#6
ふっと浮上した意識に望は身を起こす。そこに広がるのは木々の緑ではなく、艶々とした板の間だ。見慣れた内装にまばたきを繰り返し、近くで横になる直人を見やる。直人の手を握ったままのようだ。反対側には、同じように直人の手を握っている周が片膝を立てて微笑んでいる。
「……周、私何もできなかった」
直人のことを何も知らなかったから。かと言って、知っていたら何かできたかと問われても自信がない。
「そんなことないよ。君は彼の手を握っていてくれたからね」
落ち込む望には周は穏やかに返す。
望がいれば直人は大人しいはず。そう思って望にも夢に入ってもらった。言い方は悪いが、望を利用したのだ。君は利用されていたんだ、と直人に言ったとき、そうよぎった。望に申し訳なく思うも、それと同時に感謝している。
近くにいてくれるだけで十分だった。それに加え、望は、周が話すとき、いつも直人の様子を窺っていた。とくに、周が指摘するとき、怯えていた直人を落ち着かせるように望は手を握ってくれた。それも、望から直人に手を差し伸べたのだ。
「君は彼によくしてくれたよ」
「それぐらいしかできることはなかったから」
「僕が君に話していなかったっていうのも大きいかな。話していれば、君はもっと行動を起こしてくれたと思うけど、重たい話だから。勝手に夢を覗き見した僕が勝手に語っていい話ではない」
周は直人の前髪を軽く払う。前髪の下、目元の包帯がわずかに滲んでいる。汗かそれとも。
「ねえ、直人君のこと、どんな話かはまだ教えてくれない?」
「それはこれからさ。……ほら、お目覚めだ」
うっ、と直人は小さく呻く。もぞもぞと動いた後、直人の口元が緩やかに動く。
「……あれ?」
「おはよう。いや、時間帯としては、夜だけど」
開け放たれた窓から見える外の景色は暗い。星がまたたき、山吹色の月が輝く時間だ。吹き込む風が三人の髪を揺らす。
「ここは……夢じゃ、ない?」
「そうだよ」
直人は不思議そうに身体を起こし、周と望の気配を確認するように交互に見やる。
「じゃあ、あの話は夢?」
「夢だよ。僕らと一緒に歩き、お話したのは夢の世界」
「……そっか」
直人は二人からそっと手を離すと、目元の包帯に触れる。左目の方がわずかに濡れている。
「……」
直人は目元を触ったその手を頭の後ろにやり、包帯の結び目に触れる。固く、簡単には解けないように結ばれた包帯。結び目に触れる指先に力を込めて、結び目を緩める。
直人の手が恐る恐る包帯を解いていく。周と望はその様子を見守る。封印を解くように慎重な手つきだ。
白い包帯が解かれていき直人の膝の上に垂れていく。最後の一周がゆっくりと解かれると、隠されていた直人の目元が露わになる。
翡翠がひとつ転がり出る。夏の山々を思わせるその瞳は眩しそうに細められる。
「君、その目は……」
周は直人の目を見て細い目を見開く。望も同じように目を瞠る。
太陽に照らされたような緑色。翡翠の瞳が二人を捉える。
「ね、ぼくは……おれは、あながち嘘を言ってなかったでしょ?」
直人は悪戯少年の笑みを浮かべる。灯が眩しく、翡翠が受け取る光の量を抑えるために手をかざす。
翡翠はひとつ。もうひとつの翡翠は封じられているようだ。まるで、縫いつけるような大きな傷が少年の右目に刻まれている。右目は閉ざされたままだ。
「おれは片目が見えないってね」
「嘘と言うよりも、言葉が足りないだね」
周は深々とため息をつく。嘘ではないと言えば嘘ではないのだろうが、正確ではない。
「両目とも見えると思った?」
「思ってたよ。だって、呪いがかけられているのはわかっていたからね。本当はちゃんと目が見えるとばかり……」
「え? 周、もしかして、初めからわかってたの?」
あからさまに前からわかっていたと言わんばかりの物言いに、望は周に尋ねる。てっきり、夢を覗き見たときにわかったとばかり思っていた。
