#7
目を開けば眩いほどの光の雨が降り注ぐ。燦々と照る太陽の光を遮る葉がそよ風に揺れ、光がゆらゆらと波打つ。
眩しさに手で目を覆いながら直人は起き上がる。キラキラと輝く世界に目を数度まばたかせる。チチチと可愛らしく鳴く小鳥、目の前をよぎる虫、直人に気がついてどこかへ去っていく獣。彼らは思い思いの時を過ごしている。
直人は辺りを見渡す。木々が生い茂り、少し離れた場所には川が流れている。地面の方を見やれば、草木が背筋を伸ばして全身で光を浴びている。手近な草木に触れてみるも、触ったような実感がいまいちない。葉の筋張った感触も、花びらの頼りない感じも、しっかりとした茎も、指先に伝わらない。
直人はペタペタと自分の顔を触る。餅みたいだと言われた頬も、においを嗅ぎ取る鼻も、言葉を発する口も触れたような感じはしない。
「ここは……」
直人の知らない場所である。直人の知る山と雰囲気は似ていないでもないが、やはり違うと直感が訴える。直人が知っている場所とは違い、明るいような気がする。光を遮るように広げられた木は少ない。まだ新しい自然なのだろうと感じる。
直人は周囲の様子を確認しながら川辺へ歩み寄る。勢いよく流れる川も眩しい。水しぶきが日光を弾いて輝いている。チカチカと光る粒が時々直人の顔を濡らす。
ゴツゴツとした岩を縫って流れる川に自分が映る。そっと川面に手を伸ばそうとすると、首根っこを後ろから引かれる。
「直人。そんなに覗き込んでは落ちてしまう」
低く真っ直ぐなその声に直人は振り返る。声の主に直人は目を丸くする。
「杉神様」
鋭い目つきの男が直人を見下ろしていた。危ないだろう、と言った杉の神はため息をつく。
「何か落としたのか? それとも、面白いものが流れていたか?」
杉の神はしゃがむと直人が落ちないように腰を抱く。
黒に近い緑の髪と翡翠色の目。同じ色合いのふたつの顔が水面に並び、四つの翠玉が川面でチラチラと揺れている。
「おれ一人でも大丈夫だって!」
直人は腰に回された腕から逃れようと抵抗するも、杉の神の方が力は強い。がっしりと抱き込まれた腕に歯が立たない。
離せよ、と直人が抵抗していると杉の神の瞳が揺れる。凪いだ水面に雫が落ちたかのようなその揺らぎの後、杉の神は目を閉じる。
「……そうか」
杉の神は腕を緩める。その反応に直人は驚き、杉の神の腕を剥がそうとした小さな手から力が抜ける。いつもなら小言のひとつやふたつ言う彼があっさりと受け入れたのだ。
危ないだろう。お前一人では何か起きたときに守ってやれないから。
その言葉もなく、杉の神は直人の腰を抱く腕の力を抜いたのだ。
「あら、杉神様に直人。一緒に何をご覧になっているの?」
バサリ、と風を切る音がする。音は二人の頭上からだ。日に照らされて際立つ白、空の雲よりも白い翼の持ち主が直人の隣に降り立つ。
白の翼を持つ鳥がさらに輝く。光に包まれた鳥は人の形へ変化し、鳥がいた場所には翼と同じ白色の髪の女性が現れる。女性はにこりと笑うと川面を覗き込む。
「珍しい魚がいたかしら」
「よく見えない」
「流れが早いからな」
「そうですね」
ふふ、と女性は小さく笑う。
「白鷺様、どこに行ってたの?」
直人は女性、白鷺の神に尋ねる。
「山の麓。今年も豊作になりそうですよ、杉神様」
「そうか。ならよし」
杉の神は満足そうに言うと、立ち上がる。
「直人。見に行こうか」
「見に行くってどこに?」
「山の麓だ」
「いいの!?」
直人の声に近くの小鳥たちが一斉に飛び立つ。白鷺の神は鳥が囀るような声で笑う。
「ちょっと遠くまでお散歩ね、直人」
「でも、いつもは駄目って……」
山を下りるのは危険だといつも言い聞かされていた。二人の目をかいくぐろうとしても、戻されるばかり。それから説教を受ける。山を下りることを禁止されているのはよほどの理由だろうと思っていたのに、杉の神はあっさりと言った。
「今日は特別だ。ただし、手を離さないように」
そう言って杉の神は直人に手を差し伸べる。直人は訝し気にしながらも、麓に行けるのならとその手を取る。
「白鷺様は?」
「私も?」
「行こうよ。見てきたばかりだろうけど」
山吹色の目をぱちくりとまばたかせた白鷺の神はふわりと笑う。
「ええ。ぜひ、ご一緒させてくださいな」
そう言って直人と白鷺の神は立ち上がる。
左手は杉の神、右手は白鷺の神。それぞれと手を繋いだ直人は小さく笑う。
それから三人は川に沿うようにして山を下る。物珍しそうにする直人はあれは何、これは何、と二人に尋ねていく。
あの木は何?
