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宿屋

 はっきり言って、アイリスは混乱の中に居た。けれども、目くらましの様に頭に被せられた上品な藍色と金のスカーフや、早口で教えられた道順から予想するのは、イザベラのパートナーであるシグウィルを呼びに行けと言う事だろう。走りながら考えて、アイリスはむっとする。


「大体、何で、イザベラさん一人で、行動させてるのよ!」


 マリエール通りで肩を怒らせて時計屋の看板を探すアイリスは、彼に会ったら是非とも苦言を言おうと決めた。もう一度周囲を見れば、右手側にシャトー時計店とある。ぱっと顔色を良くしてそこを訪ねると、奥のカウンタに白髭の、パイプを燻らせているおじいさんが居た。店主だそうだ。彼に中庭を通りたいと告げると、日だまりで猫の様にしていた彼の目が少しだけ開き、そうしてしばらく彷徨った後、アイリスのスカーフに止まる。


「オーヴァルの子か。良いよ」


 言われてスカーフを外せば、隅の方に、盾と三日月の紋章があった。勘違いさせたようだが、イザベラの責任であるし、まぁ良いかと彼女は店の勝手口を通る。小さな円の庭はワイルドガーデン風で、ハーブや野バラ、原っぱで見られるペンペン草や小花を咲かせるモノ全てが一緒くたになっていた。まるで妖精や小人でも出そうなそこを左の門から出ると、表通りからは決して行けない、建物をくり抜く中を行く造りの道があって、アイリスは珍しそうに見まわす。小道の両脇には、小さな宝石店であったり、ハーブと石鹸のお店があって、こんな時でなければ、店に入りたいぐらいだった。


「ええと、緑の看板…」


 アイリスの背丈より少しだけ高い場所にある、所々ペンキが剥げた看板を見つけ、彼女は右手側に、半円を描くようにして上がる階段を見つめる。意を決して登れば、裏口の様で、従業員用の出入り口といった雰囲気に足が竦んだ。入ってもベルが鳴る事もなければ、見渡す範囲に人もいない。見咎められる不安に押されて内部に進むと、ドア一枚越えて、宿屋の食事場に出た。お茶も終えようという時間なのでほとんど人はいないし、店の裏側から来たアイリスを見咎める人もなく、ちょっとドキドキしながら彼女は二階へ、階段を上る。

 二階には部屋が三つしかないが、201は一番奥の角部屋だった。これから、あの、シグウィルに会うのだと思うとアイリスは緊張し、一度深呼吸する。コンコンコンとノックするが返事はなく、アイリスは困った顔をした。


「外出中かしら」


 そう言って部屋のドアノブに手をかければ、抵抗なく開く。ぎょっとして手を離したが、軽い音を立てて薄く内側にドアが開いてしまい、アイリスは中を窺った。木製の建物特有の、オーク色の落ち着いた雰囲気は、建物内部に入った時から感じていたが、その予想を裏切らない、清潔で居心地の良い部屋だ。イザベラとシグウィルの親密な様子から、てっきり二人部屋だと思っていたのだが、前の窓の下にあるベッドは一人用である。リネンは整えられ、誰か使った跡もない。


「おかしいわね」


 イザベラ達の拠点への道順だと思ったのだが、ここは未使用の部屋に思える。言伝を間違って覚えたかと不安になって、アイリスは何か痕跡がないか、部屋に入った。恐る恐るベッドに近づいてみるが、パリッとしたシーツは、やっぱり誰か使ったようには見えない。

 すると、彼女の後ろでドアが閉まる音がした。はっとして後ろへ下がるアイリスだが、構える前に、ぐわっと巨大化した気配が襲いかかる。足払いを掛けられた所までは理解したが、その後はふっと体が浮く感触しか受けずに、いつのまにかベッドに押し倒されていた。首ごと顎下を硬いものが押しつけられているし、両腕はお腹の部分で押さえこまれて、腰を浮かすことも出来ない。極めつけが、足である。両足ごと彼の長い足に抱きこまれて、横に倒され、体を強制的に捩じらせられているので、もがきも出来ない。どういう状況かと彼女が理解する前に、ベッドに横になり、アイリスにぐっと顔を寄せた状態のシグウィルと目が合った。首を押さえているのは彼の右腕で、上体の体重をかけて押さえつけられているので、声も出せない。