「一応ね。何だか、目から不思議な力を感じるとは思ってたさ。それで、夢を覗いてみたら、目が見えないのだからって言葉の呪いをかけられていることがわかった」
目は慣れたかな? と周は直人に向かって手を振る。まだ眩しそうにしている直人は周の指先を追っている。
「うわ、久しぶりに見る誰かの顔がおじさんとか嫌だな」
「だから、僕らはおじさんって年じゃないんだけど」
「おじさんだよ。僕よりもずっと年上だし」
「杏が君にやたら怒るのはそれが原因でもあるからね」
一番の原因かもしれない。もちろん、相手によって態度を変えるというところも気に入らないと思うが、おじさん扱いされるのを相当嫌がっていた。
「望ちゃん、これがこの子の本性ですよー」
「あ、そうなんだ」
思ってたよりも可愛らしいと望は思う。
人ならざる者基準のおじさんとお兄さんの区別がよくわからない。人間で考えると、周や杏介の見た目年齢は二十半ばほど。二人とも老けては見えない。が、直人からすると、お兄さんではないようだ。
「女性にはみんなお姉さんって言ってさ」
「お姉さんはお姉さんだよ」
「ありがとう……なのかな?」
「望ちゃんは実際のところ若いし。この子より年下だしねえ」
「……え?」
望は間抜けな声を出す。
人ならざる者たちの実年齢と見た目の年齢は一致しない。たとえ、直人が六、七歳の子供の姿であろうとも、その年齢は望より上の可能性が高い。
「……直人君、いくつ?」
望は恐る恐る尋ねる。
「よく覚えてないけど、港に外国の船が侵入したとか言って騒いでた頃の生まれらしい」
それは一体いつだ。望の頭の中に疑問符がいくつも浮かぶ。
「江戸に幕府があった頃。えーっとね、何だっけ、おじさん。あれだよ、あれ」
「どれ?」
うーん、と頭をひねる直人に周も眉を下げる。江戸幕府と言えど、約二六〇年の歴史があるのだ。異国の船が港に侵入したと言われても、どこの港なのか、異国とはどこなのかわからない。現在、伝わっていないだけで、そのような出来事は数多くあった。
「ほら、外国の船は来るなーって命令が出たらしいよって話が出た頃」
「……異国船打払令?」
周が尋ねると直人は首を傾げる。
「そんな名前だったけ? でも、何とか打払令だった気がする」
「命令の名前はいくつかあるからね。でも、わかったよ。君、江戸の終わり頃の生まれだね」
周は頭の中の年表を思い浮かべながら言う。
「周、西暦で言うといつぐらい?」
「一八〇〇年代前半。異国船打払令が出たのが十一代将軍のとき」
江戸幕府の始まりは一六〇〇年頃、最後の将軍は十五代目。そう考えると江戸時代の終わりも終わりだ。
望は頭の中で現在の西暦から一八〇〇を引く。
「ってことは、直人君って二百歳ぐらい?」
「そうなるね」
望の約十倍年上だ。小学校一年生ぐらいの見た目で二百歳。妖界の世界ではよくある話だ。
「……ごめんなさい」
「何が?」
直人はなぜ謝られたのか理解できず、きょとんとしている。見た目相応のその反応のせいか、余計に直人の方が年下に見えてしまい、望は頭を振る。見た目で判断してはいけないと思っているが、ついつい視覚的な情報から判断してしまうと望は反省する。
「すっごく年下扱いしてました」
「別にいいよ。見た目的にはお姉さんの方が年上に見えるし。それに、おれは多分一生この見た目のままだから」
「そうなの?」
種族、個体差はあるものの、長命な者ほど見た目の変化がゆっくりであると周から聞いたことがある。中にはずっと見た目が変化しない者もいると同時に教わった。直人は後者にあたるということだ。
「うん。おれ、一回死んでるから時間が止まってるみたいだねって杉神様が言ってた」
「……はい?」
次から次へと出てくる直人の情報に望はついていけなくなる。
「あ、そっか。お姉さんには言ってなかったや。おれ、元人間」
直人は自分を指さしながら言う。
「………………元人間?」
