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『暁』

 シグウィルがジャケットでなくベスト姿で現れ、右腕を包帯で吊っているのを見て、アイリスは目を丸くした。そしてすぐに、数日前にクロイドと彼がやり合ったのを思い出して、そんなに酷い怪我だったのかと知る。顎に当たっていた石みたいな感触は、彼の腕ではなく、右前腕部に巻かれた石膏包帯だったようだ。そんな彼の状態を心配するアイリスだが、彼は通常通りの淡白さで宿を後にすると、慣れた様子で町を進む。長身のシグウィルがすたすた進むのを、アイリスはちょこちょこ小走りで追い駆けるが、彼は特に何も言わない。途中、「ついてくるなって言わないの?」と尋ねると、「それで素直に帰るのか?」と逆に尋ね返され、彼女は首を横に振っていた。

 彼が向かったのは、メイヤード通り。日の落ちる今の時間帯から人通りが多くなる、通勤混雑の名所である。そこで彼らは何人もの男女とすれ違うが、その中で二人、シグウィルにさりげなくメモを渡す人間が居たのを、アイリスは鋭く見ていた。見られている事を気にしていない彼は、ポケットに捻じ込まれた小さなメモを見ると、左の指先でメモを擦るようにして魔具を発動させ、マッチに火をつけるかのように燃やしてしまう。


「今のは?」


 混雑の中を、姿勢をピンとして前だけ見て進む彼に、小声で尋ねれば、視線も向けずに「探し物の情報と、“夜会(ロード)”の居所だ」とだけ返された。オーヴァルの民がどれほど生き残っているのかわからないが、イザベラとシグウィル二人の協力者は多いようだ。走ってはいないものの、全く速度を緩めない彼は、最後に通りの隅にある工具店に入ると、店員とやり取りして革製の腕サポーターを受け取る。三角巾を外し、シャツの上から右腕にサポーターを装着、片腕と口を使って器用に調整紐を締め、確認するように何度か腕を振った。


「腕、大丈夫なの?」


「相手が“夜会(ロード)”だと少し面倒だ。こんな事がなければ放置しておきたい奴ではあるが、イザベラの事を抜きにしても、俺達の探し物を奴が持っている可能性が高い。遅かれ早かれ、衝突することになる。――俺の予想では、“怪盗(アルセーヌ)”だと思ったんだがな」


 イザベラと同じく、夜会の事になると嫌そうな顔をするシグウィルに、アイリスは「あいつ、何なの?」とイザベラにしたのと同じ質問をした。三角巾を胸ポケットに仕舞う彼は、少し考える時間を作り、「理性が焼き切れた男だ」と夜会を評す。


「同性として、奴の行動原理も思考も理解できるが、奴は俺達とは違い、自身を動かす衝動に抗う術を失ってしまっている。熱を求めたまま、例え自身が壊れることになっても、止まることが出来ない哀れな奴だ」


 そして再び、街頭が灯される通りへと二人は出て行く。今度はセントジョージ通り方面へ歩きだした彼を追いながら、アイリスは雑談を続けた。


「イザベラさんは、“変態”だ、って」


「強ち間違いじゃないが、あいつの様に気の強い女を屈服させたい気持ちは、理解出来る。それから、奴は強い者も好むから、娘、お前も目をつけられたかも知れんぞ」


「さいてー。ところで、イザベラさんの心配はしないの?」


「あれは、この程度でくたばる女ではない」


 シグウィルが言い切る所は、彼が彼女をとても信頼しているのだと、アイリスに感じさせた。そんな時、胸に来襲するのは、同じチームを組んだクロイドの事である。年上のシグウィル達の関係を見ていると、五年先、十年先と、自分はどう生きて行くのだろうと、ふっと頭をよぎったのだ。

 この二人はどういう人生を歩んできたのだろうと、彼女はぼんやり考える。相変わらずシグウィルの後ろを小走りについていくのだが、夜に変わる町を、硬い靴音を響かせて颯爽と歩く彼の背中は硬質な壁の様であるし、綺麗に人を避ける所作は戦士の足運びで、剣士であるアイリスには、見ているだけでも勉強になるような屈強な強者だ。孤高に立ち続けるイメージを受ける彼が、イザベラに執着を持っている理由が、同じ一族の生き残りである事、異性である事以外に思いつかなくて、アイリスは愚かな事だとは感じつつも、口から出る言葉を止められない。


