どこにもいけないというならいっそ
私は柿の匂いを必死に探しながら、二階をうろうろとする。二階には裏吉原でひと晩遊んで寝ていたひとたちが、朝風呂にぞろぞろと向かおうとしているのが見える。
私はそのひとたちに片っ端から声をかけた。
「あの……すみません。尋ねてもよろしいですか?」
「なんだい?」
「あの……」
遊女さんが逃げたなんて言える訳もなく、どうにかしどろもどろで尋ね続けるものの、なかなか遊女さんは見つからなかった。
鶴がこちらに飛んでこないということは、社や見返り柳の付近には彼女たちがいなかったのだろう。
やがて、ひとりのお客さんが「うん?」と立ち止まった。
「もしかして大工さんの広野さんかい? 別嬪さんと一緒にいたけれど」
「あ……」
「なんだい、万屋さんがわざわざ探してるってことは……」
駆け落ちに気付かれないよう、私は慌てる。
「すみません、先日の依頼の際に先生の道具をひとつ置いてきたんで! 大事なものですから拾ってくれてないか聞きたかったんです、ありがとうございます! その広野さんはどちらにいらっしゃいましたか?」
「ああ……たしか一階の浴場を借りに行ってたけれど……」
「ありがとうございます!」
何度か頭を下げてから、急いで駆けていく。
やがて。お守りの匂いが強くなることに気付いた。すえた柿の匂い。
見えてきたのは、湯屋の浴衣を着た痩せっぽっちの男性と女性が見えてきた。そして愕然とする。
……ふたり揃って貧乏なんだろう。どちらからもすえた柿の匂いがする。
「……見つけた。南陵さん!!」
私が背中に声をかけると、痩せっぽっちのひとがビクッと背中を跳ねさせると、男性……おそらくは広野さんの袖を引っ張ると、ふたりで走りはじめる。
……まずい。ふたりとも逃げる。
私は先生からもらった和紙を引っ張り出すと、自分の徳に指を突っ込んで文字を書く……桜色の墨汁は、目がちりちりしてなかなか見づらいけれど、なんとか先生に習ったとおりに書けたと思う……と、折りたたんで鶴にし、それを飛ばした。
「お願い、逃げないで……!」
「……やめてください。私たちのことは、放っておいて……!」
浴衣から見えるうなじといい、こちらに振り返ったときの鎖骨といい、力を込めて掴んだらぽきんと折れそうなほどに儚いひとだけれど、それでも涙を溜めた目で睨む目つきは、驚くほどに綺麗な人だった。
まともな髪結いを雇うお金もなかったのだろう、結髪は少しほつれてしまっていたけれど、それが返って彼女に儚げな色香を与えていた。
私は必死に訴える。
「南陵さん、あなた……自分もほとんど食べてないのに、広野さんの指名料ずっと支払い続けてましたよね?」
私がそう言う。
……遊女は自分の好きな相手と会いたいと思っても、見世の時間を自由に動ける訳がない。そんな場合、自分に付ける形で自分の分の指名料を支払い、そのまま恋人を呼んで一夜を共にすることがあった。
それが原因で借金がかさみ、身を崩したひとの看病は何度もしたことがある。中には遊女を弄んで、お金を出させるだけ出させてお金が支払えなくなったらさっさと他の見世に移ってしまった人でなしだっていた。
南陵さんの徳が積まれず、死神が動いたのだって。彼女が恋焦がれた結果自分の積んだ徳を崩して、広野さんに注ぎ込んでしまったの原因だろう。
見ている限り、広野さんだってお世辞にも徳があるとは言い難い。ひょろひょろに痩せたひとだから。
恋焦がれたひとには「やめておけ」なんて理性的な言葉は絶対に通用しない。だから。
「……心中なさるおつもりですか?」
「……そうです」
看取ることしか、できない。
南陵さんは広野さんの袖を掴んで泣いていたし、広野さんも彼女を抱き返していた。
「……吉原で、裏切られました……愛していると言っていたのに、一緒に心中してくれるって言ったのに……あの方は来てくれなかった……もうどっちでもよくなり、身を投げたら……裏吉原に連れて行かれて、そのまんままた遊郭に閉じ込められました」
「それは……」
「死ぬこともできない。でも徳を積んで裏吉原から出ないと、いずれは神の慰み者になる……どうして死んでまで、苦しい思いをしなければならないんですか。吉原は苦界だったけれど、ここだってなんら変わりはない……広野さんと出会えたのは奇跡だったんです……」
そう言いながら彼女は広野さんにすりついた。
広野さんは不器用に彼女の腰に腕を回して、こちらを見た。