「そう。元人間。ある家族が山超えしようと山道を歩いていたら山賊に襲われたんだって。皆殺されてしまったと思ったけど、唯一息のあった子供がいた。それがおれ。で、助けてくれたのが神様。この目の傷はそのときについたものらしい」
直人はそう言って右目の傷に触れる。痛みは一切ない、痕になってしまった傷だ。
「……周」
「望ちゃん、ついていけてないって顔だね」
「情報量が多すぎるし、直人君の過去が重い」
家族共々山賊に襲われ、命を落としたという話も十分重い。さらに、神に救われた後も縛りつけられていたのだ。
彼の歩んできた過去は重い。にもかかわらず、直人は明るく、元気だ。過去にあったことを全く感じさせない明るさだ。
「妖怪とか物の怪には多い話だけどね」
人の魂から生まれる者も多い。人から人ならざる者へ変わるときに神が手を貸すこともしばしばある。
「おじさんも過去に色々あったでしょ?」
「まあね。君の倍は生きてるから」
「やっぱりおじさんだよ」
「僕はあまり言わないけど、その呼ばれ方は納得してないからね」
ピクリと周の眉が上がる。別におじさんと呼ばれることに対して嫌悪感はない。子供からするとそう見えるのかもしれないと思うし、年齢についてあれこれ言うつもりもあまりない。
だが、直人の言うおじさんは納得できない。悪意のある言い方に聞こえてしまうからだ。本人がどう思っているかはわからないが、嫌味に聞こえる。
「お姉さん、訊きたいことあるなら訊いていいよ。おれ、知っていることなら答えるから」
「うん。……その、直人君は元人間ってことだけど、人だった頃のことは覚えてるの?」
「全然覚えてない。だから、家族のこともわからない。唯一覚えてる人間としての記憶は本当に最期の最期。杉神様に救われたときのことだけ。名前も、妖怪になってからつけられたものだし」
直人は他人事のように話しているが、内容はやはり重い。本人がこれっぽっちも気にしていないのが幸いか。
「杉の木のように真っ直ぐな子になるようにって最初は直って名前だったけど、白鷺の神様が元は人間だった証をって人を加えて直人ってなった」
「真っ直ぐねえ……。君のどこが真っ直ぐなのかな?」
相手によって態度を変える。時には必要なことだとは思うが、直人のそれは明らかに不必要なものだ。ひねくれ者の直人のどこが真っ直ぐなのだろうと疑問を抱かずにはいられない。
「おれ、素直な子でしょ?」
「ぼくって言って純朴に振舞う猫かぶりのどこが真っ直ぐで素直な子なのかな?」
包帯を外してからはしれっと本性を表している。周は眉根を寄せる。
「えへへー」
「笑って誤魔化さない」
「えーん」
「泣いて誤魔化さない」
「べーっだ」
「……君」
直人が舌を出して周をおちょくる。これもあってか、杏介はよく怒っていた。人の話を聞いているのか、反省しているのか、と怒る杏介を煽っていた原因はこれだ。
「化けの皮がやっとこさ剥がれたね」
「おじさんが言ったからだよ」
「呪いを解いたようなものなのに、君って子は……」
「あっははー。そこは感謝してるよ。お姉さんもありがとう」
「私はとくに何も……」
「そんなことないよ。あのとき、おれを追いかけてくれなかったら、この街から出て行ってたかもしれないからね」
その場合、この目の呪いが解かれることもなかっただろうと直人は思う。
その後、二人は直人の今までの話を聞いた。
山賊に襲われて命を落とした子供は直人という新しい生を受けた。その際、両目共に失明したと思われていたため、聴覚や触覚を鍛える訓練が始まった。
しかし、本当は左目は見えていたのだ。直人はそれを二柱の神に伝えようとした。だが、やけに熱心に指導する二柱に言えなかった。そのような状態で、ずっと生きてきた直人だったが、夢の中でも話したとおりのことが起こる。直人は二柱に目が見えないから一人では危険だと言い聞かせられ、それが呪いとなってしまい、自分は目が見えないから二柱から離れられないと思い込むようになった。力が弱まっていく二柱に利用されているのではないかという疑念を持ちながらも、直人は山奥で生きていた。
