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結局、潤んだ瞳でこちらを見上げるフローラには勝てなかった。どうしてだろう。女の子にお誘いを受けて承諾したはずなのに、大して嬉しくない。…胸やけ地獄は嫌だ。
今後、胸やけが確定して気分が憂鬱気味な俺と違って、フローラは大層ご機嫌だ。今、食堂を出て次の施設へ移動している途中だが、鼻唄を交えつつ心なしか足取りも軽そうに俺の前を歩く。今にもスキップしてしまいそうという表現がピッタリだ。
そんな彼女はふと俺の方へ振り向く。それはもう飛び切りの笑顔で。不意打ちを受けた俺はあまりの悪寒に危うく膝を突きそうになったがどうにか堪える。彼女は特に何も言うことなく、俺の方を見るので俺は彼女に尋ねた。
「いきなり振り向いてどうした?それに俺の顔をじっと見つめて。何か顔についているのか?」
彼女は何か可笑しそうに微笑むと頭を振った。
「エヘヘ。何でもない。」
本当にご機嫌だ。むしろ変にすら思える。何が彼女をそうさせたのか、俺にはわからない。まさか、俺とスイーツを食べに行くことか?いや、彼女の話からすると、彼女は足繁くスイーツを食べに行っているようだ。一人の時もあるだろうが人当たりの良い彼女のことだ。友達ともよく食べに行くだろう。ならば、今更俺とスイーツを食べに行くからといって喜ぶ要素は…。
いや、逆に人当たりの良い彼女だからこそ、普段から行き慣れている人とは違う人、つまり俺とスイーツを食べに行けることが嬉しいんじゃないか?そう考えれば彼女が嬉しそうなのも納得できる。
「………ト……デ…。」
しかし、そういう人柄だと考えると彼女の将来が不安だ。こうも人懐っこいといつか悪い奴に騙されるんじゃないか?ウーン、不安だ。
「………トシ…デ…!」
でも、何やかんやで彼女はしっかりしていそうだから杞憂かもしれないな。むしろ、今彼女の世話になっている俺が言うべきことでもないか。
「ねぇ!トシヒデってば!!」
「…!ど、どうした?」
「どうしたじゃないよ!人が呼び掛けても反応しないし。」
どうやら考え事に夢中になり過ぎて彼女の呼び声が聞こえなかったらしい。そのせいで、折角良好だった彼女の機嫌は悪化したらしく、彼女はややふくれっ面をしている。けれども、怒っている彼女を見てもそこまで怒られている気分にはならない。正直に言うと、笑顔を見せている時と劣らず可愛らしい。
何、この可愛い生き物…。
「いや、すまん。色々気になってついな。」
「フーンだ。人が折角時間を割いて教えてあげているのに、他の事に気を取られて私を蔑ろにするトシヒデなんか知らない!」
俺の返事が気に食わなかったらしく、更に機嫌を悪くしたフローラはそっぽを向いた。そのくせ、いじらしく俺の方をちらちら窺うので、雰囲気がそこまで険悪なものにはならない。彼女は気づいていないと思うが、何というか癒されている気分になっている。
何、この可愛い生き物…。
こんなことを思っていたからだろう。俺は馬鹿なことを仕出かした。
「悪かった。悪かった。これで許してくれ。」
つい、癖で彼女の頭を撫でてしまった。癖というのは、偶に遊びに来る歳が少し離れた従妹が機嫌が悪い時にする頭撫でである。そう、ようやく思い出した。今のフローラはまるで機嫌が悪くなった従妹が無邪気に頭撫でを求める姿にそっくりだったのだ。気づいたところでもう遅いが。
「…フローラ?」
俺は冷や汗を掻きながら彼女の様子を窺う。前にも言ったが、女性との係わりは下手なことをすると牢屋行きになるので細心の注意を払う必要があるのだが…、マジでミスった。彼女は放心状態だったが、俺の呼びかけで少し覚醒すると自分の頭の上にある俺の手を見て、それから俺の顔を見つめ、…顔全体を一瞬で真っ赤に染め上げた。
