第25話 法則
「春樹・・・今、なんて言ったの?」
聞き間違いであってほしい。そう願いながら美沙は聞き返した。
「本当はちゃんと辞表とか出さなきゃいけないんだろうけど、よく分からなくて。口頭でごめんなさい。僕、この事務所を辞めます。できるならあと一週間で」
「あと一週間って・・・どうして? どうしてそんな急に・・・」
うわずってしまった美沙の声を、春樹が落ち着いた声で止めた。
「大学を受験しようと思うんだ」
「大学?」
「うん。隆也の為に問題集とか買ってたらさ、すごく懐かしくなって。自分はまだ、勉強の途中だったんだって。学ぶべき事が沢山残ってて、知らなきゃいけないことも、まだ沢山あるんだって。改めて気が付いたんだ」
春樹は時折、窓の外に視線を送りながら、やはり穏やかな口調で続けた。
「ここで学んだ事は計り知れないし、大切な僕の財産になった。でもこれは美沙のレールなんだ。僕はあの頃一人では道が探せなくて、美沙のレールに乗っかってしまったんだ。整備された道を、守られながら甘えながら、乗っかって来ただけなんだ」
「どうして? そんなふうに考えること無いじゃない。あなたはしっかりここまで自力で走ってきたよ。私はすごく助けられた」
「僕はね、美沙」
けれど再び視線を合わせてきた春樹に、美沙は言葉を飲み込むしか無かった。
「自分で歩いてみようと思うんだ。自分で切り開いた道を、もう誰の手も煩わせずに」
「・・・春樹」
「応援してよ、美沙。受験最終日までもう3カ月無いんだ。錆び付いた頭が働くかどうか分からないけど、頑張ってみるから」
「・・・」
頷くより他に無いのだろうか。
春樹がここを辞めて大学に進みたいと願う気持ちには、何の抵抗も無かった。けれど美沙にはどうしても胸に刺さった氷の杭が抜けなかった。
春樹が言っているのは〈別れ〉なのだ。それが伝わってきて、苦しくて仕方なかった。
「・・・春樹、受験は応援するよ。春樹は頭良いから心配はしない。事務所も、あなたが抜けたら厳しいけど、なんとかやっていくから。でも・・・またいつでも遊びに来なさいよ。ホントに。マンションの部屋だって、今までは行き来なかったけど、遊びにきたらいいし。大学だって関東圏なんでしょ? きっと今までと変わらないよね。引っ越したり、しないよね?」
「美沙、今までありがとうね」
春樹の、風のように優しい言葉がトンと美沙の胸を貫いた。
ピンと張っていた糸が、切れる音がした。
「それって、サヨナラなの?」
「・・・」
美沙の返事に今度は春樹が戸惑いを見せた。
「そう・・・。分かった。私がいない方がいいのね。全てを知ってる私が傍にいることは、きっとあなたを苦しめるから」
「そんなつもりで言ったんじゃないよ。美沙、僕は・・・」
「分かってる。あなたは言い出したら聞かないもの」
出て来たのは、ナイフのように冷やかな自分の声だった。
「結局いつだって、あなたは自分の思うとおりに道を選んできたんだもん。私の意見なんて聞いたことない。私はやっぱり春樹の事が心配で仕方ないけど、あなたがそう決めたんなら、もう何も言わない。がんばってね」
“馬鹿な。 何て事を・・・”
美沙は、自分の口から吐き出された醜い言葉に震撼した。
「うん。・・・ありがとう、美沙」
春樹の少し悲しげな声に、足元が崩れそうだった。
そんなことを言えば春樹が苦しい思いをすることは分かっているというのに。
散々苦しんだあげく、春樹が出した新しい道への決断だというのに。
自分への激しい怒りが沸々と沸き上がり、春樹に背を向けた時だった。
少し遠ざかった背後で、春樹が小さく言った。
「美沙には・・・幸せになって欲しい」
余りに消え入りそうな小さな声に、空耳だったのかと思い振り返ると、もう春樹の姿はなく、ドアがカチャリと閉まる音が空しく床に落ちた。
“美沙には、幸せになって欲しい”
・・・美沙には・・・
美沙はその場に力なく崩れ落ち、そして声を上げて泣いた。
少年の悲しみも辛辣なほどの優しさも、その言葉に集約されていたのだ。
彼には全て分かっていたのだ。手など触れなくても全て。
春樹を想う度に味わう美沙の苦悩も、それから開放されようと突き放していたことも、そしてそれらを忘れさせてくれる、聡という男への想いも。
自分の愚かさと、そして少年の優しさが今はただ、苦しくて辛くて堪らなかった。
もう、戻れないのだろう。どんなに泣いても我が儘を言っても。
《秘密》という枷を外され、春樹に触れたいと口にした瞬間からもう、今までの二人には戻れなくなってしまった。
《圭一の秘密》が二人を引き裂いていたのでは無かった。逆にそれは絆だったのかもしれない。
美沙自身、気付いてしまった。
秘密と言う枷を外された時、自分を襲った不安は、「春樹の力」への単純な躊躇い。
触れると心を読まれてしまうことへの戸惑いに、初めて正面から対峙したのだ。
春樹は、そんなこと、3年も前から承知していたのに。自分が不安を抱かせる存在だと言う事を。
気付かない振りをしていたのは、美沙なのだ。
圭一を恨むことによって保たれてきた欺瞞は今、余りにも単純な答えに行き場を失った。
美沙は、春樹への苦しい恋心を口にしてしまった。
春樹は、大切な女性には決して触れない。決して抱かない。
ただそれだけの、けれどそれはどうしようもない、サヨナラの法則だった。




