望まぬ思い
炎嘉は、焔の客間の戸の前で言った。
「焔?寝ておるか、入るぞ。」
返事はない。
月の宮では、侍女は呼ばねば来ないので、炎嘉がそんなことを戸の前で言っていても、誰も出ては来なかった。それをいいことに、勝手に中へと入って行くと、居間を見回した…焔が、起きている「気」がするのだ。
すると、奥からだるそうに焔が出て来た。
「何ぞ?もう普通なら寝ておる時間であろう。無粋であるぞ、炎嘉。」
炎嘉は、お構いなしに焔に言った。
「寝ておらなんだのは知っておる。座れ。話があるのだ。」
焔は、抗議の視線を炎嘉に向けた。
「明日にせよ。我は女がどうのという話は聞かぬぞ。」
炎嘉は、首を振った。
「違う。とにかく、座れ。」
焔は、押し切られて仕方がなく椅子へと座った。だが、横を向いている。こうして自分の感情が素直に出るのは、今生まだ焔が若い証拠だなと炎嘉は思っていた。
「同族のよしみで、我には主の心情がよう分かる。主とてそうであろうが。我が己を偽っておっても、気取るであろう?」
焔は、恨めしげに炎嘉を見た。
「同族とて、主は今龍ではないか。」
炎嘉は、首を振った。
「中身は鳥。わかっておろう…我は中途半端なのだ。」
焔は、複雑な顔をした。確かに、炎嘉は龍ではない。どう見ても、鳥なのだ。気の色も青くはなく赤い。華やかで派手やかな様も、鳥の象徴である王族のもの。本性さえ見せなければ、これぞ鳥、といった風情なのだ。
「…そんな転生の仕方を選んだからではないのか。」
炎嘉は、それにはため息をついて頷いた。
「早よう現世へと急いでしもうて。それからのことは深く考えておらなんだ。思えば我は、鳥でしかないのに龍身など持ってしもうては、あまり役に立たぬのではと、後から思うたもの。もう遅いゆえ、これで何とかしておるがの。」
焔は、黙って頷いた。炎嘉の、視線が痛い。こうして話している間も、炎嘉の視線は容赦なく自分を見つめている。炎嘉には、自分の心情の奥深くまで見破られるような気がして、落ち着かなかったのだ。それゆえに、宴の席にも長く居ることが出来なかった。
炎嘉は、それを気取っていたのだ。
「なので、我に隠し事が出来ると思うでないぞ?父の炎真には出来たのやもしれぬが、我には出来ぬ。」と、じっと焔の目を見た。「主…誰に懸想しておる。」
やはり、と、焔は息を飲んだ。炎嘉には気取られる。分かっていた…臣下達でさえ、何かあったのだと気取ってあれこれ聞いて来てうるさかったもの。それをこの、炎嘉相手に隠し通せるわけなどないのだ。
それでも、焔は炎嘉から視線を反らして首を振った。
「誰も。」
炎嘉は、険しい顔をした。
「嘘を言うでないわ。それほどに気が乱れるのは、ちょっと気に入ったレベルではないであろうが。主ほどの神に抑えるのが難しいほどの恋情を起こさせる女とは、いったい誰ぞ?このままでは、政務も乱れてせっかくに戻った神世で愚かな王だと言われてしまう。最初が肝心であるのに、主はつつがなく神世に戻りたいとは思わぬのか。今、その能力を示さずに、いつ示すのだ。全ての神が、主に注目しておるのだぞ。」
炎嘉の心配は、分かった。こんなところで躓くわけにはいかないのだ。自分が前世犯した愚かな行為を正すため、ここで鷲の地位をしっかりしたものにしなければならないことは、焔にも分かっていたのだ。
「…我だって、まさか自分がこんな風に思う時が来るなどと思いもしなかった。」焔は、力なく言った。「前世であれほどに妃が居ったのに、我は誰にもこのような感情を持ってはおらなんだのだと、やっと気付いた。維心や主が持っておるのは、これと同じ感情なのだろうと…。」
炎嘉は、はーっとため息をついて、頷いた。
