魔雹
クロイドが無茶してベッドで寝込む事二日、動けるようになった彼にほっとしつつも、中々許す気になれないで二日。アイリスは彼を避けて、町のカフェでお茶をしていた。彼女の心境と裏腹、朗らかな午後である。目の前のカップは飲み干してもう三十分は経ったか、表面が乾いて茶色の渋が残っていたが、彼女はまだ席を立つ気になれなかった。帰ったらクロイドと顔を合わせる事になって、自分の中のモヤモヤを、再び彼にぶつけてしまいそうだからである。
憂鬱にため息をついて、反対の手で頬杖をつき、またため息を吐く。そんな動作を繰り返していると、何か縁があるのか、先の通りを小走りで駆けて行くイザベラを発見した。五日前の夜にクロイドが負傷させたから療養しているのか、珍しく彼女の近くにシグウィルの姿が無い。そして、彼女が通ってしばらくして、不自然な程分かりやすく、彼女をつけている男たちが通った。
「ノルディクス通りの方ね…」
駆けて行く方向からそう判断して、アイリスも立ち上がる。番犬代わりのシグウィルが居ない今、普段彼らに煮え湯を飲まされている裏の人間にとっても、絶好の復讐のタイミングだろう。イザベラを押さえれば、労を少なく彼もついてくるのではと冗談のように考え、彼女は店を出た。正直に言うと、か弱い女性を多数で追い駆けている状況に苛っと来たのだ。
「手助けは要らないのかもしれないけど…」
彼らと会う時は、大体威圧感のあるシグウィルが彼女の盾になるので、実際のイザベラの戦闘力は未知数であるのだが、アイリスの経験からの勘では、彼女はそんなに強くなさそうな気がしている。いざとなれば自分が彼女を保護するかと考え、彼女はイザベラをつける男たちの跡を、さらにつけた。
追跡する男たちに気付いていないのか、無警戒なのか、何か考えがあるのか、彼女は小走りながらも、次第に通路幅はあるが人気のない、絶好の人攫いポイントへ進んでいる。人の目がないのは好都合だが、イザベラを追う男の数が片手より多くなっており、アイリスは困った顔をした。
そんな時、入り口以外の三方を建物に囲まれた行き止まりに、イザベラは辿り着いてしまう。正面の建物には勝手口らしきものがあるが、彼女は少し迷うように小首を傾げて、手に持ったメモを確認しているようだ。焦ったように左右を見るが、入ってきた道以外に出口はない。戻ろうとした彼女の前に、追跡していた男たちのうち、三名が道を塞ぐように現れた。
「ごきげんよう。通れないのだけれど、退いて下さるかしら?」
先程の焦った動作を見ていれば、彼女もつけられていた事に気付いてはいるようだ。素知らぬ顔で挨拶しているようだが、髪を耳にかける振りをして魔具であるイヤリングを触ったのに、アイリスは気付く。
「ごきげんよう、“魔雹の淑女”嬢。ここに居るのは、俺も含めて、貴女の美しさに心を奪われた者だ。急な事だが、デートを申し込みたい。お付き合い願えるか?」
「まぁっ、今までで一番の口説き文句に、感動してしまうわ。けれど、ごめんなさいね。身持ちは硬い方なの」
「それはそれは――残念だ」
芝居がかったやり取りを終え、男達は懐からナイフを取り出し、彼女を囲むようにゆっくり移動する。ちらっと緊張した様子で彼らを見たイザベラは、片足を軽く上げて、ドンと床を踏みつけた。刹那、男達よりさらに遠い所で隠れて、距離があるアイリスの所までブルりと寒気が来る。目を凝らして確認すれば、イザベラの魔具が発動したようで、彼女の足元から放射線状に氷が伸び、男達三人の足元を凍らせていた。動けなくなったとわかって、彼らは持っていたナイフを躊躇いなくイザベラに投げる。
「≪砕け≫」