「どうして、イザベラさんと一緒に居るの?」


 もっと言葉を尽くして、丁寧に質問したかったが、よくよく考えても、こんな子供っぽい質問しか出なかった。先を行く彼もそう感じたらしく、「ふっ」と笑い混じりの息を漏らす。


「何処かの教本にあった言葉だが、“人は、神によって不完全に作られている”らしい。それゆえ“完全を求めて、人は生きる”のが宿命である、と。俺は、あいつと関係を結ぶ縁があり、結びつきを強める経験があった。その中で、俺の欠けた何かを、あいつの中に見出してしまったという事だ。呪いと一緒だな」


 彼の人生観・恋愛観を聞き、アイリスは呆然と「呪い…」と繰り返した。彼女の予想では、もっと、こう、温かな気持ちになれる言葉が出てくると思っていたのだが、さらに彼は嫌悪を示すような、狼が唸り声を上げるよな顔付きになる。


「考えてみれば、忌々しい事だ。取るに足らない女であったというのに、今では、あれが俺の全てを決めてしまう。その癖、一向に俺の手には入らない」


 吐き捨てる様な独白に、アイリスは「え!?」と驚きの声を上げていた。思わず顔を後ろに向ける彼に、彼女は信じられない気持ちで返す。


「イザベラさんと、恋人同士じゃないの!?」


 じゃあ、何で、キ、キス、とか――!?


 街中でのデートとか、飲み屋での光景が思い返され、アイリスは心中で絶叫し、瞬間湯沸かしになった。何かの間違いじゃないかと慌てる彼女に、彼は「違う」と前を向く。再び歩き出した。


「あれは、わかっていて俺の求愛を無視する、相当な悪女だ」


 イ、イイイ、イザベラさぁん――!?


 シグウィルの衝撃的な告白に言葉を失って、アイリスは心の中で、何処かに居るだろうイザベラに説明を求める。動揺する彼女に彼は、「お前はそんな女になるなよ」と忠告し、大きな建物の前で足を止めた。鋭く見上げるそこは、静まりかえった大きなお屋敷で、空き家なのか、門にグルグルと鎖が巻いてある。


「アイリス――!!」


 呼ばれて左手側を見れば、裏道を駆けるクロイドの姿があった。シグウィルと彼らの拠点を出る際、アイリスが伝言を飛ばしていたのだ。衝撃的な出来事が続いていたアイリスは、彼の顔を見て心底ほっとする。そして彼は、全力で彼女の傍に駆け寄ると、無言で眺めていたシグウィルとの間に入って、彼を睨みつけた。


「シグウィルさん、彼女に何を――…」


 クロイドの威嚇に薄ら笑うシグウィルの顔を見て、あれが宿でアイリスを慰める時に、随分優しい声と表情をしていたのにと考えたアイリスは、尋問するように言いかけたクロイドの声に、再びボンと音を立てて頭が爆破した気がした。


「ち、違うのよ、クロイド!! あれは、この人がふざけて――…」


 慌てて前のクロイドに手を伸ばしたアイリスだが、クロイドの様子をにやついて見ていたシグウィルがさらに面白がる表情になった事と、クロイドが表情が抜け落ちた顔でアイリスを振り返った事で、自身の失敗を悟った。


「アイリス…?」


 振り返ったクロイドは、さっきの無表情から一転、満面の笑みを浮かべる。思わず言葉を失う彼女を見て、次いで彼は、剣呑な視線でシグウィルを捉えた。だが、クロイドの殺気も可愛らしいモノと悠然と笑い、彼は、緊張に身を固くするクロイドの頭を撫でる。


「大事にしてるじゃないか」


 シグウィルの行動が予想外過ぎたか固まるクロイドに、彼は「これは、お前が育ててやれ」と耳打ちした。意味がわかったらしいクロイドの顔が真っ赤になって、無理矢理彼の手を払いのけ、動揺に裏返った声で「余計なお世話だっ」と叫ぶと、彼は再び微笑ましそうにする。それを見て、益々悔しそうにするクロイドに、聞こえなかったらしいアイリスは首を傾げていた。


