帽を取り上げた。
「あなたならこの話の扱いはわかっているでしょう。お一人でゆっくりお考えになってください。」
脅し文句とも取れる言葉を残して、陸軍大将2人はそれぞれの公用車で基地に帰って行った。彼らが帰った後、フリンは1人自室に閉じこもり、思考を巡らせた。確かに彼らの言うことは一理ある。今ではウクライナの攻撃は頻繁にモスクワまで届くようになっていた。この別荘にドローン攻撃が届くようになるのも時間の問題だと思っていた。フリンも国民の1人として現在の体制に疲弊していた。しかし、同時に彼は政府の高官である故に内部の状況を知らないわけではない。裏切りが失敗すれば、運が良くて投獄だ。運が悪ければ処刑か。仮に亡命したとしても、国外まで政府の手が伸びていることは確かなので暗殺されることになるだろう。フリンはその夜、夜中の1時を過ぎるまで自室から出てこなかった。
2週間後、約束通りシュレンコフとゴルシコフは再びフリンの別荘へとやってきた。彼らの副官は、フリンが申し出を断るのみならず、連邦政府に通報しており、2人の大将が別荘に入った時に逮捕されることを危惧していた。そのため、まずは警護小隊を先行させ、安全を確保させた。フリンの別荘の安全が確保されると、2台の高級セダンが玄関の車回しに入ってきた。フリンの書斎に通された2人の陸軍大将は、机に向かって手元の書類に署名をするフリンをしばらく眺めていた。書き終わると、フリンは部屋に備え付けのバーカウンターへと歩いていく。ウォッカのボトルを取り、机に置かれた3つのグラスに並々と透明の液体を注いだ。目の前に立つ2人の大男に椅子に座るように進めると、グラスを持つように促した。フリンは手に持ったグラスに口をつけると、穏やかな声で話し始めた。
「2週間前、あなた方に言われたことを検討していた―。」