二柱との生活が続いた。そんなある日、突然、二柱が消えてしまった。周曰く、信仰心が足りず、二柱のことを知っている存在がほとんどいなくなってしまったことが原因だと考えられる。
二柱が消えてから山は環境を変えていくこととなる。直人は接触を制限されていた妖怪たちと再び親密になったが、神の保護がなくなった直人を狙う者が出てきた。他所から、妖怪たちが入ってくるようにもなった。
二柱が消えてから数十年が経過した。二柱がいない生活にも慣れた直人は月日の流れを肌で感じていた。それは、山の様子が大きく変わったからだ。生態系も、妖怪たちも、二柱がいたときよりも荒れていた。
大きな変化は人の出入りが増えたことだ。また来た、と感じていたある日の直人は人間の会話を盗み聞きした。
この山を崩す。
その言葉を聞いたとき、直人は信じられなかった。そして、その日は突然訪れた。聞き覚えのない音がするようになり、山はまた変わっていった。
地響きのような音。耳をつんざくような、その音に紛れて悲鳴が聞こえた。それは、植物たちの悲鳴だった。痛い、切らないで、と唸り声にかき消されそうになりながら訴えていた。
自分は二柱が消えた後も残る。そう決めていたのだが、それも限界がきた。その重々しい聞いたことのない音を耳にしたとき、直人は山を出る決意をした。
そうして何年か彷徨った。恐らく、五、六回の春が過ぎたと思ったとき、夢屋の噂を聞いた。
『この間、夢を買ったんだ』
『どんな夢を買ったんだ?』
『それは内緒。作ってもらった特注品だからな』
夢売りの存在。そのとき初めて知った。そもそも、ずっと山にいて、あるときから山の外の情報を遮断されていた直人からすると、山を下りてからは知らないことの連続だった。聞いたことのない音、触ったことのない質感、嗅いだことのないにおいなど山の外は知らないことで溢れていた。その中で、夢売りという存在が気になった。
あの頃の思い出を夢として買えるかもしれない。まだ、二柱が直人に優しくしてくれていた日々の過去を。
「それが、おじさんに会いたかった理由さ。夢を作るとなると高いって聞いてたから、とりあえず、あの山に似た自然豊かな夢が欲しいってお願いしたんだ」
「なるほどね」
周は瓶の中の夢玉に目をやる。自然豊かな夢と言われ、店にあるだけのものを持ってきた。直人の夢を盗み見たときに、一番雰囲気が似ているだろうと思った夢に引きずり込んだ。お試しの意味でも直人を連れて行ったが、本人はどう思ったか。
「大体の話はこんな感じ。どう?」
「直人君、苦労してきたね」
この小さな身体で背負うには大きな出来事が多い。人間だった頃の記憶はないと言うが、唯一と言っていい人間としての記憶が壮絶なのだ。
命を救われたと思いきや、二柱に強い言霊をかけられ、行動を制限された。その神も突然消え、山の環境が変わり、最後は長く暮らした場所から離れるしかなかった。
そのような過去を一切感じさせない直人に望は胸が痛む。辛い、悲しいといった感情があるはずなのに、それを表に出さない。大丈夫だろうかと心配になる。
望のそのような感情を察したのか、直人は笑い飛ばす。
「確かに、神様のことはちょっと思うことがあるよ」
強い言霊、悪く言えば呪いをかけられ、自分の気持ちにふたをした。だから、いつしか人格を使い分けるようになった。ぼくという素直な子供とおれという生意気な子供。主に、白鷺の神には素直な子供を、杉の神には生意気な子供で接することが増えた。甘やかしてくれる女神には素直に接した方がいい、生真面目な男神にはつっかかった方がいい。そうした方が、彼らが構ってくれたからだ。
それでも。
「おれは、あの二人のおかげで今こうしていられる。……愛してくれたと思う」
利用されていたかもしれない。それでも、直人の手を引く二人の手は頼もしかった。直人と呼ぶ声は優しかった。