「クロイド…?」


「――っ、何でもないっ」


 悲鳴の様に言って、真っ赤な顔を背けるクロイドを再び不思議そうに見つめてから、彼が理由を言わないなら強く聞けないと考え、彼女は面白がるシグウィルを見上げた。


「それで、これからどうするの?」


「こうする」


 言って彼は、左手でコンと軽く鎖を叩いた。すると、目の粗い、錆かけた鎖だったとはいえ、重く硬いそれにヒビが入って割れ、ずり落ちて鈍い音を立てる。手品の様な芸当で、落ちた鎖とシグウィルとを交互に見る二人に、彼は門を開けて「入れ」と促した。それから何か思い出したか、玄関まで真っ直ぐに進むシグウィルの後を追い駆ける二人に、おもむろにポケットから折り畳んだメモを渡す。


「見取り図だ。頭に入れろ」


 受け取ったそれを見れば、屋敷だけでなく、秘密の地下施設の存在も示されている。アイリスが広大な地下施設について疑問を示すと、彼は「闘技場だ」と言った。それにクロイドはピンと来たらしく、「賭博場か」と続ける。どういう事かとアイリスが顔を顰めるが、クロイドが答えを返す前に、シグウィルが玄関を蹴り破った。


「「えぇ!?」」


 豪快な侵入に「暁」の二人が固まるのも気にせず、彼は拳をぎゅっと握って、手を覆う鉄甲を出現させると、躊躇せずに「≪(フレア)≫」と魔具を発動させる。彼の意図は、玄関ホールから中央、左右に別れるような造りの階段の段上からわっと現れた男達の姿を見て、アイリス達も理解した。


「娘。お前たちは、地下に行け。俺は、これを片付けてから降りる」


 アイリス達の返事を聞きもせず、降りる為に中央一本になる階段の所で、もたつく男達に向かって、彼は駆けだした。アイリスは何か言いかけたが、クロイドは諦めの様なため息を吐くと、彼女を促して玄関ホールから右の扉へ走る。入ればそこはダイニングで、大きなテーブルと八つもの椅子で、部屋の殆どを埋めるように配置してあった。上座側にこれまた大きな暖炉があって、そこから地下への梯子が伸びているらしい。二人が暖炉を覗き込んだ瞬間、隣の玄関ホールからどぉんと、建物を揺らす轟音が響いた。


「シグウィルさんだろうな、今のは」


「そうね」


 派手に暴れるのは陽動を兼ねているからなのか、無意識なのか。ちょっとだけイザベラの苦労がわかるような気持ちになりながら、二人は梯子を降りる。途中は真っ暗だったが、段々足元の方が明るくなり、底に着いた時には、赤絨毯まで敷かれている立派な廊下で驚いた。


「貴族のお屋敷みたいじゃないの」


「そういう身分の人間が利用するだろうから、それなりに整えてあると思う」


「え?」


「闘技場で殺し合いを兼ねた試合をして、勝敗を賭けているんだ。こんなに大規模に、しかも秘匿しようとしている所から、もしかすると魔物の飼育をしていたり、大量の無申請の魔具が出てくる可能性は高いだろうな」


 恐らく“夜会”に囚われているだろう、イザベラの救出しか考えていなかったアイリスは、クロイドの言葉に弱った顔をする。アイリスからの伝言――“怪盗”や“夜会”の出現――内容と、シグウィルとの短いやり取りでそこまで考えついたとしたら、自分の相棒は何て頭が回るのだろう。


「応援……呼んだ方が良いかしら」


「だろうと思った! ブレアさんに伝えているから、追いついてくれる事を祈ろう」


 弱気なアイリスに苦笑しながら、クロイドは先へ促した。廊下は一本道で、突き当りにドアがあり、そこから先の騒音が漏れている。熱気と興奮を感じる野太い歓声は、学園の模擬戦の観衆たちに似た気配だ。扉を開けて伺うと、皆がこちらに背を向けて、奥側、部屋の中央を見ていた。気付かれないように入りこむ事は簡単だが、何を見ているのかわかるには、彼らは移動しなければいけない。


