《3》
手探りで見つけた照明用のリモコンを拾いあげて操作すると、瞬く間に暖色の明かりが部屋に満ちた。
急な明るさが目に染みて、思わず目を細める。
照らし出された啓兄の部屋に、特別いつもと変わったところはない。
中古で買ったテレビに繋がれた最新の家庭用ゲーム機。
壁に貼られた海外のバスケット選手のポスター。
枕元に放置された読み掛けのマンガ雑誌。
ところどころに啓兄の趣味が散りばめられた男の子の部屋って感じの雰囲気が妙に居心地が良くて、私は好きだった。
ふと、勉強机の上に置かれた写真立てが目に留まる。
私と啓兄と雪姉。三人が映った写真が飾られていた。
今年の春先。中学卒業を控えた私を、二人が卒業旅行に連れていってくれた時のものだ。
写真の中の私たちは笑顔だった。楽しい旅行だった。
素敵な思い出になったはずだった。
なのに、今は色褪せて見える。
雪姉の裏切りを収めた動画は、私が呆然としている間に再生を終えていた。
全体で五分にも満たない短い動画だったけど、内容はほとんど覚えていない。
脳が記憶するのを拒否したのか。或いはショックで意識が飛んでいたのか。別にどっちでもいい。
どの道、もう一度再生する気にはなれなかった。
悲しみ、困惑、怒り、失望。
お腹の中ではどろどろと暗い感情が渦巻いている。
酷い悪夢を見た気分だ。今すぐにでも全て忘れて、なかったことにしてしまいたい。
現実から目を背けて、全部勘違いだったことにして、明日からも今まで通り三人で笑い合えたら、どんなに楽なことだろう。
……本当は、雪姉を信じたい。
だって私の知ってる雪姉は、間違ってもあんなことをする人じゃないから。
何かやむを得ない事情があったんじゃないかって。
脅されて、不本意に行為を強制されていたんじゃないかって。
もしそうなら、事情を話してほしい。雪姉の助けになりたい。
それはきっと、啓兄も同じ気持ちだったはず。
だけど。
無理矢理犯されている人が、あんな恍惚とした表情をするだろうか。
どう見繕ったって、動画の中の雪姉は行為に対して積極的だった。自ら進んで、啓兄以外の男に身体を差し出していた。
わからない。
雪姉のことが、わからない。
考えれば考えるほど、深みに嵌まっていく感覚。
ああ、本当に、全部夢だったらよかったのに。
アレが私の悪夢なら、啓兄が傷付くことはなかった。
啓兄は相変わらず、ベッドの上で膝を抱えていた。
さっきまでは暗くてよく見えなかったけど、酷い顔をしている。
きっと、涙が枯れるまで泣き明かしたのだろう。赤く腫れ上がった目蓋があまりに痛々しくて、胸が苦しい。
啓兄はいつだって、雪姉に対して真剣だった。
雪姉に喜んで貰えるようにデートのプランニングに毎回頭を捻っていた。成績のいい雪姉と同じ大学を志望するために、部活で忙しい中でも勉強だって怠っていなかった。
他の女の子に目移りすることなんて、一度だってなかった。
その一途な背中を、私はずっと見てきた。
啓兄の頑張りを、知っているから。
だからこそ、かける言葉が見つからない。
献身的に積み上げてきた愛情の全てを、残酷な形で裏切られた彼が負った心の傷の深さを想像できるから。
深すぎる傷の痛みを和らげる言葉を、私は知らない。その事が、酷くもどかしい。
少なくとも、『元気出して』なんて月並みな言葉が、慰めにすらならないことは理解できた。
励ましの言葉は見付からない。だからと言って、啓兄をこのまま一人きりにしておくことはできなかった。
私は何度も啓兄にかける言葉を絞りだそうとして、口ごもって。結局何も言わないまま、再び啓兄の隣へと腰を落ち着ける。
黙って隣に寄り添うこと。
それが今の私にできる精一杯だった。
静寂の中。
カチコチと、置時計が秒針を刻む音が、何回目かの周回を始めようとした頃。
「……昨日の夜、雪乃から電話があったんだ」
啓兄の声だった。
隣に目を向ける。澱んだ水底のような暗さを湛えた瞳は、遠い誰かの姿を追うように、空中を捉えていた。
「いきなり別れたいって言われて、俺、意味分かんなくてさ。とにかく会って話をしなくちゃって思って、雪乃の家に行ったんだ。そしたらあいつ、他に好きな人ができたから、もう終わりにしようって」
訥々と続けられる啓兄の言葉に、黙って耳を傾ける。
心の泥を吐き出すように、啓兄の語気は徐々に強くなっていく。
「納得できなかった。出来るわけねぇだろ。信頼してたんだよ、あいつのこと。
ガキの頃から一緒にいて、雪乃のこと分かってるつもりだった。
あいつも俺と同じ気持ちで居てくれてるって、信じてた……!
好きで居てもらえるように、俺なりにやってきたつもりだった……ッ!