何かを言おうとしたのか、口をパクパクさせたが、わなわなと震えだすと顔を両手で隠してしゃがみ込んでしまった。流石に本当にヤバそうだったので、謝罪の言葉をかける。
「す、すまん。そういうつもりはなかったんだ。」
彼女は顔を覆っていた両手を少し下に下げて目だけをこちらに向ける。その眼はウルウルと涙を一杯に溜めてこちらを睨むように見上げていた。俺は少し気押されながら、だけれども彼女のその姿に若干不謹慎ではあるが癒しを感じつつ、謝罪を続ける。
「本当に申し訳なかった。あれは間違ったというか何というか…、つい。」
俺は謝罪を続けるうちに申し訳なさでだんだん目を泳がしてしまって、結局言い終わるころには彼女の目を見ていう事が出来なかった。だが、彼女はそんなことよりも俺の謝罪に反応を示した。
「…つい?」
「え?」
「ついというだけで私の頭を撫でたの?」
どうやら俺のしどろもどろの謝罪は彼女の不興を買ったようだ。特に何気なく行ったことが許せないらしい。
「す、すまない!つい、か、可愛らしくて頭を撫でてしまった。本当に申し訳なかった!」
謝罪とともに俺は勢いよく頭を彼女に下げる。全面的に悪いのは俺であるし、特に言い訳もなかったのでストレートに本当の理由を伝える。理由は勿論彼女がまるで従妹のような小動物的可愛いさがあったために、うっかり癖で頭を撫でてしまったことだ。
「そ、そうなんだ。(か、可愛い!私が可愛い!)」
彼女はそういうと黙った。俺は頭を下げたまま彼女に成り行きを任せる。何がどうあれ、失礼な事をしたのに変わりはないのだから。
「「……………。」」
沈黙が流れる。俺は頭を下げつつ冷や汗を流していた。よくよく考えれば、さっきの謝罪、結構伝えるべき点が抜けてしまっている。言葉足らずな故に、彼女に正確に伝わっていないのか?
俺はこの沈黙の間に先ほどまでのやり取りを思い出して、不安に駆られる。
そうして、しばらくしてから彼女から声がかかる。
「頭を上げて、トシヒデ。」
俺は恐る恐る顔を上げる。そこには顔を赤く染めたまま、こちらから目を逸らし、髪先を指にクルクルと巻くように弄るフローラがいた。
「いきなりでびっくりしたけど、あなたの突然の行動は許します。」
俺はその言葉を聞いてホッと息を付く。ちゃんと謝罪は伝わったようだ。
しかし、ホッとしたのも束の間。彼女は不穏な言葉を続けた。
「しかし、ただとはいきません。私は本当に驚きました。それはもう心臓が破裂するんじゃないかとおもうぐらいには。(おかげで折角のスキンシップを楽しむことができませんでした。)レディを不用意に驚かせる不届き者にはそれ相応の罰が必要です。」
間に良く聞き取れない部分があったが、俺は最後の言葉を聞いて項垂れる。何をされるのだろうか?
「文句は無さそうですね。じゃあ、言い渡します。レディを不用意に驚かせたトシヒデ。そんなあなたには罰として、」
俺は唾を呑み込む。
「もう一度頭をなでなでしてください。」
「はい?」
おかしい…。聞き間違いか何かだろうか?
「ですから、私の頭をなでなでしてください!」
聞き間違いではなかった。てか、これは罰というよりご褒美の部類に入るのでは?
「ん!」
聞き間違いでないことがわかっても躊躇している俺に彼女は頭を差し出してきた。俺は覚悟決めると、恐る恐る彼女の頭に手を伸ばす。そして、彼女の頭を丁寧に撫でていく。
「フミュー。」
彼女は心地よいのか、気持ちよさそうに顔を綻ばせるとよくわからない鳴き声(?)を上げる。にゃんごろにゃんとかゴロゴロゴロと喉を鳴らしてきそうな幻覚が見えたのは秘密である。
結局、この罰という名のご褒美が終わったのは、満足して自我を取り戻したフローラが止めて良いと言ってからであり、かかった時間は5分と短いようで長い、けれども、やはり短いものだった。
俺、何やっているんだろう?