困った顔でも、諦めた顔でもない。決意を秘めた顔だった。
「裏吉原に流れてきて、やっと身を立てる術を得ました。このまんませっせと徳を積み、裏吉原で一旗揚げようとしたところで、彼女に出会いました……弄ばれたんでしょう、彼女は自暴自棄になっているのを見ていたらいたたまれなくなって、毎晩毎晩通いました。目を離すと、彼女がどこかに行ってしまいそうな気がして」
どうも、広野さんは私や先生と同じ人間みたいだ。あやかしや神は意外と乾いていて、遊郭で働いているひとに対してここまで同情を寄せることも、ましてや本当に恋に落ちることもない。
恋に焦がれたひとたちを止める術を、私は持っていない。
「……徳が尽きたら死神に連れて行かれます。自分は人間で、彼女は幽霊で……このままだと、もう二度と会えません」
「どうせなら、ふたりで徳を使い果たして果てようと誓いました。それならば、一緒に逝けるから」
「それは……」
前に言われた、徳がなくなったら、ひとはひとと思わなくなるという話。
それってつまり。
存在自体が裏吉原から消えてしまうということだ。
私は拾われた瞬間にすぐ先生の保護下に入ったおかげで助かったけれど、そうじゃないひとたちは死に物狂いで……ううん、既に死んでいるひとたちだっている……徳を積まなかったら存在が消えてしまう。
私はもう、ふたりを止めることはできない。
「……お願いです、もう見逃してください」
「……私はおふたりのことが見えません。見えないから、あなた方が言ったことも聞こえていませんし、知りません。どうぞ……最後まで一緒にいられますように」
私はとうとう観念して、背中を向けてしまった。
きっと先生に怒られるし、不明門くんにも叱られるし、帷子さんにも呆れられる。
ただ、このふたりを引き離すのはあまりに可哀想だと思ってしまった。
最後に私は女中さんに声をかけた。女中さんはぱっと顔を上げる。
「捜し猫はいらっしゃいましたか?」
「いえ……見つかりませんでした」
「そうですか……どこかで焼けてないといいんですけれど」
怖いこと言わないで。私は苦い思いが込み上げてくるのを飲み込みながらも、湯屋の門へと向かった。
私が湯屋を出たところで、こちらに走って来る着流し姿が見えた……先生だ。まだ不明門くんはこちらに来ていないらしい。
先生の顔を見た瞬間、私の顔は歪んだ。
「先生……」
とうとう決壊して、わんわんと泣きだしてしまう。それに先生は心底呆れたような声を上げた。
「だから言ったんだ。お前さんたちにはまだ早いって。心中を止める手立てもなく、そのまんま死神に突き出すなんてできっこないってさあ」
「……先生は、わかってたんですか? おふたりの話を聞いてましたけれど、どちらもどうにもならなそうでした……」
「そうだね。だから感情もなく、さっさとふたりを死神に突き出すのが正解だったはずさ」
「……先生は、平気なんですか?」
「そうだねえ……」
先生は私が泣き出すのに背中を向けながら、懐から煙管を取り出すと、火を付けてふかしはじめた。
くゆる紫煙が、今は心を落ち着けた。
「表も裏も、好き好んで遊郭に入るのは物好きのすることさね。皆が皆、御陵みたいなもの好きではないからね。そっちは同情するよ。でもねえ」
先生は淡々としている。
ぱさぱさと乾いた物言いをしているけれど、そもそも情がない人が私を拾って弟子にしない。
「……その女の気持ちにかこつけて、ただ飯食ってただで遊郭楽しんだ挙句におっしぬって奴に、どうして同情できるんだ。情けないにも程があるよ」
「それは……でも、徳が……」
「徳も積めねえ奴が、女に入れ込んで破滅する。それは表でも裏でも情けないって話で通ってるさ。遊女と男の心中はすぐに美談にされるがね、あたしはああいう話は大っ嫌いだよ」
先生は本当に嫌いらしく、ばっさりと切り捨ててしまった。
そこに私は、少しだけほっとした。
「そうですか」
「お前さんも変な子だね。そこで喜ぶのかい」
「いえ……死神に連れて行かれるのと、ふたりで仲良く消えるのと、どちらがよかったのか、私にもわからなかったんで……」
「まあ、帷子は面目を潰されたと怒るだろうけれど、それだけのことさ。嫌味も言われるだろうから、そこは聞き流しておきな」
「……わかりました」
しこりが残る。
あのふたりが助かる一番の道は、徳を積んでさっさと裏吉原から逃げ出すこと。それだけだったはずなのに。
せめてふたりが最後の瞬間まで、幸せであったと祈っている。