それが、他に好きな人ができたとか、そんな一言で片付けられて、納得できるわけねぇだろ……! だけど……ッ!」
雪姉に喰い下がった啓兄に突き付けられたのは、例のあの動画だった。
画面越しに知った最愛の恋人の裏切りは、啓兄を打ちのめすには過剰とも言える衝撃をもたらした。
その後のことはよく覚えていないのだと、震える声で啓兄は言った。頭が真っ白になって。気付いたら、自分の部屋に戻っていたらしい。
そして、何もかもを拒絶するように、暗い部屋の中へと閉じ籠った。
「なあ、俺の何が悪かったのかな……?」
つぅ、と。啓兄の頬に涙が伝った。
怒ったはずだ。悔しかったはずだ。悲しかったはすだ。
私が感じたそれ以上の悪感情が心の中で、嵐のように荒れ狂って。
雪姉を責めて、浮気相手の男を責めて。そして、自分を責めた。
真っ先に怒りの矛先を向けるべき相手のいない一人きりの部屋で。
自罰感情で自尊心を磨り減らして。
泣いて、泣いて、泣いて。
現状を否定したくて、また動画を見て。
変わらない理不尽に再び打ちのめされて。
寒い部屋の中で、食事も喉を通らないほどに傷付いたまま、一日中泣き明かした。
「一緒に居て重かったのか? 退屈だったのか? それとも無神経なこと言ってあいつのこと傷付けてーー」
「啓兄は悪くない……ッ!」
もう聞いていられなかった。胸元に啓兄の頭を引き寄せ、ぎゅっと抱え込むようにして、強く抱きしめる。
服越しに触れた啓兄の身体は冷えきっていた。嗚咽を漏らし、小さく震える姿はあまりにも弱々しい。
こんな啓兄、見たくなかった。
涙が溢れてくる。
幼馴染の親友がこんなにも苦しんでいる時にすぐに駆け付けてあげられなかったことが、悔しくて、悲しくて堪らない。
「啓兄は何も悪くないッ! 啓兄はいつも真剣に雪姉と向き合ってた! 雪姉のこと、ちゃんと考えてた! 私、知ってるから……ッ! 啓兄が頑張ってたこと、知ってるから……!」
感情のままに言葉を紡ぐ。
どうして啓兄がここまで傷付かなければいけないのか。
裏切ったのは、雪姉の方なのに。
こんなの、あまりにも理不尽じゃないか。
「だから、もう自分を責めないでよぉ……」
一際強く啓兄を抱きしめる。
こんな言葉で傷付いた心を癒せるとは思っていない。
だけど、何も言わなければ啓兄が遠くへ行ってしまうような気がして、すがり付いて、懇願した。
二人分の嗚咽が、静かな部屋に響く。
どれくらい、そうしていたのだろう。
いつの間にか、胸元から聞こえていた泣き声が、穏やかな寝息へと変わっていた。
眠ってしまったらしい。
起こさないように気をつけながら啓兄をベッドへと横たえて、布団を被せる。
私のか細い腕で男の人の身体を動かすのは重労働で、途中少しだけ力任せにやってしまったけど、啓兄の眠りは深かった。
昨日からまともに寝ていなかったのかもしれない。疲れた寝顔だった。
ベッドの端に腰掛け、啓兄のスマホを手に取る。
「ごめん、啓兄」
謝って、中身を覗き見させてもらった。
……認証コードは、雪姉の誕生日。
澱みなく指を動かして四桁の数字を打ち込み、認証コードを解除する。
開いたのは雪姉とのLINEのトーク画面。
昨日の履歴には、別れ話を切り出された後だったのだろうか、文面から混乱が見て取れる啓兄のメッセージや通話を試みた痕跡、そして雪姉から送信された例の動画が残されている。
雪姉から一方的に別れを切り出したのは明白だった。
画面を閉じて、スマホは枕元へと返しておく。
立ち上がり、部屋から出ようとして、買ってきたお菓子とコーヒーの入った袋がベッド下に放置されていることに気づく。
温かったコーヒーはもうすっかりぬるくなってしまっていた。
私は少し考えて、ビニール袋ごとスマホと一緒に枕元へ置いていくことにした。一眠りしたら食欲もわくかもしれないし、この寒さならすぐに傷むこともないと思う。
部屋を出て、葉月さんの元へと向かう。
階段を下りる途中、食欲をそそるいい匂いが鼻孔を擽った。
ハンバーグの匂いだ。
「柚ちゃん、啓介は?」
「……眠ってます。啓兄、疲れてるみたいで」
ダイニングで出迎えてくれた葉月さんと顔を合わせることに気まずさを感じて、視線を彷徨わせる。
テーブルの上には、美味しそうな夕食が三人分並べられていた。他のお皿の物に比べて大きめに盛られたハンバーグは、多分啓兄のために作られたもの。
だけど、今の啓兄が食卓を囲むことは、きっと難しい。
罪悪感が、チクりと胸を刺した。
啓兄のことを心配してる家族に、私は本当のことを話せない。
話せるはずがない。
雪姉が浮気したなんて話、第三者の口からは、とても。
「ごめんなさい。説得は、できませんでした。啓兄には、多分、時間が必要なんだと思います……」
後ろめたさを誤魔化すように頭を下げた私に、葉月さんは深く事情を聞かなかった。挙動不審気味な私を見て、何か察したのかもしれない。
葉月さんに見送られて、啓兄の家を後にする。
時刻はもう21時を大きく過ぎていた。軽く立ち寄る程度のつもりだったのに、随分長居してしまったみたいだ。
家を出る時に「もう遅いから、気をつけて帰ってね?」と、葉月さんには言い含められた。
だけど。
まだ帰れない。
スマホを取り出して、電話をかける。
遅い時間にも関わらず、大して呼び出し音を挟まずに、鈴を転がすような声が聞こえた。まるで私から連絡が来るのを読まれていたようで、居心地の悪さを感じる。
「雪姉、会って話がしたい。いますぐに」
平淡な声音で差し向けた私の要求。
もう一人の幼馴染は、理由を聞くこともせず、ただ一言「いいよ」と応えた。
遅筆で申し訳ありませんわ。