こっちを見ているあの動物は何?
そこの大きな岩はどうやってここに来たの?
山頂には何があるの?
直人の質問に二人は答える。
あれは椎の木だ。
あの子は狐よ。
その岩は川の神が運んだ。
山頂にも動物や植物たち、他の神様もいるのよ。
そんな話をしながら三人は歩いていく。きょろきょろと視線が定まらない直人が転びそうになると二人の神が直人の手を引いて転ぶのを避ける。気をつけなさい、と杉の神が注意し、怪我はない? と白鷺の神が案じる。
そうして道を進んでいたときだった。上を見ていた直人の目が葉の隙間から覗く派手な色を捉える。
「ねえ、あそこにいるのは何?」
直人は一際清らかな空気が流れる場所に生える木を指さす。三人の頭上、太陽に照らされる葉に紛れて、一羽の鳥が羽を休ませている。
青と橙の色を持つ鳥だ。嘴が長いせいか、身体が小さく見える。
「あれはカワセミだ」
杉の神が答えると、直人は、へー、とその鳥を見つめようと目を細める。それでもあまり見えないため、背伸びもする。
「ちゃんと見える?」
白鷺の神が尋ねると直人は口のへの字にする。
「遠いのと葉っぱが邪魔で……」
背伸びをしても、やはりちゃんとは見えない。せめて、白鷺の神ほどの背丈があれば、と思っていると、直人の身体が浮く。
「うわぁ!」
脇の下からひょいと抱き上げられた直人は翡翠色の双眸がぐんと近くにあることに驚く。自分の目よりも針のように鋭い目がカワセミの方を見るようにと促す。
「これならよく見えるだろう」
「急に抱き上げないでよ! びっくりした!」
「そんなに大声を上げると逃げてしまう」
ほら、と杉の神はカワセミの方へ再度視線をやる。まだ文句を言ってやりたいところなのだが、直人は目当ての鳥の方を見る。はっきりと見えるその鳥は白鷺の神とは違った美しい羽を持っていた。青と橙の羽は漏れ出る光に照らされてキラキラと輝いていた。光の角度によっては、羽の青が緑にも見え、葉の色に紛れ込んでしまいそうだ。
「……?」
直人は杉の神の目をじっと見つめる。自分と同じ、翡翠色の目は鋭い光を宿している。
「……何だ? 私の目を見て」
「あの鳥と同じ色?」
「そんなことか」
杉の神は目を逸らす。
「あの鳥の翼は光の当たり方によって翡翠色に見える。……だから、翡翠と書いて、カワセミと読ませる」
「そうなんだ」
ふーん、と直人はカワセミと杉の神の目を交互に見比べる。どちらも綺麗な深緑色だ。
「……もういいだろう」
「えー、まだ」
直人はねだるも、杉の神は直人を下ろす。その様を見ていた白鷺の神はクスクスと笑っている。
「杉神様、照れていらっしゃいます?」
「そのようなことはない」
行くぞ、と身を翻した杉の神の背を見て、直人と白鷺の神は互いの顔を見て笑う。
杉のように真っ直ぐな性格の彼が素直ではない。不思議なことだと二人は笑いながら手を繋ぐ。
「待ってよ、杉神様」
白鷺の神の手を引きながら直人は杉の神の背を駆け足で追う。早歩きの彼の背は大きく、背筋が伸びている。そんな彼の手を直人は取る。白鷺の神の滑らかな手と違い、杉の神の手は少しざらついている。彼が宿る杉の木の幹のようだ。
「杉神様の目の色も綺麗だよ」
「……お前も同じ色の目だろう」
「あ、そっか。でも、自分じゃよく見えないし。杉神様、おれの目って綺麗?」
直人が尋ねると、杉の神は直人を一瞥する。キリリとしたその顔が一瞬破顔した。
それは気のせいだったかもしれない。瞬きを一回すればいつもの生真面目な顔だ。
「綺麗な目をしている」
「じゃあ、杉神様の目も綺麗だね。お揃いだもんね」
「それとこれとは話が違う」
「えー、お揃いじゃないの?」
ねえねえ、と直人が手を引くと、ぎゅっと強く手を握られる。鈍い痛みに直人は顔をしかめる。
「やっぱり照れてるんだー」
「照れてない」
「直人。あまり杉神様をからかってはいけませんよ」
「白鷺、あなたも笑っているではないか」
「微笑ましいやり取りだと思っているだけですよ」