 ようやく観覧席の隅に辿り着くと、部屋の中央に大きなリングがあって、流血沙汰は当たり前、過剰防衛・途中棄権無許可・ルール無用と言った雰囲気で戦う二人の男の姿がある。顔色の悪くなるアイリスを気にしながらも、クロイドは「イザベラさんを探そう」と提案すると、勝敗がついたらしく、気を失うほど顔を殴られて重症の敗者が、担架で運ばれていった。


「ここがメイン会場だけれど、控室や上客用の部屋があったはずだよ。まずはそこから――」


「待って、クロイド。あれ!!」


 言葉を遮って彼女が指したリングの中央に、両手を拘束され、引っ張って来られる女性が居る。彼女は両脇を持った男達に、リング中央へ突き飛ばされた。女性の登場に、周囲の下品な観客が騒ぐ。次に登場したのは、アイリスも見た事がある赤茶髪の男、“夜会”であった。彼は、何とか立ち上がろうとしている黒髪の女性――イザベラだ――の両手を拘束する板を踏みつけると、嬲る様に何事か告げている。一瞬だけ彼女の身が硬くなり、夜会に促されるように、新たに登場した男の持つピローを見た。何かを確認したのか、愕然とした彼女だが、次の瞬間、冷気が噴き出す。


 ―――ドゥン!!


 シグウィルの暴れるのとは比例できない轟音を響かせて地下施設が揺れ、突然の冷風が吹き荒れて、会場が混乱する。騒動に巻き込まれない様に、さらに隅で縮こまる二人が観察している中で、ここに居た観客の大半が外へ脱出しようと、四方にある扉や、アイリス達がやってきた廊下に殺到し、阿鼻叫喚となっているのを見た。そして部屋の中央には、氷山のような氷塊が発生しており、その間を夜会と、手枷を破壊したイザベラが、争いながら移動しているのを認める。


「クロイド!!」


「わかった!!」


 声を掛け合って、彼らは走り出す。リングに近づくと、イザベラの魔具で作られたのだろう、天井に刺さる氷塊の大きさに驚いた。魔法を扱うクロイドは、魔具の影響だけではないなと、目を細める。魔具を使用しているものの、イザベラは、魔法使いの適正があるのかもしれない。そんなクロイドは右手側から、アイリスは左手側から中央へ移動する。先に二人に接触出来たのはアイリスで、夜会と距離を取り、遠距離から彼を攻撃するイザベラへ叫ぶ。


「イザベラさん!!」


「え、嘘。アイリス!?」


 一瞬気が逸れた彼女の横を、夜会が通った。短い悲鳴の後、彼女の左腕が裂かれ、白いブラウスの袖が落ちる。彼女の傍には、手に大振りのナイフを持った夜会がおり、次の狙いを定めて地を蹴った。アイリスは即座に剣を抜いて、夜会に切りかかる。


「バカ、何で来たの!!」


 切られた事よりアイリスの方を気にして、彼女は悲鳴を上げる。“真紅の破壊者”として、それなりに修羅場を経験している自身に、どんな心配をしているのだと思うと、心を読んだ様に彼女は「そいつから離れて!!」と鋭く飛ぶ雹弾を撃った。弾かれたようにして距離を取ると、悪意と粘着の混じった夜会の目が、アイリスに注がれている。


「貴女は、あの変態に、相当、気に入られたようよ。私がここに上がって来る前に、あいつが聞いてくる事は、ぜぇんぶ、貴女についてだったわ」


「さいてー」


「まったくもって、その通りよ」


 夜会を睨みながら、イザベラはポケットからスカーフを取り出して、傷を縛る。すると、ナイフで遊んでいた夜会が怒鳴った。


「雌犬っ。やっぱり知り合いじゃねぇかっ!! おい、小娘。お前ぇ、待ってたんだよ。試合おうぜーぇ!!」


 歓喜を叫んで突っ込んでくる夜会は素早い。身体強化の魔具を使っているとの話だから納得だが、アイリスがその早さに慣れるまで苦戦しそうだ。彼女の魔具<疾風の靴>を使用しても良いが、足場になる壁や天井が遠いこの空間では持ち味を生かせない。あまり動かず、防戦の構えの彼女に、衝突しては離れを繰り返す夜会の行動はじわじわ削ぎ落とし、苦しめる様で、剣を合わせて感じる心根からも、アイリスは彼を嫌悪した。


