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ルナは、恋をした。―完璧な御曹司に振られたので、まず私のことを知ってもらうことにしました―   作者: たまご
高校編

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22/22

第22話 ルナは、固まりました

季節が少しずつ秋へ近づく頃。

白鳳学院では文化祭の準備が本格的に始まっていた。


放課後になると、校舎のあちこちから音が聞こえてくる。


机を引きずる音。

段ボールを切る音。

廊下の向こうから聞こえる、楽しそうな話し声。


いつもの校舎が、少しだけ違って見えた。


月のクラスの出し物は、喫茶店に決まった。


教室には色紙や段ボール、絵の具が広げられ、何人かの生徒が壁の飾りつけをしている。


その中で月が任されたのは、教室の前に置く大きな看板だった。

床に板を広げ、下書きに沿って筆を動かしていく。


「朝比奈さん、すごく上手」


隣で飾りを作っていた柚が、月の手元を覗き込んだ。


「ありがとうございます」


「これ、入口に置いたら絶対目立つね」


月は出来上がりつつある看板を見る。


「ルナもそう思います」


絵を描くことは好きだった。

頭の中にあるものを色や形に変えることも、月にとっては難しくない。


夢中になって筆を動かしているうちに、白かった板は少しずつ喫茶店の看板へと変わっていった。


しばらくして、黄色の絵の具がなくなった。


「絵の具を取ってきます」


予備の絵の具を取りに、月は準備室へ向かった。


廊下にも文化祭準備の空気が広がっていた。


大きな段ボールを運ぶ生徒。

脚立に乗って飾りをつける生徒。


誰もが自分たちの準備に夢中になっている。


月がその間を抜け、準備室へ向かおうとしたときだった。


向こうから、数人の男子生徒が歩いてくる。


その中に見慣れた姿を見つけ、月の顔が明るくなった。


「一条先輩!」


凪がこちらを見る。


月はすぐにその前まで行った。


「今日は偶然です! 追いかけていません!」


凪は何も言わなかった。

代わりに、その隣にいた男子生徒が笑う。


「おお、ルナちゃん。久しぶり」


月はその顔を見た。


「……ルナのことを知っているんですか?」


「知ってるよ」


男子生徒の笑顔が引きつった。


「何回も会ってるじゃん」


「そうでしたか?」


「前に助けに行ったときも僕たちいたんだけど」


「……」


月は少し考えた。

覚えていない。


隣の友人が苦笑する。


「まあ、凪しか見えてないから仕方ないか」


けれど、その頃には月の視線はすでに凪へ戻っていた。


「一条先輩のクラスは、文化祭で何をするんですか?」


友人が笑った。


「凪に聞いても答えないだろうから、僕が教えてあげる」


そう言って、友人は楽しそうに続けた。


「僕たちのクラスは、お化け屋敷」


「お化け屋敷……」


月はその言葉を繰り返す。


「ルナちゃん、お化け屋敷好き?」


「分かりません。行ったことがないので」


「え、一回も?」


「はい。機会がありませんでした」


「じゃあ、ぜひ来て。僕たちもお化け役するから」


その言葉に月は迷わず頷いた。


「絶対行きます!」


すると、別の友人が月の教室へ目を向けた。


「ルナちゃんのクラスは何するの?」


「喫茶店です。今、ルナが看板を描いています」


「へえ。見てみたい」


月は開いたままの教室の中に置いてある絵を指した。


「あそこです」


友人たちはそのまま教室へ入っていった。


描きかけの看板を見つけると、近くにいたクラスメイトたちと何やら話し始める。


月も戻ろうとして、ふと隣を見る。


凪だけが、廊下に残っていた。


「一条先輩は、見ないんですか?」


「別に」


「ルナが描きました」


月は少し考えた。


「一条先輩にも見てほしいです」


凪の視線が向く。


「なんで」


「一条先輩に見てほしいからです」


凪は何も答えない。

教室へ入る様子もなかった。


「分かりました。完成したら見てください」


月はあっさり話を切り替えた。


「ルナも、一条先輩のお化け屋敷を見に行きます。一条先輩も、お化けになりますか?」


「ならない」


「そうなんですか」


少し残念だった。


「一条先輩のお化け、見たかったです」


凪は冷めた目を向ける。

月は気にせず続けた。


「でも、一条先輩なら、お化けになってもすぐ分かります」


顔が隠れていても、声を聞けばいい。


「一条先輩の声は、白くて、ふわふわなので――」


そのとき。

頬に、柔らかな感触が触れた。


「……え?」


言葉が途切れた。

一瞬、何が起きたのか分からなかった。


遅れて視線を動かす。


凪の親指だった。


親指が、自分の頬に触れている。


「……」


月の身体が、そのまま固まった。


いつから手を伸ばしていたのか。


さっきまで凪の声について話していたはずなのに、その続きが頭の中から全部消えた。


親指が、頬の上をほんの少しだけ滑る。


近い。

凪の顔も、いつもより近くにある。


月は瞬きもせず、その顔を見つめていた。


いつもなら、近くで見ればすぐに思う。

今日もかっこいい。

もっと見たい。


けれど今は、それすら浮かばなかった。

頭の中から、言葉だけがなくなった。


やがて、指が離れた。

月の目が、その動きを追う。


凪の親指には、緑色の絵の具がついていた。


「ついてた」


凪の手が、頬に触れた。

絵具を取った。


それだけのことのはずだった。


「……」


それなのに、何を言えばいいのか分からない。


ありがとうございます。


そう言えばいい。

きっと、それで合っている。


月はそう考えた。

けれど、口が動かなかった。


さっき触れられた感触だけが、まだ頬に残っている気がした。


「……」


月は凪を見つめたまま、ただ固まっていた。


「凪」


教室の中から友人たちが戻ってきた。


「そろそろ行こう」


凪は月を一度だけ見ると、何事もなかったように友人たちの方へ歩き出した。


「ルナちゃん、看板すごく綺麗だったよ」


「お化け屋敷も来てね」


「……」


返事はない。


友人たちは少し不思議そうに月を見たが、そのまま凪と一緒に歩いていった。


月はまだ、その場に立っていた。

その姿が廊下の向こうへ消えてからも、しばらく動かなかった。


やがて、そっと、自分の頬に触れる。

さっき、凪の指が触れた場所。


絵の具は、もうついていない。


それなのに、ほんの少しだけ、そこだけ熱が残っているような気がした。


「……」


凪に触れられただけで、言葉が出なくなった。

そんなことは、今まで一度もなかった。


月はその理由を考えた。

けれど、答えは出なかった。


もう何もついていない頬から、しばらく手を離せなかった。

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