「ちゃんとありがとうを言えずに今まで来ちゃったな」
直人は苦笑する。
消えていく二柱に感謝を告げられなかった。それが心残りだ。自分の中で状況が飲み込めない間に二人と会えなくなってしまった。
「せめて、夢の中でまた会えるといいなって思う」
「だといいね。……ところで、君」
周は瓶を手に取り、直人に見せる。
「夢、買う?」
「買いたい」
「うん。お金、持ってるかな?」
すーっとわかりやすく直人の目が逸らされる。
「……あはは。実は、ほぼ一文無しさ」
瓶の中の夢玉がカラン、と間抜けな音を立てた。
◇◇◇◇◇
棗、杏介が並ぶ前で、直人は深々と頭を下げる。
「今まで、本当に申し訳ありませんでした」
床に手をつき、頭を下げる直人に棗と杏介は顔を見合わせる。
周、直人、望の三人が下りてくると、棗と杏介が話をしていた。今日の診察を終え、直人のことはどうだ、と訪ねて来た棗に、周はちょうどいい、と言って望の後ろに隠れていた直人を引きずり出した。気まずそうにしながら、今までの非礼を詫びたいから時間をくれ、と言った直人の翡翠に目を瞠りながらも、棗と杏介は応じた。
その結果、勢いに任せて正座し、頭を下げた直人に棗と杏介は思考が追いつかずにいた。
「……まあ、顔を上げなさい」
先に状況を呑みこんだ棗がそう言うと直人はゆっくりと顔を上げる。翡翠の瞳が気まずそうに二人を見つめる。
「お前さん、目の具合はどうだ? 眩しくて目が痛いとか、ふらつくとかないか?」
棗は直人の目を覗き込む。柔らかな手が直人の頬に触れ、直人は目を丸くする。
直人の目元について、棗は心配していた。怪我をしているようだから診てやってほしい、と杏介に連れられた直人を診察した。そのとき、怪我も気になったが、一番は目元の包帯のことが目に入った。薄汚れた包帯は衛生的によくない。それに加え、この夏の暑さだ。汗疹ができやしないかと心配になった。清潔に保つよう、包帯を換えるようにと言ったのだ。しかし、直人は面倒くさい、と言って生意気な態度をとっていた。一発蹴り飛ばしてやろうかとも思ったぐらいだ。
棗が心配した包帯の下は目元の傷が気になるぐらいで、綺麗なものだ。汗疹はなく、棗が手を左右に動かすと翡翠が追いかける。ぱっと見た限りではとくに異常はないようだ。あとは直人がどう思うか、自己申告によっては薬のことを考えるのみだ。
「ちょっと慣れてきたけど……」
謝罪に対して何か言われると思いきや、目の診察が始まり、驚いた直人はどもりながら答える。
階段を下りるのが怖かった。暗闇にぼんやりと浮かぶ階段、ふらつく視界に周と望の手を借りながら何とか下りた。
下りた先、廊下を進み、事務所に入ったとき、目が痛んだ。事務所の灯が眩しかったのだ。望の背後に隠れていたのは杏介と顔を合わせるのが気まずいというのが一番だが、眩しかったからというのもある。多少、目が灯に慣れてきたが、それでも目の奥の方がわずかに痛い気がする。
「そうか。何だ、こうして見ると、やっぱり子供の顔をしてるな」
ぽんぽん、と頭を撫でられた直人は困惑しながら棗を見上げる。丸い目がゆっくりと細められ、間抜けな顔をしている直人が見切れる。
「何かあったらすぐにいいなさい。薬の用意をすぐにするからな」
棗はにいっと笑う。
「それにしても、生意気なガキの顔だ」
「ほんと、包帯がないとさらに生意気さが増すな」
杏介も直人の顔を覗き込む。直人の目はつり気味だ。やんちゃな子供という印象を受ける。
「こっちの目の傷、痛むことないか?」
杏介は鏡合わせになるように、自分の左目を指さす。直人は右目に触れると小さく笑う。
「うん、大丈夫」
「そうか。……ちゃんと手当したら、傷は残らなかっただろうな」
杏子色の瞳が揺れる。痛みはないと直人は言うが、見ていて痛々しい傷だ。瞼を縫いつけるかのような傷に杏介の胸が痛む。ここまで痕になってしまうと、綺麗には消えないだろう。
