《2》
閑静な住宅街を抜けて啓兄の家の門戸を叩いた私を、啓兄ママーー葉月さんが和やかに迎えてくれた。
「わざわざありがとうね。寒かったでしょ?」
「危うく凍え死ぬところでした。あっためてください」
「あら、それは大変ね。早くいらっしゃい」
試しに両腕を伸ばしてハグをねだってみたら、自然な流れでぎゅっとしてくれた。あ、すごいこれ。柔らかいしあったかい。なんかいい匂いする。ままぁ……。
……なんてじゃれ合いもほどほどにして。
葉月さんはうちの母さんと年齢は変わらないはずなのに、相変わらずとっても若々しい見た目をしている。目元のあたりが啓兄にそっくりで、二人で並んでるとよく姉弟と間違われるのだと、苦々しい表情で啓兄が語っていた。
夕飯の準備をしていたのか、葉月さんはエプロン姿だった。胸元にプリントされたピンク色の大きなハートマークに目を惹かれる。
新婚さんもかくやといったファッションセンスである。ちなみに普段着も大体こんな感じ。多分、心の若さが外見に出てるんだろうなって。
思春期を迎えたあたりから啓兄が断固として一緒に出掛けてくれないのが悩みらしい。
葉月さんとのじゃれ合いを一頻り堪能してから、私は階段を上がって啓兄の部屋へと向かった。
今日のお夕飯はハンバーグなんだと、葉月さんは言っていた。ハンバーグは啓兄の大好物だ。きっと、落ち込んでいる啓兄を励ます意図があるのだろう。
表面上は普段と変わらない風に振る舞っていたけど、内心では啓兄のことが心配で仕方ないのだと思う。
それでも葉月さんは、もし私が啓兄を説得できなくてもあとで啓兄パパに頼んで対応してもらうつもりだから、あまり気負わなくていいと言い含めてくれた。
葉月さんの優しさに報いるためにも、是非とも啓兄を説得する所存である。
決意を新たにして、啓兄の部屋の前に立つ。
勝算はある。左手に下げたビニール袋には、途中でコンビニに立ち寄って購入した温かい缶コーヒーとシュークリームが二つずつ入っていた。
名付けて、甘味で懐柔作戦。過去に数度落ち込んだ啓兄を立ち直らせた実績のある、由緒正しい戦術である。夕飯前に甘味がどうとかは言わない約束だ。
そもそも思春期男子が抱える大抵の悩みなんて、美味しいものを食べてお風呂に入って一晩ぐっすり眠れば大体すっきりするものなのだ。私が言うのだから間違いない。
丸一日何も口にしていない空きっ腹の啓兄相手なら効果は倍増の見込みあり。加えて美少女の奢りとなれば、さらに効果は倍増しってわけ。完璧なロジカルである。敗北を知りたい。
「おーい、啓にいー。可愛い後輩がきたよー。入っていいー?」
部屋の扉をノックしつつ、中に居る啓兄へと呼び掛ける。
だけど、少し待っても反応がない。外出していたら葉月さんが気付くはずなので、不在ということはないはずだ。居留守を使うような性格でもないし、もしかしたら眠っているのかもしれない。
「啓にいー、なんで引きこもってるのかは知らないけどさー。どうせ雪姉となんかあったんでしょー? 話聞くから、中に入れてよー」
さっきより、少し強めにノックしてみる。するとゴソリと、部屋の中から物音がした。反応あり。多分起きている。
だけど、反応はそれっきりだった。待てど暮らせど啓兄の部屋の扉が開く様子はない。いつもなら、遅くてもこの辺りで部屋に入れてもらえるはずなのに。
思ってたより重症かもしれない。ここへきて、私は今回のカウンセリングに対する警戒レベルを引き上げる。
とにもかくにも、このままじゃ埒が明きそうにない。
痺れを切らした私は、啓兄の許可を待たずに部屋へ突入することにした。
どうせこの部屋の扉、元から鍵なんて付いていないのだ。