「娘。どうやって、ここを割り出した?」


 尋問だろうか。彼が身を乗り出すようにして彼女を覗き込むと、その動作で彼の重心が変わり、体の拘束が一層強くなったように感じた。両手は大きな手で一つに纏めて押さえつけられているし、足は膝を抱えるような格好で押し固められ、顔は仰け反った格好のまま押さえつけられている。負けん気の強いアイリスではあるが、年上の男性に無抵抗にされるというのは、女子として恐怖以外の何物でもなく、自然と体が震え、鼻がつんとしてきた。シグウィルの動く気配のする。恐怖からぎゅっと目を瞑ったアイリスは、心中でクロイドに助けを求めた。












「――イザベラか」


 身を固くしたアイリスから何かを感じたか、彼は囁くようにそう言うと、彼女を拘束していた足を外して、一息にベッド横に起き上がる。解放されたものの、目を開けてシグウィルの姿を認めてベッド上でビクリとするアイリスに、彼は少し面倒そうなため息を吐いた。今更ながら、彼は、自分が上半身裸であるという、紳士にあるまじき格好をしていたのを思い出したのである。


「とりあえず、起きて、座れ」


 ベッドに倒れたまま、怯えを含んだ目で見上げられていると、魔が差しそうだ。苦い顔で言えば、感情が整理できずに目を潤ませるアイリスが、そろりと上半身を起こす。だが、警戒してそれ以上動かないし、彼の上半身が裸体だと彼女も気付いたらしく、赤くなりながらも、信じられないといった目でシグウィルを睨んでいた。潔癖な少女らしさを見て、シグウィルは彼女の相棒の理性に感心する。


「大事にされているんだな」


 何の事がわからなかったのだろう、アイリスが怪訝そうな顔をするので、彼は「悪かった」と彼女に謝罪した。すると、アイリスは飛び起きて、彼を詰る。


「ふ、……ふざけんじゃないわよっ!! 未成年の女の子に何をするのよ!! だいたい、貴方、イザベラさんがいるのに、どうしてこんな…、こんな…っ、軽々しく出来るのよっ!!」


 声を荒げて泣きそうな所を見れば、随分なショックだったのだろうと理解出来るものの、このまま騒がれると少々不味い。眉間の皴を深めた彼は、さらに怒鳴ろうとアイリスが大きく息を吸った瞬間に、彼女との距離を詰めてベッドの毛布を引き抜き、言葉を遮るようにして頭から毛布を被せた。


「――――!!?!」


 途端に驚き、ビタリと固まったアイリスを頭を肩に預けさせるように抱え上げ、じたばたする足を無視して、ベッドに座る。抵抗する彼女の足の踵が自分の左脛を連打するせいで痛いのを我慢し、以前、鏡花が託児所でやっていた動作を思い出しながら、シグウィルは背中をぽんぽん叩いた。そうしながら、毛布越しに、なるべく優しい声を心掛けて、「驚かせたな」「悪かった」「もうしない」の三種の言葉を代わる代わるかける。

 これで少しは落ち着いてくれると良いんだがと彼は考えるが、彼が参考にしているのは、野生動物が目を隠すと大人しくなるという事と、むずがる子供をあやす鏡花の姿であるので、効果の程は微妙だった。しばらくして、二人の体温でじんわりと毛布が温かくなった頃、アイリスの緊張がほぐれたのを見て、彼は、もう一度暴れられては困ると、彼女の顔だけ毛布から出した。


「落ち着いたか」


 恨みがましいアイリスの視線を受けながら問えば、こくりと頷かれる。では解放しようと、彼女を抱えたまま立ち上がり、丁寧に足から下ろすと、彼女が重く口を開いた。


「シグウィルさん」


「何だ」


 大体言いたいことはわかる気がしたが、彼は尋ね返す。


「後で一発殴らせて」


「お安い御用だ。だがな、まずは、着替えさせろ」


 彼女のお願いを快諾した彼ではあるが、格好を整えさせろとの言葉に、アイリスは引き締まった彼の体に、もう一度視線を向けてから真っ赤になってうつむき、小さな子供の様に頷いた。


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