ね、と白鷺の神は直人に同意を求める。直人は悪戯小僧の笑みを浮かべて応じる。
仲良く手を繋いで山を下りて行く。頼もしい杉の神の手が左に、たおやかな白鷺の手が右に。いつもどおり、二人に挟まれて直人は歩いて行く。
川が流れる。鳥が囀る。獣が駆ける。虫が鳴く。風が通り過ぎる。葉は日の光を浴び、影を作る。
そんな山の景色は麓に下るにつれて変わっていく。山の中ではあまり聞き慣れない音がする。
人の声だ。そよ風が運ぶ人の声は小さく、何を話しているのか、内容までは聞こえない。
「もう少しで麓?」
「そうよ」
白鷺の神は眩しそうに山吹色の目を細める。美しい色白の横顔はどこか寂しそうだ。
「ねえ、直人」
「何?」
直人は白鷺の神の様子を窺う。白鷺の神は杉の神を一瞥すると、緩やかに首を横に振る。
「……何でもないわ」
「えー?」
「ほら、前を向いて歩かないと転んでしまうわ」
白鷺の神に促され、直人は前を向く。
徐々にはっきりと聞こえてくる音。山の中ではほとんど聞いたことのない音だ。
葉が日を遮るのをやめる。木々の覆いが晴れると、目の前に広がる緑が顔を覗かせる。山の緑とはまた違う、若々しい緑が三人を出迎える。
「うわあ……」
直人は目の前の光景に翡翠色の目を輝かせる。
のどかな場所は人間たちが営みをする場所だ。野菜の入った籠を背負ってどこかへ向かう者、赤ん坊を抱いて散歩する者、その横を直人より小さな身体の子供が駆けて行く。さあっと風が吹くと、作物の身体が横に揺れる。そんな様子が遠目に見える。
「直人、これが山の麓の世界だ」
「ここが……」
「あなたがずっと見たがっていた世界よ」
色の濃い、人の手が加わった世界だ。元々人間であった直人もこのような生活をしたいてのだろうか、と思いながら直人は一歩踏み出す。知らない世界に胸が躍る。また一歩、二歩、三歩、と直人が踏み出す。
両手がふっと下がる。さっきまであった熱が消える。
「え?」
直人は後方を振り返る。いつも直人の手を離すまいと握っていた手は下ろされ、いつも直人の隣に立っていた二人は直人のすぐ後ろにいるのにだ。
「ねえ、行かないの?」
日向に出た直人の後ろで、二人は影から出てこない。
「……私はここまでだ」
杉の神はそう答える。
「どうして?」
「私の身体は山の中。あまり離れることはできない」
「そんな……」
杉の神の目がわずかに揺れる。そよ風に揺れる杉の葉のように揺れたのか揺れていないのかわからないほど、かすかな揺れだ。
「だから、私の目の代わりとして白鷺がいるのだ」
「杉神様にお仕えするのが私の使命ですから」
そう言う白鷺の神は杉の神の隣から一歩も動こうとしない。
彼女は動けるのではないのか。先ほど麓の村の様子を見てきたと言っていたではないか。
直人がそう言おうとすると、山吹から雫がこぼれる。川から跳ねる水滴のようなそれに直人は目を見開く。
「でも、その役目ももう終わり。……終わっているの」
「白鷺様?」
直人は白鷺の神が泣くところを初めて見た。はらはらと泣く彼女の隣で杉の神は寂しそうに笑う。あまり笑うことのない杉の神の切なさそうな笑顔に直人ははっと息を呑む。
二人の身体が透けていく。日の光に、山の景色に溶けていくかのように二人の姿が薄れていく。
「嘘……。何で」
直人は駆け寄ろうとすると、ぐらりと視界が揺れる。突然夜になったのかと思わせるほど、一瞬景色が暗くなる。
「今のは……」
「直人」
杉の神が名を呼ぶ。いつも真っ直ぐなその声は震えている。
「すまなかった。お前をここに閉じ込めていて、すまなかった」
「閉じ込める……?」
その言葉に直人は右目に触れる。自分の手をはっきりと映している。が、その視界がぼやけていく。遠くから見る桜の群れのように、霞がかっていく視界に直人は右目の視界を覆う。
闇に包まれた右の視界と、光に消えゆく二人を捉えた左の視界。これが本来の視界であると気がつくと、直人は一歩、二人の方へ歩を進める。
「直人。来ては駄目よ」