「あの、おれ……」
「しおらしいのはお前さんらしくないぞ」
棗は直人の額を軽く小突く。杏介の話や茜からの報告聞いたとおりだ。
やんちゃな坊主。棗が思う直人像はこれだ。
「ちゃんと反省したんだな?」
棗の問いに直人は力強く頷く。
本当に好き勝手やった。いくら何でもあれはやりすぎだと周に言われ、望にも謝罪を促された。山の中では許されても、山の外では許されない行為があると周に指摘された。これから生きる場所が変わるでのあれば、多少はそこのやり方を知るべきだと周に言われ、直人は何も言えなかった。
知らなかったでは済まされないことがある。望にも言われた言葉に直人は反省した。
「ならいい。杏介、お前はどう思う?」
「……俺も反省してるならいいと思う」
杏介は直人の頭を乱暴に撫でる。
「うわっ」
わしゃわしゃと撫でられるその感覚はどこか懐かしい。
「ちゃんと反省してる目だからな。あまりやんちゃしすぎるなよ」
「うん……。じゃなくて、はい」
「お? お前、はいって言えるんだな」
「言えるよ!」
心外な、と直人の顔に書いてあるのを見た杏介は吹き出す。
「また生意気言って」
杏介は楽しそうに笑う。直人もつられて笑うも、あっ、と声を上げて表情を引き締める。棗と杏介は首を傾げ、直人の言葉を待つ。
「その、今まで散々迷惑をかけておいてこんなこと言うのはあれなんだけど……」
「どうした? 言ってみなさい」
棗が先を促すと、直人は真っ直ぐ棗と杏介を見据える。
「おれを、働かせてください!」
再び頭を下げた直人に棗は目をまばたかせ、杏介は呆気にとられる。
「え……おま、働くって……」
杏介はどういうことだと成り行きを見守っている周と望に視線で尋ねるも、二人は直人に訊けと言わんばかりに答えようとしない。周に至っては口元を隠しているが、細い目がさらに細くなっている。その顔は笑っている顔だ。
「夢屋のおじさんから聞いたんだ。これから夏祭りがあって、病院は手が欲しいって。おれ、少しだけ薬草の知識があるから、役に立てないかなって思ったんだ。薬の調合じゃなくても、雑用でもいい。おれを使ってください」
深々と頭を下げる直人に棗と杏介はまた顔を見合わせる。
「……入れ知恵か、周」
「まあ、いいじゃないですか、先生。手はあった方がいいでしょ? さっき、僕が確認したところ、思ってたよりも薬草の知識があるなって感じだった。初歩的なことはとくに問題ないかと」
にこっと笑う周に棗はひとつ息をつき、直人に顔を上げさせる。
「お前さん、本当にいいのか?」
「はい。おれ、それぐらいしか返せることがないから……」
「教育係が杏介でも、お前さんは働くか?」
「うえぇ!? 俺!?」
杏介は自分を指さす。何で、と杏介が尋ねる前に棗は杏介を見上げる。
「お前ぐらいしかいないだろう。散々言い合いをしてきた仲だろうに」
「それとこれとは違くない!? それに、俺、満月医院の薬師じゃないよ!?」
薬師を辞めて長い。知識や腕は問題ないはずだが、薬師ではない者が教育者となっていいのかと疑問が浮かぶ。
薬は処方を間違えると死に至ることもある。責任重大だ。
「夏祭りが始まれば、お前は手伝いに来るだろう? 一時的に薬師に戻るわけだ。それとも、日輪で雇うか?」
「うちで雇うって……。って、そもそも、そっちで雇うつもりだったの!?」
勝手に話を進めないでくれ、と杏介は思いながら、直人も何か言ってくれと一瞥する。
翡翠の瞳が、真っ直ぐ棗を見つめている。力強いその目は芯の通った目だ。芽吹き始めた若葉のように瑞々しい。
「はい。おれを使ってくれるなら、教育係が誰とか関係ないから」
「よろしい。なら、お前さんは今日からうちの薬師見習いだ。ただし、座学は杏介の担当だ」
「ちょ、ちょっと待って、先生! 俺の意思は?」
とんとん拍子で進む話に杏介は思考が追いつかない。
「文句があるか?」
「文句って言うか……」