親指を立てて、人差し指を前に伸ばした形にした右手を、左手で抱えるように支えながら、彼女は魔具を発動させる。投げられたナイフを一つは避け、一つは魔具で指先から飛ばした氷で弾き、その弾き飛ばしたナイフで最後の一つを叩き落とす。すると、隠れていた残りの男達も姿を現し、動けない男を避けるようにして、彼女に駆け寄った。
「≪砕け≫」
「ぐあっ」
イザベラはその場から動かないが、相手との距離がある間に片付けたいらしく、指先から氷の礫を飛ばして攻撃している。飛ばされた礫は小さいものの、それで男達の腕を貫通する威力があるらしく、掠った所の服が破れ、血が飛び散るのをアイリスは見た。弓矢を使うように、彼女は正確に腕や足を撃ち抜いている。不味いと思った男達は、遮蔽物を探して身を隠した。正面の男達を狙っていた手は、彼女の舌打ちで一時、天を向く。
「レディ。もうすぐ仲間が集まって来る。投降をお勧めしますよ」
先程イザベラに声をかけた、動けない男がそうして忠告するのだが、彼女は「バカにしないで」と不満そうな顔をした。そうして鋭い表情をしたかと思うと、男の頭に狙いを定める。
「貴方、見た事あるわ。“怪盗”グループの癖に、“夜会”と親しくしたら不味いんじゃないかしら?」
イザベラの言葉に、アイリスはぎょっとした。怪盗も夜会も、この町の裏社会では知名度のある組織だが、方針の違いか、反発する事が多く、その抗争では一般市民が巻き込まれる事も多々ある。なんでそんな組織がと思っていると、男は苦笑したようで、両手を広げて肩を竦めた。
「ミス・イザベラ。貴女はご自分の魅力をご存知でない。あの男の脅威的な体術で霞んで見えるが、600ヤードの距離から僅か1cmの目標を撃ち落とした、貴女の狙撃は美しかった。そして、俺達の仕事に必要なのは、周囲を破壊する、派手な暴力ではない。静閑として残酷無比な、貴女の氷の様な力だ」
イザベラの能力にアイリスは驚愕し、男の暗殺示唆の言葉に眉根を寄せた。確かに彼女は、自分に害がある際に相手を殺すことに躊躇いはなさそうだが、襲撃を受ける今もなるべく人死を出さない様にしている風に見える。好んで人を殺すタイプではない。現に、男の言葉に不快そうに髪を払った。
「ミスター、貴方の熱意はわかったわ。“怪盗”と“夜会”が手を組んだのものね」
彼女が怖い顔で言うと同時に、右側から何かが彼女に投げられた。ナイフだとわかり、飛びだそうとしたアイリスだが、イザベラはさっとそちらに指を向けると「≪砕け≫」と、撃ち落とす。交渉の途中に水を差された男は、後方に向かって「おい!」と苛立ちを見せた。
「あら、完全に仲良しというわけではないのね。さしずめ、“怪盗”は私を、“夜会”は彼を欲しているのかしら?」
皮肉気に左右を警戒する彼女の言葉に、「その通りだ」と声が降ってくる。はっとした彼女が上を見上げたが遅く、二階の窓から飛び降りた男が、彼女を押し倒した。短い悲鳴は、イザベラが地面にねじ伏せられたのを示す。彼女が首を動かそうとすれば、腕を背中に回させてその上に乗って拘束している男が、彼女の頭を押さえつけた。
「よぅ、雌犬」
陽気な声で罵倒する、下町男の格好をした人物は、イザベラの知り合いらしい。「“夜会”っ!!」と悔し気に呻く彼女の頭を、さらに押さえつけて、彼はにたにたと笑った。
「今日は、早起き、…じゃないの…っ」
きっと見上げて皮肉を言う彼女に、彼は「あ?」と苛立った声を上げると、彼女の髪を掴んで持ち上げた。
「痛――っ」
「口ぃの聞き方に、気ぃつけろよ、雌犬。アイツが居なけりゃ、お前なんぞはゴミだ、ゴミ」
そして手を離して、彼女の頭を落とした。ごっと小さく音がして、アイリスは顔を歪ませる。彼女と同様に感じたらしい、氷に足を取られた男も「丁重にお願いしますよ、“夜会”。彼の怒りを買いたくないでしょう?」と制止する。氷に足止めされた三人は、物影から出て来た仲間に解放してもらったらしく、無力化されたイザベラの周囲に集まってきた。
