63.夢の中の織はとても
籍を入れたとて、生活がいきなり何かが変わるわけではなかった。
朝起きて、同じ部屋で仕事をし、同じ食卓で簡単な昼食をとり、夜になれば並んでソファに座る。
その流れは、昨日までと何ひとつ変わらない。
ただ、変化があったとすれば、苗字が変わったこと。
役所で受け取った書類の端に印字された「上条」という文字を見たとき、胸の奥がわずかにざわついた。
そのざわつきは不安ではなく、むしろ、静かに沈んでいくような実感に近かった。
郵便受けに届く荷物の宛名も、少しずつ「上条」に変わりはじめた。
宅配の受け取りで名前を告げると、まだ自分の声がその音に追いつかない。
けれど、織が横で「はい、上条です」と自然に言うのを聞くと、その違和感はすっと溶けていった。
元住んでいた家には、時折、子供たちへのおこづかいという名目で援助をするようになった。
特に理由はなかった。
ただ、あの家に残してきたものが、完全に途切れてしまうのを望まなかっただけだ。
玄関を開けて出てくる彩に封筒を渡すたび、かつての生活の気配が指先に触れるような気がした。
本当にいらない、と彩は言ってくるが、裕介は黙って渡して、帰っていく。
織は、そのことについて何も言わない。
責めるでもなく、気を遣うでもなく、ただ、裕介が封筒を用意しているときは、そっと湯を沸かして待っている。
帰ってくると「おかえり」とだけ言う。
その声に、過去と現在が無理なく並んでいくような安心があった。
上条の姓を名乗るようになったのも、特に理由はなかった。
ただ、織と同じ名前で呼ばれることが、自然なことのように思えた。
理由を探せばいくつも挙げられるのかもしれないが、どれも本質ではない。
気づけば、そうしていた。それだけだった。
生活は変わらない。
けれど、変わらない日々の中に、確かに新しいものが混ざりはじめていた。
朝、並んで歯を磨くときの距離感。
仕事の合間に交わす短い会話。
夕方、同じ部屋で別々の作業をしているときの静けさ。
どれも以前と同じなのに、どこか違う。
夫婦になったという事実は、派手な変化をもたらすわけではない。
ただ、生活の隙間に、ゆっくりと、確かな重みを落としていく。
その重みが、裕介には心地よかった。
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その夜、裕介は夢を見ていた。
薄い霧のような光の中に、織が立っていた。
いつもの部屋でも、どこかの街でもない。
場所の輪郭は曖昧で、ただ柔らかな明るさだけが漂っている。
織は、静かに微笑んでいた。
その表情は、現実よりも少し若く、少し儚い。
けれど、確かに織だった。
裕介はふと、自分の手首を見る。
そこには、以前の夢で感じていたはずの鎖がなかった。
重さも、引かれる感覚もない。
ただ、自分の身体が自分のものとして、軽くそこにあった。
織の方へ一歩踏み出す。
足元には何も絡まない。
自由に動けるというだけで、胸の奥が温かくなる。
織もまた、一歩近づいた。
二人の距離が縮まるたび、霧のような光がゆっくりと揺れる。
「織」
呼びかける声は、夢の中なのに驚くほどはっきりしていた。
織はその声に応えるように、柔らかく目を細める。
鎖がない。
つながれていない。
それでも、織はそこにいる。
裕介は手を伸ばした。
織も同じように手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、光がふっと強くなった。
つながれていないのに、離れない。
縛られていないのに、そばにいる。
その感覚が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
二人は微笑み合っていた。
言葉はなかったが、それで十分だった。
夢の中の織は、ただそこにいて、裕介もまた、ただそこにいた。
それだけで、世界が満ちていた。