杏介は直人を一瞥する。翡翠色の瞳は恐ろしいほどに真っ直ぐで澱みがない。つやつやとした葉のような色の瞳に揺らぎはない。
「……よろしくお願いします」
直人は棗と杏介に頭を下げる。初めて聞くその堅い声音に杏介は金髪を乱雑に頭を掻く。
「あーっ、もう、わかったよ! 先生、俺にこいつを任せて。薬師として一人前にするから」
ここまできたら杏介が何を言おうと覆らない。ニヤニヤしながらこちらを見ている周と満足そうに笑っている棗にはめられた気がするが、もう構わない。
「ビシバシいくからな! 覚悟しとけよ」
「うん。よろしくね、狐のおじさん」
にこっと笑った直人に杏介は青筋を浮かべる。
「お前さ、そのおじさんって煽ってるの? 教育係だよ、俺」
「えー? じゃあ、おじ様?」
「そうじゃないって。ったく、お前は礼儀がなってないな」
「杏介、その辺りの教育も頼む」
「は!? 何で!?」
棗は直人の頭を軽く小突くと、杏介の頭も同じように小突く。
「患者相手に生意気な口きけば、うちの評判に関わる。お前も昔はそうだっただろう? まともに敬語を使えなかった」
「うっ……。いや、あの頃はちょーっと荒れてただけで」
「言い訳は結構。とにかく、しばらくの間、直人のことはお前に任せる。いいな? 教育係としての給料も出す」
「ぐっ……」
杏介は何も言えず、押し黙る。棗には逆らえないし、直人を一人前の薬師にすると言ってしまった。もう後戻りはできない。
「ねえ、おじさん」
「だーかーらー! 俺をおじさんって呼ぶな! 杏介でいいから!」
「じゃあ、杏介」
「そこは普通、杏介さんだろうが! さんづけしろ!」
「だって、杏介でいいって言うから」
「礼儀だよ、礼儀! 年長者を敬えって言うでしょ」
「敬われる対象だといいけどねえ」
「周、テメエまでそんなこと言うか!」
ぐわっと牙をむく杏介に周はころころと笑う。そんな周の脇腹に望の肘が入る。
「あう……。痛いよ、望ちゃん」
「水を差さない」
「僕は真実を言ったまでだけどなあ」
「うわーん、みんなが俺をいじめるよ、望」
ふらふらと望に歩み寄る杏介をひらりとかわした望はじとっとした目で杏介を見つめる。
「……あれ?」
「杏介さん。礼儀がと仰るのなら、距離感を考えてください。あなたも大概ですよ」
杏介は距離が近すぎる。パーソナルスペースが存在しているのかと疑うほどに、杏介は距離を縮めてくる。
「やーい、言われてやんのー」
「このガキ……」
べーっと舌を出していた直人は身を翻し、走り出す。杏介はその背を追うために走り出す。わーっ、と直人の声と、待て、と杏介の声が足音と共に遠ざかる。
「はあ……。ったく、またうるさくなるな、うちは」
棗はやれやれとため息をつく。正直、手が増えるのはありがたい。まずは直人の知識を確認した上で、祭りの時期は薬の調合を任せるか、裏方に回すかを考えようと思う。
「おもりは杏に丸投げでいいと思うけどね」
「日輪も立て込んでないし、暇潰しにもいいだろう」
直人の手綱を引いてもらわねば困る。薬の知識もそうだが、振る舞いも覚えてもらわねば困る。直人が暴走して、誰かに迷惑をかけるのが一番厄介だ。直人と過ごした時間が一番長い杏介にこのまま世話を見てほしいところだ。直人もとりあえずは知った顔で安心してくれるといいが、と棗は思う。
「望もご苦労だったな」
「今回、私はほとんど何もしてなかったのですが……」
「十分だ」
しみじみと言う棗の耳がピクリと動いた直後、パリーン、と何かが割れる音がした。バタバタと走る音も割れた音と近い。
「……あいつら、早速やりやがったな」
棗は身を翻し、奥へと駆けて行く。
「あーあ。これは先生の飛び蹴り決定だね」
「あー……」
当然のことながら、望は棗の蹴りを受けたことはない。ただ、受けた者の悲鳴は耳にしたことがある。
痛そうな悲鳴。望は奥の方から聞こえる二人分の悲鳴に聞こえないふりをした。