普段は啓兄のプライバシーを考慮して勝手に入るなんてことはしないけど、今は非常時だし、葉月さんの御墨付きもある。
「啓兄、入るよ?」
ドアノブを捻り、力を込める。扉は特に抵抗もなく押し開かれて、私を部屋の中へと誘った。
室内は暗闇に覆われていた。照明は消灯状態。窓から差し込むはずの月明かりさえピッタリと閉められたカーテンに遮断されている。照明点灯用の赤外線リモコンが何処かにあるはずだけど、定位置の壁掛けホルダーの中には入っていないようだった。
とはいえ、啓兄の部屋には何度も訪れたことのある私だ。勝手知ってるなんとやら。部屋の間取りは頭の中に入っている。
廊下側から差し込む僅かな光があれば、室内の様子を窺うには十分だった。
「……ちょっと、こんな暗い部屋でナニやってんのさ」
壁際に配置されたベッドの上に啓兄は居た。
部屋の壁に背中を預けて、身体を丸めるようにして座り込んでいる。声をかけてみるけど、やっぱり反応はない。
俯いたまま、部屋に入ってきた私には見向きもしてくれない。
「ね、ねえ、啓兄。私、シュークリーム買ってきたんだ。駅前のコンビニに新作が売っててさ。一緒に食べてみようよ」
反応は、ない。胸がざわつく。
こんなこと、今までになかった。
いつもなら、どんなに機嫌が悪くても私の軽口に反応を示してくれてたはずなのに。
『喧しい奴が来た』とか憎まれ口を叩かれたことはあっても、無視されたことなんてなかったのに。
これはもう落ち込んでるとか、そういうレベルの状態じゃない気がする。
尋常ではない啓兄の様子に気圧されて、次の言葉が出てこない。それでも何か会話の糸口はないかと意識を巡らせた時だった。
ふと、蹲る啓兄の手元で何かが光っているのに気付く。
チカチカと強弱をつけて啓兄の顔を照らしている光源は、多分スマホのそれ。動画か何かが再生されてるっぽい。
そういえば、部屋に踏み込んでからずっと、何か変な音が聞こえていた気がする。あまり大きな音量ではないけど、啓兄の手元から流れてくるこの音は……人の声?
ううん、それだけじゃない。
断続的に響く肉感的な弾力のある何かぶつかり合う音。
合わせて聞こえる艶かしい水音と、愛欲に濡れた悩ましい吐息。
そして、一際鮮烈に耳朶を打つ、劣情を誘う女の人の上擦った嬌声。
ふむ。これは、えっと。
…………。
……もしかして、えっちな動画みていらっしゃる?
「っ……!?」
咄嗟に後ろ手で扉を閉めたのは、多分男の子だった頃の防衛本能が働いたせい。物音に反応して条件反射でPCモニターの電源を切ったりするあれである。
バタンッと思いのほか大きな音が鳴り、室内はまっ暗闇に閉ざされる。
音に気付いた葉月さんが心配して様子を見にきたらどう説明しよう。
なんて、どうして私がそんなこと気にしなくちゃいけないのか。
とっても遺憾である。
バクバクする心臓を押さえながら、恨みがましく啓兄に視線を向けるけど、当人は何処吹く風といった様子。
相変わらず身動ぎもせず俯いたまま……この人さっきからずっと動画を見てたのか。えっちな動画を。
いやまあ、啓兄だって健全な男子高校生だ。えっちな気分になることもあるでしょうよ。そういう動画が必要な場合があるのは理解できる。
でも今じゃなくない? 私いるよ? 人前で見るものじゃないよね、それ。
一度意識してしまうと、もうダメだ。嫌でも艶っぽい声が耳に付いてしまい、居たたまれない気持ちになる。心なしか顔も熱い。
本当に、わけが分からなかった。啓兄は雪姉のことで落ち込んでるんじゃなかったのか。確かに本人に直接確認したわけではないけど、凄く落ち込んでいるようだったから絶対そうだと思っていた。でも、それじゃあえっちな動画をガン見してる現状に結び付かない。