「ああ、我と同じよな。我だって、本気で愛したことがなかったし、それがこれほどに辛いものだと思わずでな。だが、そのうちに己の心の持って行き場を見つけて、今は維心の妃であっても落ち着いておるのだ。」と、笑った。「ま、我が維月に懸想したからこんなことになっておるのであって、主はそんなに悩まずとも良いではないか。誰かの妃でも見初めたか?我が、娶れるように根回ししてやろうか。案じずとも、龍王妃でなければどこの妃でも奪い取れるわ。」
焔は、じっと下を向いて炎嘉を見ない。炎嘉は、さすがに戸惑ったような顔をした。
「…焔?どうした、今より略奪の世が色濃かった昔に生きておったのに、主はそんなことは好まぬか。大丈夫ぞ、我が良いようにしてやるゆえ。」
焔は、炎嘉が懸命に自分のためと言ってくれているのに、ついに折れた。そうして、絶望的な気持ちで、炎嘉を見た。
「炎嘉…それは叶わぬ。我が悪いのだ。過去など、見るのではなかったと、戻った時に後悔したが遅かった。もはや維心の顔すら、我にはまともに見ることなど出来ぬ。」
炎嘉は、目を見開いた。そして、矢継ぎ早に叫んだ。
「そのような!主は好みではないと…はっきり言い切っておったではないか!真正面で顔を見て話したのであろうが!」
焔は、頷いた。
「その通りよ。ただの気の強いお転婆な娘であるかと思うておった。それが…」焔は、がっくりと肩を落とすと、片手で自分の頭を支えた。「あれほどに清々しく、潔い女であったとは。あんな女は見たことがないと、夢中になって過去を追っておるうちに、気が付くと、あの気を求めて探っておる己が居て…。ただ、なぜに主や維心があれほどに愛しているのか、その理由を知りたいと思うただけだったのに。」
自分達の、せいか。
炎嘉は、焔の前で維心と戯れにせよ維月を争って言い合っている様など、見せるべきではなかったと後悔した。それを見て、焔が疑問を持ってもおかしくはない。龍王であるあの美しく優秀な維心が、たった一人と抱え込む維月を、なぜにそうなったのかと。
「そうか、主もか。」炎嘉は、焔の肩に手を置いた。「忘れよとは言わぬ。無理だと我には分かっておるからだ。だが、我の心境まで来るのは長い…長い、つらい道よ。それを抜けることが出来ぬ時、主は選択するだろう。維心から奪って殺されるか、己で命を絶つか。だが、無事に抜けることが出来た時、主は自分なりの立ち位置を見つける。我は、ここまで来るように祈っておるぞ。」
焔は、力なく笑った。
「忘れて、他の女を選ぶという選択肢はないのか。」
炎嘉は、苦笑して首を振った。
「無理よ。出来たら主は初めての快挙であるぞ?やってみよ。そうして我らより、己の方が強いのだと証明して見せよ。我は、それが出来たなら主を羨ましく思う。」
炎嘉も、通った道なのだ。
焔は、それを悟った。恐らく、親友の妃を想うことなど出来ないと、それは葛藤したことだろう。だが、無理だったのだ。決して奪うことなど出来ない、龍王妃。まして維月は、月の妃でもある。維心から奪ったとしても、月がそれを許さない限り、手にすることなど叶わないのだ。
焔は、炎嘉を見て、背筋を伸ばして椅子へと座り直した。
「…やってみようぞ。抗ってみせる。我は、幸いまだ維月と深く知り合っては居らぬ。交流をしてしもうたら、想いはもっと深くなるであろうて。だが、まだ入り口ぞ。我は、深入りしては逃げ場がないということを、今教えてもろうた。ならば、徹底的に己の意識から締め出して、ないものと思うよりない。少しでも姿を見て、側へ行きたいと願う気持ちに負けず、我はあれから離れておることにする。炎嘉よ、我に力を貸してくれ。例え垣間見でも、することがないように。」
炎嘉は、強く頷いた。
「力を貸そうぞ。維心が、主が同席する公の場に維月を連れて来ぬように、さりげなく仕向けて参る。主は、龍の宮にはあまり来ぬようにせよ。月の宮には…維月が居らぬ時に訪ねるが良い。」
焔は、決心したように強い調子で頷いた。そうだ、しっかりせねばならぬ。我は、この想いに抗ってみせようぞ。