「っ、あぁ――」
男達が集まって壁となっているので、何があっているのかわからないが、そろそろアイリスの我慢は限界だ。彼らの足の隙間から、イザベラが乱暴に立たされたのを確認する。アイリスは怒りのまま、右足の踵を三度、地面を叩くように鳴らした。
≪疾風の靴≫。この魔具の力を借り、アイリスが一歩足を踏み出すと、通常の何倍もの脚力で前に進む。二歩、三歩、四歩目で上に跳躍すると、適当な位置に居た男一人に踵を落とした。ごっと鈍い音のすぐ後、隣の男の顎を狙って回し蹴りし、襲撃に混乱する数秒を使って、さらに両隣の男の腹を蹴った。踵を食らった男は地面とキスしたまま呻いているし、顎を蹴られた男は脳震盪を起こして倒れる。「疾風の靴」で強化されたアイリスの蹴りを喰らった二人も、吹き飛ばされて気絶した。
(悪役視点)
突然の強襲の混乱に一番に立ち直ったのは、“怪盗”の代表らしき男とイザベラに“夜会”と呼ばれた男である。怪盗はアイリスに向けて懐からダーツを投げたが、彼女が回避した事で、その後ろの部下に当たった。舌打ちして彼はアイリスを対応することにしたらしく、乱戦になるそこへ加わる。一方、夜会は面白がるように、にやつくと、イザベラの顎を掴んで振り向かせた。
「ありゃ、誰だ」
「知るわけないでしょ」
大の男を翻弄するアイリスの動きに、この変態の食指が動いたのだと気付いたイザベラはそう言うが、この戦闘狂いの男には通じなかったようだ。顎を解放された直後、後ろ手に組まされた両腕を肘の関節が軋むほど強く締め付けられ、罰とばかりに左肩を噛まれる。声を上げるものかと、イザベラが体を硬くして耐えていると、後ろの変態が「くつくつ」と笑った。
「まぁ、良いさ。後で、お前ら二人とも調教してやるよ」
変態への嫌悪感と発言への唾棄、噛まれた肌を舐められた悪寒とが混じり、イザベラはゴミを見る様な目で夜会を見たが、相手は愉快そうに彼女を眺めるだけだ。その時不意に、以前シグウィルが「変に抵抗するからアレを喜ばせる」と言った事も思い出したが、大体こういう感じでいつも失敗している彼女であるので、後の祭りである。せめてアイリスは逃がさないとと考えたイザベラだったが、壁に駆け上った彼女が、二回ほど壁を蹴って移動し、相手を翻弄してから蹴りで男を鎮圧しているのを見て、考えを変えた。それよりもと集中する。
イザベラ、いや、≪DH社No.6 キョウカ≫の能力は、【感応力】だ。相手と自分の意識を共鳴、共感させる力で、それを利用して相手の感覚を奪うことも可能だし、機械操作や鍵開けなども思った通りに出来る、意外に強力な能力だ。今回の仕事は、魔具として魔改造された会社の支給品を主に使用しているが、ピンチになった際は遠慮なく元の能力を使うよう指示されているし、彼女もそうするつもりだ。特に今回は、蘇芳が負傷して便宜上別行動を取ることになった事で、鏡花が狙われる可能性は高く、そのガス抜きとして、会社の裏方のが調整して襲撃を組んでくれていた。情報ではもう少し人数が少なく、鏡花で圧制可能なはずだったが、“夜会”は自由気ままな所があって制御できないので、この人数の誤差は彼のせいだろう。そして、ちら見させて様子を見るつもりではあったが、彼女は資料にあった通り正義感が強いらしく、アイリスまで騒動に入ってきた。正直、今の状況では助かるのだが、今日の日程を組んだ奴は、後で説教せねばと思う。きっと経験の浅い新人が、プランを組んだ気がしていた。
それよりも、だ。鏡花は【感応力】を使い、アイリスの精神に触れる。彼女の体の動きが早いので同調が難しいが、リーチの長い“怪盗”とやり合い始めて、彼女が少し苦しんでいるのを感じた。彼女は剣士だ。その手にあるべきものがないのである。