そもそも雪姉絡みじゃなかったとしても、何をどうすれば飲まず食わずで部屋に引き込もって暗闇の中でえっちな動画を眺めるシチュエーションが形成されるのかが理解できない。
なんだか、肩透かしを食らった気分だ。
様子がおかしいことには違いないけど、えっちな動画を見る元気があるなら案外簡単に立ち直ってくれるかもしれない。なんならもう元気なのでは? ナニがとは言わないけども。
「……ねえ、啓兄ってば。いい加減こっち見てよ。こっちは啓兄が落ち込んでるって言うから、心配して来たんですけど。先輩想いの可愛い後輩に何か言うことがあるんじゃないの?」
案の定、反応はなし。知ってた。このえろ兄め。
……そんなに夢中になるほど、えっちな内容なんだろうか。
ちょっとだけ余裕の出来た心の隙間に、好奇心が顔を出す。
だってしょうがないじゃん。人の性癖を盗み見る趣味はないけれど、そんな食い入るように凝視されたらどんな内容なのか気になっちゃうのが人の性。
暗闇の中を躓かないように移動して、ベッドへとよじ登る。
そのままシーツの上ですすっと膝を滑らせると、啓兄の隣に身体を寄せた。肩と肩がピタリとくっつく。
ここまで近付くと、行為中の男女の掛け合いまで正確に聞き取れてしまう。
どこが気持ちいいとか。カレシとどっちがいいんだとか。
あっ、浮気モノですか。啓兄けっこうアブノーマルな趣味をお持ちなんですね、なんて余計な勘繰りを浮かべながら、啓兄の手元を覗き込んで。
スマホの液晶ディスプレイに映し出されていたのは、一糸纏わぬ姿で絡みあう一組の男女だった。
ホテルの室内だろうか。やたら大きいベッドの上で四つん這いになった長髪の女性と、その後ろから覆い被さる男性。
二人とも、高校生くらいに見える。
遊び慣れていそうなチャラい風体の少年に対して、少女の方は大和撫子なんて言葉が似合う可憐で、大人しそうな……間違っても、こんな動画に映るには、絶対に相応しくない人で。
ひゅっ、と。おかしな音がした。
それが自分が喉で鳴らしたものだと知覚した直後、筆舌しがたい悪寒が全身を駆け巡った。
血の気が引く。皮膚が泡立つ。
そんな言葉じゃ足りないくらい、気持ちが悪い。気を抜くと倒れてしまいそうな、暴力的な眩暈を感じる。
それは恐らく、視覚から入った情報に対する、脳が起こした拒否反応。だって、あまりにも非現実的で、馬鹿馬鹿しい内容だったから。
そう。こんなの、現実であるはずがないんだ。何かの間違いに決まっている。
それなのに。
軽薄に嗤う少年に組み敷かれて嬌声を上げる少女の姿が、私のよく知る人物と重なるのは何故だろう。尊敬する幼馴染みのお姉さんが、啓兄の恋人が、脳裏に浮かぶのは何故だろう。
私が何か間違う度に、優しい言葉で嗜めてくれた彼女が。
媚びた言葉で男を煽り、貪欲に快楽を求める彼女が。
運動が苦手で、誰かが連れ出さないと本ばかり読んでいるような大人しい彼女が。
少年のペースに合わせて身体を激しく揺らし、淫靡な汗を散らせる彼女が。
啓兄とのファーストキスを、恥ずかしそうに報告してくれた彼女が。
蕩けた表情で男の頬に手を添えて、深い口付けをねだる彼女が。
同じ人物に見えて仕方ないのは、何故なんだろう。
分からない。分かりたくない。
認めちゃだめなのに。認めてしまったら、大切な何かが壊れてしまうってわかってるのに。
一方で、私の冷静な部分が、無慈悲な現実を突き付けてくる。
だって、ずっと一緒に居たのだ。私が彼女を……雪姉を、見間違えるなんて、あるはずない。
「何やってんのさ……雪姉」
返ってくるはずのない問い掛けが、部屋の暗闇の中に消えていく。
啓兄の隣。私はただ呆然と、見知らぬ男と交わる雪姉の姿を眺めることしかできなかった。