もう一歩踏み出そうとした直人を白鷺の神が制する。ピリッと空気が張り詰め、直人の足を止める。
言霊。直人に対して、これは危ないから駄目、それはよくないから、と禁止するときの強い言霊だ。空気が張り詰め、見えない蔦のようなもので身体を拘束されたような感触がするのだ。
「ねえ、どこに行くの?」
直人は震える声で尋ね、姿が薄れていく二人に手を伸ばす。十分届く距離なのに、二人が随分遠くにいるような感じがする。
まるで、どれだけ手を伸ばしても触れることのできない、空のように遠くにいるようだ。
「もうあなたを縛りつけたりしない」
「お前の好きなように生きていきなさい」
優しい声が直人に語り掛ける。
「ねえ、待って!」
直人は一歩踏み出すも、杉の神に突き飛ばされる。尻もちをつく直前、風がふわりと渦を巻き、直人の身体を受け止めて地面にそっと下ろす。その風は転びそうになった直人を抱きとめる。白鷺の神が起こした風だ。
「どうして」
直人の視界が滲んでいく。右目の視界が徐々に暗くなっていき、左目でしかまともに二人の姿を見ることができない。が、その左目の視界も歪んでいく。
「直人」
杉の神が膝を折って、直人の視線の高さに合わせる。
「すまなかった。私たちの勝手でお前をここに閉じ込めてしまった」
「そんなこと、もういいよ! お願い! おれ、悪いことしない。山の外のことなんて知らなくていい。お願い、おれを、」
直人は息を目一杯吸う。夏の暑さに耐え抜く緑の香が胸に入っていったような気がする。
「おれを、一人にしないで!」
二柱からかけられた言葉は呪いだった。だが、二人が注いでくれた時間は祝いだった。
一度生を終わらせた直人からすると、二人は直人を救ってくれた恩人だ。厳しいことを言う杉の神と優しく接してくれる白鷺の神。二人が傍にいてくれるのが当然だと思っていた。
それがある日突然、終わりを迎えた。二人の最期の姿をこの目で捉えていないのだ。
「直人。真っ直ぐな人に、素直な人になってちょうだい」
白鷺の神も杉の神と同じようにしゃがむ。美しい羽を思わせる白髪が日の光に溶けていく。
「私たちがいなくても、もう大丈夫よ」
「大丈夫じゃない!」
「大丈夫だ。私たちが教えたことで、お金を稼げているだろう」
その言葉に直人はピンと立った耳と胡桃色、杏子の実の色を思い出す。
『ここ数日、よく頑張っているな。今月の給金を渡そう』
そう差し出された封筒には直人の名前が記され、兎の判が押されていた。
突然蘇った光景に直人は顔を歪ませる。
「……どうして、それを?」
叫び出したい気持ちを抑えた掠れ声で問う。
「お前の目が教えてくれたからな」
杉の神は翡翠色の目を細める。
「私たちに手を引かれなくとも、一人で大丈夫」
「ええ。一人で真っ直ぐ前を向いていけるわ」
二柱からかけられる言霊が直人の身体に染み渡る。
「私が宿る杉のように真っ直ぐに」
「私たちが見つけた可愛い人の子」
二柱は微笑みかける。杉の神は初めて見るほど柔和に、白鷺の神は何かを押さえつけるように無理に笑っている。
「その右目を救ってやれなかったことが後悔として残るが……。直人なら大丈夫だろう」
杉の神がそう言い終える頃、直人の右目は光を受け取らなくなっていた。半分になってしまった視界で直人は二柱を見つめる。滲む視界では、二柱の姿がはっきりと見えない。
「右目にさよなら」
「左目に光を」
白鷺の神、杉の神の順に言霊をかける。言霊のせいか、風が一陣、吹き上げる。
「私たちのことを忘れるほど、たくさんの幸があらんことを」
「どうか、健やかに。私たちが愛した子」
二柱はそう言霊をかけると、木々の緑に溶けていく。
呆然とする直人の視界は半分になり、揃いの翡翠色も、雪のような白色も消えてしまった。
膝から力が抜けた直人は俯く。ぽたり、ぽたり、と雨のように雫が地面を濡らす。歪な形が地面に並ぶ。
「……さようなら」
直人は嗚咽を漏らす。思うように頭も働かず、声も掠れる。
「ありがとう、……うっ……ありがとうございました…………」