「はっはぁ!! 何だよ、がっかりさせんなよ。お前の為に、あの女、生かしておいたんだぜ?」


 夜会のナイフの扱いは剣士のそれではないが、人間の早さと力を越えている事で、アイリスも捌くのに苦心している。全て捌いて掠りもしていないが、いつまでも続ければ、先にアイリスの体力が尽きるだろうと予感した。打開策が思い浮かばないまま、再び来ると身構えたアイリスだったが、突っ込んでくる夜会と彼女の間に透明な氷の壁が出現して、「へぶっ」と夜会がぶつかる。


「ざまぁっ!!」


 瞬間、思いっきり罵倒したのは、イザベラだった。彼女はスカートを持ち上げて片足を踏みつけ、その足先から氷の壁までの床が氷ついている。強かに顔面を打った夜会は、その言葉に「死にたいらしいな、雌犬ぅっ!!」と吠えた。氷の壁にぶつかった時にナイフを落としたらしく持っていないが、それだけで油断してはいけない。イザベラを振り返るアイリスだが、彼女は紙一重で夜会を避けた。


「っんの、変態」


 それでも服を掴まれ、反動で破かれたらしく、彼女は胸を隠して悪態をつく。手に持った布切れと化したシャツを投げ捨て、夜会は、相手が女であった事を思い出した様に、舐める様な視線を彼女たちに寄越した。


「お前ぇら二人とも丸裸にして、時計塔に張り付けてやるよ。“雌犬(ビッチ)”って、首輪をつけてなぁっ」


 夜会の言い様に、両者とも盛大に顔を顰める。何か言い返してやろうかとした所で、夜会を包むように竜巻が発生し、無防備だった彼の服を切り裂いた。


「悪いが、何て言ったんだ? あまりに低俗な言葉で、聞きとれなかった」


 言って、氷塊の上の方から降りて来たのは、不機嫌な顔をしたクロイドである。怒っているらしく、挑発するような言葉を投げて、詠唱を始めていた。一方、全身を切り裂かれた痛みに呻いた夜会は、新たに登場した彼に「あぁ?」と殺気を向ける。そして痛みが彼のせいだと理解すると、「潰す」と彼に殴りかかった。


「クロイド…!」


 そろそろ夜会の早さに追いついてきたアイリスが、彼を庇って夜会を牽制する。けれども、頭に血が上った夜会は刃に怯む事なく、止まらない。一撃が深く彼の太股を抉ったが、動揺したのはアイリスだけで、彼女に構わず、夜会はクロイドに接近した。


「あ、」


 アイリスが振り返るが、その時にはクロイドの目前に夜会が居た。真っ青になるアイリスに、クロイドは安心してくれと言わんばかりに笑みを浮かべる。完成した詠唱を、片手に乗せて吹きつけるように囁いた。


「≪凍える女神の吐息(グラシア・ラグエル)≫」


 クロイドの顔面を狙って繰り出された夜会の拳は、彼に届く前に霜が降り、途端にガクンと止まる。夜会が宙に留まった時間は数秒もない。全身で抵抗しようとしていた夜会だが、クロイドの魔法により発生した、凍える竜巻に弾き飛ばされて、回転した。


「“この刃は風。如何なるものも通し、切り裂く凍風となれ――”」


 次の詠唱を始めたクロイドに、アイリスは視線を合わせて頷く。三人の視界の中で、夜会は遠くの壁に着地すると、言葉にならない怒りの絶叫を上げ、そこを蹴ってこちらへ突っ込んでくる。アイリスは「ふぅ」っと長く息を吐いて、剣を構えた。ひゅっと冷たい風が通り過ぎ、彼女の剣先へ巻きつく。踵を三回打ち鳴らした彼女は、クロイドの詠唱の終わるタイミングで床を蹴った。


