第26話 明滅
「春樹」
エレベーターから一人降りてきた春樹を見つけ、隆也が声を掛けると、聡も植え込みのブロックから神妙な顔で立ち上がった。
日が暮れるのが早くなり、あたりはもうすっかり薄闇に包まれている。
「あれ? どうして二人、一緒に?」
春樹はキョトンとした表情で、隆也と聡を交互に見比べた。
その様子に隆也は、別段辛い話になったわけでは無いのだと、勝手にホッとした。
「いや、偶然だよ偶然。それより、話はもう終わったのか?」
「うん。美沙に話してきた。あと一週間で事務所を辞めること」
「そうか。・・・え? ・・・今、何て?」
明らかに聞き間違いだと思いつつ、隆也は聞き返した。聡も同じだったらしく、ポカンとした表情だ。
「立花局長」
春樹は隆也にではなく、聡の方へゆっくり歩み寄り、そしてその目を見上げた。
「いろいろお世話になりました。あと一週間でこの事務所を退職します。美沙に今、了解をもらいました。僕、大学を受験することに決めたんです」
「春樹君、それ・・・本当に?」
驚いて目を見張る聡の横で、思わず隆也まで唸るような声を漏らしてしまった。
初耳だ。今までチラリとも、そんなことは言わなかったのに・・・と。
「僕がいなくても、きっと局長が美沙をサポートして下さいますよね。だから、心配いらないですよね」
意味ありげなニュアンスを持った春樹のその言葉に、聡は少しばかり緊張した表情になり、そして慎重に春樹に言葉を返した。
「美沙ちゃんはいずれ本社に来て貰うつもりだよ。彼女も検討してくれている。だから、その事は心配いらないよ」
「そうですか・・・本社に。だったら安心ですね」
「しかし驚いた。これから受験する気になるとはね。でもまあ、君にとってはそれが一番いいのかもしれない。マンションも同じだし、また美沙ちゃんもいろいろ力になってくれるよ。だから、君の方も大丈夫だよね」
「マンションは、合格すれば引っ越します。大学はまだ絞ってないんですが、いずれにしても、ここから通える場所では無いと思いますから」
またしても聡は驚きの声を漏らし、隆也は喉の奥のくぐもった声を堪えた。
“いや、まて、俺はまだ話に入るべきじゃない。”
隆也は必死で制御し、一歩後ずさりした。
「それは地方に行くってこと? じゃあ、そっちに行きたい学部があるんだね。それは仕方ないけど・・・美沙ちゃん、寂しがるなあ、きっと」
複雑な想いで恐る恐る訊いてきた聡に、春樹はゆっくり首を横に振った。
それがどういう意味なのか、きっと春樹にしか分からないだろうが、隆也の胸の中でどうしようもない切なさが沸き上がってきた。
それは聡も同じだったのかも知れない。
自分の半分も生きていない少年の決断に、その男は今心底労りと愛情の目を向けている。
「そうか・・・。君が決めたことだもんね。心から応援するよ。君ならきっと、自分の道を思うままに切り開いていける。もし何か困ったことがあったら、いつでも相談に乗るよ。だから頑張って!」
そう言って聡は自然な仕草で春樹の方に右手を差し出した。
隆也の心臓が一瞬縮んだ。
けれど春樹は少しも躊躇うことなくその手を握り、そしてそのまま聡を見上げて呟いた。
「美沙をお願いします」
再び二人の手が放れるまで、隆也は息が出来なかった。
聡は「うん」と力強く頷き、春樹も微笑み返した。ただそれだけの、ほんの短い時間だった。
「一週間後、送別会しような、春樹君」
そう言って聡がエレベーターに乗り込み、姿が見えなくなると、隆也はようやく春樹ににじり寄った。
「本気か?」
「うん」
「いったい何考えてんだ、お前は。今日はお兄さんのことを話に行ったんじゃなかったのか?」
「うん。ちゃんと話した。佐々木さんの事も、全部」
「それが何で辞めるとか、受験の話になるんだ? 俺、聞いてないぞ」
隆也は更ににじり寄り、しつこく質問攻めを始めると、春樹はまるでフッと魂が抜けたような目をし、もう考えることに疲れたように遠くに点滅する黄色い信号を見つめた。
「・・・春樹? 大丈夫か?」
「ねえ、隆也」
「ん?」
「何か、空っぽになった」
まるで消えてしまいそうな、か細い春樹の声だった。
「・・・そっか」
この瞬間になってようやく、春樹がついさっきまでどんな思いでいたのか、隆也にじんわり伝わってきた。
この数十分でこの友人の心に、どれだけの負荷が掛かったのか。
どれほど苦しい決断をしたのか。
ゆっくりと明滅する黄色が暗闇の中、春樹の瞳に瞬いている。
赤にも緑にも変わらない、永遠の明滅の黄。
「春樹、帰ろうか」
「・・・うん」
まだ気の抜けたような目をスッと隆也に流し、春樹が答えた。
そのまま消えてしまいそうな予感に捕らわれ、隆也は一瞬身震いした。
「今夜、春樹ん家、泊まってもいいかな。またちょっと教えて貰いたいことがあって・・・。ダメかな」
「いいよ。一週間後から僕も受験生だし。いっしょにやろう」
「ああ、そうだった。なんか俺も意欲湧いてきたな。がんばれそう」
「ねえ、隆也」
「なに?」
「立花局長って、すごくいい人だった」
「え・・・」
春樹は隆也を見つめたまま、嬉しそうな笑顔を作った。
「美沙をすごく大切に想ってる。純粋に守ろうとしてくれてる。あの人は絶対、美沙を幸せにしてくれると思うよ」
春樹は笑っているというのに、隆也は不意に目頭に熱を感じ、ジワジワと滲み出た涙を見られないように目をそらした。
「うん、そうかもね。・・・さ、帰ろう、春樹。急に冷え込んできたし。帰ってメシ食って勉強、勉強!」
隆也は馬鹿みたいに大きな声を出すと、歩き出した。
ヤケクソのように叫んでいないと、本当に泣き出してしまいそうな、寒々とした夜だった。