風がさあっと吹き抜ける。杉の葉がざわめいたような音が聞こえた。大空を翔る翼の音が聞こえた。
それはまるで、真っ直ぐであれと言われた人の子に応じるようだった。
◇◇◇◇◇
直人は小さく笑いながら、右目を覆う眼帯に触れる。指先に触れるのは傷跡ではなく、布の感触だ。
「そんな夢を見た」
もう二度と出会うことのない優しい神様たちとの夢だった。直人は山の麓まで二柱と下りたところまでを話す。彼らとの最期の会話は胸の内に隠す。
直人の目の前で開かれた本には己と同じ瞳の色と同じ漢字が当てられた鳥の写真が並んでいる。頭でっかちの鳥をこうして見ると、夜明けの空の色にも、日暮れの空の色にも見える。
「まさか、夢にあの二人が出てくるなんて思わなかった。そういうものなの?」
直人は翡翠色の夢玉を摘まむ。キラキラと輝く様は太陽の光を浴びる木々の葉のようにも、渓流の宝石のようにも見える。
「場所や内容の提供をするのが夢玉だ。そこに何かが加わる……夢を見ている主を含め、他の登場人物や、物が現れることもあるんだってさ」
杏介は本に目を通しながら直人の話に耳を傾ける。
「ふーん。杏介も夢を買ったことある?」
「あるぞ。って言ってもそんなに大層な夢じゃないけど」
「茜姉ちゃんも?」
「そうだな」
「先生も?」
「先生は仕事用で買っているかな」
仕事用? と直人は首を傾げる。
「その内、お前もわかるさ」
「そうなんだ」
杏介は本を閉じる。久々に読んだある男の物語はやはり自分には合わないような気がする。
「それ、借りるか?」
直人が見ていたのは人間界で出版された鳥類図鑑だ。子供向けの図鑑は文字の読み書きの練習をしている直人にちょうどいい。振り仮名もふってあるし、漢字の勉強にもってこいだろう。
「借りてもいいの?」
「何言ってるんだ。ここは貸本屋。本を貸すのが仕事なんだ」
杏介が天井を見上げるのに倣い、直人も上を向く。本棚が壁のように並び、本の森となっている。随分と広いこの貸本屋には妖界で出版されたものはもちろん、人間界で出版されたものも多くある。昔の読み物もあり、古いものになると巻物の形をしていて、平安時代頃の書物もあるらしい。しかし、そういった古いものは基本的に禁帯書、閲覧するにも申請書を提出する必要がある。
直人がそのような書籍を読むのはまだまだ先の話だ。文字の読み書きがすらすらとできるように勉強することが第一目標だ。
それに、直人には知らないことがたくさんある。正確に言えば、見た目を知らないものが多い。名前やどのようなものかは知っている。しかし、その大半はどのような形をしていて、どんな見た目をしているのか知らない。
名前と見た目を一致させる作業もある。図鑑のように写真や絵が載っている本は直人の学びにおおいに役立つ。
夢で見たカワセミという鳥のことを知りたい。そう申し出た直人を連れてきたのは杏介だ。図鑑や絵図なら説明書きもあって、視覚的にわかりやすいだろうということで図鑑を直人に差し出した。案の定、興味津々といった様子だった。
「借りる!」
予想どおりの返事に杏介は立ち上がる。
「ん。そんじゃ、貸出手続きするか」
杏介は読んでいた本を棚に戻すと、先に行ってしまう。直人は図鑑を抱え、慌てて杏介を追う。
「……」
遠ざかる背中は大きい。その背に背筋を伸ばした神様の姿が重なり、そっと杏介の手に触れる。
「お? 何だ?」
杏介の手はがっしりしている。何でも屋の仕事柄、力仕事を請け負っている。たくましい手をしている。
「……何でもない」
すぐに手を離した直人はそっぽを向く。
「はは、夢に神様が出てきたから寂しくなったか?」
ニヤニヤと悪い笑みを浮かべる杏介に直人は舌を出す。
「そんなことない!」
「ふーん? そういうことにしといてやるよ」
「はあ!? 寂しいとかじゃないし!」
「本当か?」
「本当だ!」
そこ静かに、と貸本屋の主の声が届くのも時間の問題。それほど大きな二人の声が貸本屋に響いたのだった。