――――アイリス。
鏡花の【感応力】が届いた。彼女の声に一瞬だけびくりとしたアイリスは、こちらがにっと笑うのを見て、先程の声が現実の物であると理解した様だ。優秀優秀と、鏡花は「≪氷≫」と呟き、彼女の思考と同調して、先を読む。
――――使って。
「≪踊れ≫」
鏡花が告げると、アイリスの手元に氷で出来た剣が生み出される。変態が何か言ったか何かしたか、少し体が痛んだが、集中している鏡花には雑音であり、無視する。剣を取ったアイリスは、空中でくるっと体を捻ると、飛んできた数本のダーツを纏めて弾き返して着地した。そのまま地を蹴り、一気に怪盗との距離を詰めると、柄を彼の腹に入れ、意識を狩り取る。手ごたえを感じた彼女は、怪盗が倒れるのを見届けることなく、くるりとこちらに回転し、氷の剣の先を突きつけた。
あぁ、綺麗ねと、鏡花は感心する。きっと会社では、エフェクト班が今の情景に天使の階段と羽を追加してくれているはずである。雲の切れ間から振る光に反射する金の髪に、手に持った氷の剣と同じ、透き通るような鋭い青い目の、若々しい少女の姿は、まるで天から降りて来た戦乙女だ。
「くっくっくっく、良いねぇ」
心底愉快そうな声に、呆けていた鏡花ははっとする。そういや変態に拘束されているのだったと身じろぎすれば、当然のように「動くなよ」とアイリスへの人質にされた。両手ごと抱きこまれ、アイリスへの牽制に短刀を抜いて、鏡花の顔の横に添えている。アイリスは難しい顔をして、少しだけ剣先を下げた。
さて、鏡花は一般人に近いEランクとはいえ、下っぱ戦闘員時代に避ける練習と痴漢撃退法ぐらいは習っており、今の状況ならばこの変態から抜け出すことも可能だ。どうするかと考えて、先程【感応力】を使ったからもう良いかと、解禁することにした。
――――アイリス。
今度は彼女に動揺は見えない。ちらりと鏡花を確認する目があって、鏡花は続けた。
――――合図するわ。そしたら、階段を駆け上がって。
多分了承だろう。彼女は無言で剣を一回転させると、地面に突き刺す。素直に抵抗手段を手放したアイリスに、後ろの変態が笑った。刹那、鏡花は両手を万歳させ、力の緩んだ彼の両腕を上に動かし、拘束を解かせる。
「んあ?」
変態が動揺している間にするりとしゃがむと、鏡花はふっと息を吐き、腰を捻って、思いっきり肘を変態の腹にめり込ませた。「ごふっ」と息を吹く気配に構わず脱出し、鏡花は「≪踊れ≫」と叫んで走る。左手側、建物に沿うように、氷で出来た螺旋階段がパキパキと音を立てて出現し、彼女らはそこに飛び込んだ。先行はアイリス、そして鏡花が駆け上がる。
「ちっ。くそがっ!!」
すぐに立て直したのだろう、夜会が、地面に刺してあった氷の剣を取り、こちらに思いっきり投げた。
「≪砕け≫」
魔具で自ら生み出したものが、自身に当たるわけはない。鏡花の声に、剣は空中で砕け散り、澄んだ音を立てた。その間にもアイリスは建物の屋上へ、遅れて鏡花も到着する。鏡花が振り返れば、階段途中に夜会の姿が見え、迷わず階段の上から、下へ向けて指を突きつけた。
「≪砕け≫…!!」
念を込めて崩壊を示せば、涼しげなの音の直後、階段全体がガクリと揺れてヒビが入り、上から順に氷塊が砕け、夜会の足場もまた崩れる。
「ぐっ、をおおおおぉぉおぉぉ!?」
夜会の悲鳴は、氷のオブジェが崩れる物凄い轟音にかき消されていく。悪役として、少し夜会を心配しないでもないが、あいつは殺しても死なない奴だと考えを改め、鏡花はほっと息を吐いた。苦笑して振り返れば、怒った様な、ぷくっと頬が膨れた様なアイリスが居る。
「悪かったわね。助かったわ」
