第1話 ルナは、恋をした
「ルナは、一条先輩が好きです!」
朝の昇降口に、朝比奈月の声が響いた。
靴を履き替えていた生徒たちが、一斉に振り返る。
絶え間なく続いていた話し声が、その瞬間だけ途切れた。
月は両手を胸の前で握りしめ、一条凪を真っ直ぐに見上げていた。
凪の周りには、いつものように何人もの生徒がいる。
けれど月には、彼しか見えていなかった。
「付き合ってください!」
今度は、さっきよりも大きな声だった。
どこかで誰かが息を呑む。
すぐ近くでは、女子生徒たちが顔を見合わせていた。
凪は何も言わなかった。
ただ、月を見ている。
聞こえなかったのかもしれない。
月がもう一度口を開こうとした、その時だった。
「……誰?」
月は目を瞬いた。
「朝比奈月です!」
凪の眉が、わずかに寄る。
「いや」
一拍置いて、
「あんた、誰?」
周囲がざわついた。
月は返す言葉を探した。
名前なら、今答えたばかりだ。それなのに、凪はもう一度「誰」と尋ねている。
ほかに何を聞かれているのだろう。
「ルナは、朝比奈月です」
「それは聞いた」
凪が小さく息を吐く。
「悪いけど、知らない相手とは付き合わない」
「じゃあ、知ってもらえばいいですか?」
間を置かず返ってきた言葉に、凪の表情がほんの少しだけ動いた。
月は真剣だった。
知らない相手とは付き合わない。
ならば、知ってもらえばいい。
「ルナ、一条先輩にルナのことを知ってもらいます」
「……いや」
「それで、もう一回告白します!」
昇降口にいた生徒たちの視線が、いっせいに月へ集まった。
凪は数秒、月を見つめていた。
何を考えているのかは、分からない。
やがて「勝手にすれば」と低い声が落ちた。
その瞬間、月の目の前に、柔らかな白が広がった。
真っ白なのに、眩しくない。
月の瞳が、わずかに輝く。
凪はそれ以上何も言わず、そのまま月の横を通り過ぎていった。
月は振り返る。
凪の背中は、もう生徒たちの向こうへ消えかけていた。
それでも月は、嬉しそうに笑った。
また、あの声を聞けた。
今は、それだけで十分だった。
*
月が一条凪を初めて見たのは、そのほんの数日前だった。
恋が始まりそうな日ではなかった。
空は曇っていたし、特別な行事があったわけでもない。
月はただ、クラスメイトたちのノートやプリントを職員室へ運んでいた。
「朝比奈、これもお願い」
「私のもよろしく」
すでに何冊も積まれていた月の机へ、さらにノートとプリントが置かれていく。
「はい!」
何人かが顔を見合わせて笑っていたが、月は気づかず、積み重なったノートを抱え直した。
自分が代わりに運べば、みんなはその分、自分の用事を済ませられる。それなら、月にとっては何も問題なかった。
抱えたノートとプリントを落とさないように気をつけながら廊下を進む。
角を曲がった瞬間。
――どん、と肩に衝撃が走った。
「あっ」
腕の中からノートが滑り落ちた。何冊ものノートが床を叩き、間に挟まれていたプリントが白い鳥のように廊下へ散っていく。
月は慌ててしゃがみ込んだ。
「す、すみません!」
向かいにいた男子生徒も、すぐに腰を落とした。そして月の顔を見るより先に言った。
「悪い。怪我ないか?」
低く、静かな声だった。
その瞬間。
月の目の前に、白いものが広がった。
月の手が止まる。
真っ白なのに、眩しくない。
雲のようで。
雪のようで。
けれど、そのどちらとも違う。
柔らかく膨らみながら空気の中を漂い、触れれば指先から溶けてしまいそうな白。
月は床に手をついたまま、動けなかった。
こんなに綺麗な音を、今まで一度も見たことがなかった。
「……大丈夫か?」
再び響いた声に、白がゆっくりと形を変えた。月はようやく、その声の主を見上げた。
少し長めの栗色の髪に、整いすぎていてどこか冷たく見える横顔。制服の胸元には、二年生の学年章がついていた。
月は慌てて頷いた。
「ルナは、大丈夫です!」
男子生徒は小さく頷き、散らばったプリントを拾い始めた。
月も拾わなければと思った。けれど、さっき見えた白が、まだ目の奥に残っている。
彼が最後の一枚を拾い、向きを揃えて差し出すまで、月はもう一度声を聞きたいと思いながら、その手元を見ていた。
「ありがとうございます」
プリントを受け取ると、彼はまた頷いた。
それだけだった。
名前も告げず、そのまま廊下の先へ歩いていく。
月は抱え直したノート越しに、その背中を見つめた。
もう一度、声を聞きたかった。
けれど、呼び止めるための名前を、月は知らなかった。
その日の放課後。
月が教室を出ると、廊下の向こうが騒がしかった。
何人もの生徒が足を止め、同じ方向を見ている。
「一条先輩だ」
「今日もかっこいい」
「一条先輩、こっち見た?」
人の輪の中心を、一人の男子生徒が歩いていた。
誰かに声をかけられても、ほとんど立ち止まらない。
周囲の騒ぎなど耳に入っていないような顔で、階段へ向かっている。
月はすぐに気づいた。
廊下でぶつかった、あの人だった。
探す必要などなかった。
彼が歩くだけで、周りの人たちが勝手に名前を教えてくれた。
「一条……先輩」
月は小さく呟いた。
忘れないように、心の中でもう一度繰り返す。
一条凪。
それから月は、学校で凪の姿を探すようになった。
朝の昇降口や階段、昼休みの廊下。凪はいつも大勢の生徒に囲まれていたが、自分から口を開くことはほとんどなかった。
それでも、ときおり短い返事が聞こえると、月の視界にはあの柔らかな白が広がった。
もっと聞きたい。
できれば、もう少し近くで。
そう思いながら、月は何度も凪を目で追った。
けれど、凪が誰とも話さずに通り過ぎた日も、月はその背中が見えなくなるまで立っていた。
声は聞けなかった。
それなのに、会えたことが嬉しかった。
*
数日後、月はいつもより早く学校へ来て、昇降口で凪を待った。
やがて、人の流れの向こうに見慣れた栗色の髪を見つける。
あの日は、名前も知らずに背中を見送った。
けれど、今は違う。
月は、彼の名前を知っている。
もう一度あの声を聞きたくて、月は近づいてくる凪の前へ、一歩踏み出した。
そして。
「ルナは、一条先輩が好きです!」
そうして月は、一条凪に告白をした。
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