「「≪風斬り(ヴアン・ラーマ)≫」」


 怒りで真っ赤に染め、歯を剥き出した形相の夜会を見据え、彼を斜め上から切り落とす。アイリスと夜会にはまだ距離があった。だが、クロイドの魔法で強化された剣は、彼女の技量を持って、カミソリの様な剣風となって夜会に襲い掛かる。ばっと派手に血飛沫が飛び、苦痛の声を上げて、夜会が落ちた。遠目に観察していたイザベラが、微かに表情を歪めたのは、床に転がった夜会が、起き上がったからだ。同様にクロイドは追撃の手を緩めない。


「≪透き通る盾(クラルティ・ミューレ)≫!!」


 完全に立ち上がる前の夜会の周囲に、小規模の魔法陣が展開する。夜会を切りつけてさらに前進したアイリスは、それがわかっていたかの様に、展開された魔法陣を足場にし、跳ぶ。


「ハァッ!!」


 夜会の肩を狙って剣を振るったアイリスだが、初撃は、転がって逃げた夜会に避けられた。


「まだよっ」


 彼女には<疾風の靴>がある。床を蹴って跳び上がれば、上空の魔法陣を足場を反発させて、放たれた弓矢の如く追撃した。一撃、二撃と避けられて、今一決まらないが、浅く掠っている。交戦しながらも、アイリスは斬りつけるより、彼を気絶させるタイミングを狙っているのだが、良い隙がない。次第に切り傷を増やして、自分の血に染まっていく夜会であるが、先程まで罵詈雑言だった口が、今では舌打ちだけと静かになり、アイリスも違和感を感じた。一度距離を取って、構えを変える。


「んだよ…。……ぇ、じゃ…か」


 アイリスの追撃が一時おさまったそこで、夜会は胸を袈裟掛けに斬られた、一番大きな傷に指を這わせる。指には少なくない量の血が付き、それを見て彼は「ああぁああぁぁぁぁあっ!!!!」と無茶苦茶に叫んで、短くない赤毛を掻き毟って、首に巻いたボロボロのスカーフを毟り取った。それから倍に開いた目を、正面のアイリスに向けると、魔具だろう両手の無骨な指輪を撫でる。瞬間、建物が大きく揺れた。


「ってーじゃねぇかクソガキイイイィィィイイィィイッ!!!!」


 絶叫と共に、夜会がアイリスに突っ込んでくる。その勢いは先程の比でないと早く勘づいたクロイドが、彼女の前に障壁を建てた。


「“身に纏うは天の風、吹き留まる、鉄より硬きものっ”――≪透き通る盾(クラルティ・ミューレ)≫!!!」


 咄嗟に出た彼の結界は夜会の勢いを留めたものの、吠えた夜会の一歩で、ガラスの様に崩壊する。魔法が破られた事に驚くより、クロイドは相棒が傷つく恐怖に、体が動いた。二本の足では絶対届かない距離でも、この姿ならば届く。


『“身に覆うは霧の鎧。纏うのは鉄より重きもの。吹き抜ける風はその身を守り、汝が盾となる”』


 クロイドの防御魔法の詠唱が聞こえたのと、アイリスの前に黒い疾風が割り込んだのは同時。頭で状況を理解する事は難しい時間だったが、彼女は咄嗟に、“死んでも落とすな”と言われていた剣を手放し、目の前のそれを受け止める為に手を伸ばした。


 イザベラの制止の悲鳴。重い鉄球が建物を破壊するような、大きな音。衝撃に弾き飛ばされ、宙を流れる黒い躯に、アイリスは飛び付いた。


 ――――この人は、私の、大事な…。


「クロイド!! アイリス!!」


 イザベラの悲鳴が明確な声として届いた時、アイリスは犬の姿になったクロイドを抱きかかえ、床に転がっていた。まるで馬車にでもぶつかったかの様な、全身の痛みに呻きながら、腕の中のクロイドを見る。彼が息をしているのを見て、アイリスはただ「良かった…」とそれだけを安堵した。ほっとすると一気に体のダメージに意識が向いてしまい、彼女は倒れる。


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