苦笑交じりに言えば、「いいえ」と返事が返ってきた。
「ところで、あいつらは何? 追い駆けて来てた奴なんか、すごく気持ち悪い目をしていたわ」
「え、あぁ、さっきの? 変態。近寄っちゃ駄目よ。あれで身体強化の魔具を使っていて、結構強い――…」
思い出して鏡花は口を噤み、アイリスの手を取って走り出した。「ちょっと!?」と彼女の慌てた声を拾うが、それどころでなく、ギリギリ端まで移動して先程の場所を振り返る。彼女の予想通り、どぉんという、重い音と振動が下から聞こえ、それが段々上の方へあがって来た。屋上の縁に男の手が掛かる。
「雌犬ぅ…っ!!」
案の定、怒りの声を上げた夜会が、壁を掴んで登攀してきた。最後に壁を蹴って跳躍したらしく、建物がみしりと音を立てて埃が舞う。そうして体を引き上げた夜会の姿に、鏡花はこちらと隣の建物との距離を目測して、舌打ちした。アイリスの魔具<疾風の靴>ならば飛べるかもしれないが、普通の人間である鏡花は難しいし、単純に隣の建物へ跳び移るだけなら、目の前の夜会にも出来る。
現れた夜会の姿に、アイリスがぎょっとした目で見たが、その気持ちは鏡花にもわかった。本当、殺しても死にそうにない。強化された脚力で距離を詰められる前に、彼女は変態からアイリスを隠すような位置を保ち、建物の縁まで下がった。不安そうに鏡花を見るアイリスに、一言。
「貴女のバランス能力を信じてるわ」
「え?」
よくわかってないのだろうアイリスが間抜けた声を出すが、構わず鏡花は彼女の手を強く引き、空中に踊り出した。瞬間、踵を打ちつける様な動きで、「≪踊れ≫」と鏡花が叫ぶ。パキっと氷が張る音が聞こえた直後、アイリスも突然出来た足場の感覚に驚いた。彼女が足元を見れば、靴底の下に紙のような、向こう側が透ける薄い氷の膜があり、爪先の方へ同じ様に凍りついていく。鏡花の手が一層強く握られたように感じた瞬間、彼女たちは緩やかにカーブを描く氷のレールに沿って、滑りだしていた。
「ひゃあぁ!?」
昼間は殆ど人がいない住宅街の上を、二人の令嬢の影が踊る。鏡花は広がるスカートを庇いながら、常時、魔具で氷のレールを作り出しては滑り、目前に建物があれば、ツンと持ちあがったジャンプ台を作り、飛びあがった。たまに屋上を走って飛びおりれば、そこから再び、緩やかに蛇行して落下していくレールに乗って滑る。影が通った後は、日光で自然と溶けた氷が水滴となってぽつっと落ちるが、気づく者はいないだろう。
最初こそ悲鳴を上げたアイリスだったが、彼女は元々運動神経が良いし、鏡花の能力で、魔具の性能とアイリスとの同調を高めて、彼女のタイミングと鏡花自身のタイミングにズレを失くす事で安定した。鏡花は、もちろん、着地地点が広場の真ん中では大騒ぎになってしまうため、今の時間人気のない、住宅地と飲み屋街の裏との境の細道を目指して、レールを作り続ける。最後は滑り台の様になって、お尻で滑り、ちょっと勢いのあるリフトから降りる様にして、ヒールで着地した。
「イザベラさん…!!」
着地後、生きた心地がしなかったらしいアイリスが非難するように声をかける。だが、彼女に慰めと弁解をしている暇はない。身体強化、特に目も良い夜会が追って来ているのにも気づいて、鏡花は心を鬼にした。
「真っ直ぐ進んだマリエール通りに、シャトーって時計屋さんがあるの。その中を通って、中庭から左へ、小道を抜けた先に、緑の看板があるわ。そこの201」
「え、何…?」
「覚えたわね? 行って…!!」
一方的に言いつけ、素早く腰から大ぶりのスカーフを引き抜くと、目立つアイリスの髪を隠すように被せる。彼女の背中を押して走り出させてから、鏡花は感応力を使わなくともわかる、嫌な気配に向けて走り出した。