改心
炎嘉は、すっかり出来上がった状態で、蒼と共に客間へ向かう回廊を歩いていた。蒼は、上機嫌の炎嘉なので特に困ってはいなかったが、まだ飲むとか言われて客間へ寄るように言われたらどうしよう、と案じていた。出来れば、話し合いがどうだったのか寝る前に十六夜に聞いておきたい。
そんな蒼の気持ちを知ってか知らずか、炎嘉はぶらぶらと足取りも軽く回廊を先に歩いていた。
龍の宮の客間は、皆東の宮に集められている。蒼には自分の部屋が北東の宮にあったが、炎嘉にはいつも東の宮の、一番端にある貴賓室が割り当てられる。比較的下位の宮の王達は、同じ客間でも手前に位置する小分けになった部屋を割り当てられるのが常で、東の宮の入り口辺りはいつも、人通りが多かったが、奥へ行くほど少なかった。
炎嘉が無事に部屋へ収まるのを見届けなければならない蒼は、東の宮の入り口へと炎嘉と共に到着した。
「お、ここで良いぞ。」炎嘉は、そう言って微笑みながら蒼を振り返った。「主には自分の部屋があろう。北東であったよの?ここをあっちへ抜ければ早いゆえな。」
炎嘉は、回廊を左の方へ向かって指を差した。蒼は、首を振った。
「いえ、お酒をよく召してらっしゃいまするし。無事にお部屋へ入られるのを見届けないと。」
炎嘉は、笑って手を振った。
「あれぐらいなんでもないわ。酔うておると思うか?」と、炎嘉はすっと背筋を伸ばして立つと、真顔になった。「蒼、これぐらい見抜けねばならぬ。我は少しも酔ってなどない。これは他の宮の王達が、油断して何某か話さぬか見るためのもの。主も少しはこういったことを知って、己が引っ掛けられるのを警戒せねばならぬぞ。」
そう言う炎嘉は、いつもの炎嘉と全く変わらない。蒼は、呆然とした…長い付き合いだから、いくらなんでもそんなことぐらい見抜けると思っていたのに。
「その…分かりませんでした。オレは、危機意識が低いのですね。」
炎嘉は、頷いた。
「全くないの。そんなことでは、老獪な王には騙される。ま、まだ当分は何でも我か維心に相談することぞ。己で勝手に決めるには、主は素直過ぎるのだ。」
蒼がすっかりうなだれていると、炎嘉は蒼の肩をぽんと叩いた。
「こら。まだ我らに比べたら子供であるのだからの。何しろ、我らには前世の長い記憶もある。そのように落ち込むでないぞ。」
だが、蒼は落ち込んでいた。碧黎や大氣に子供と言われて反抗していたが、確かにまだ子供なのかもしれない。
すると、炎嘉が何かに気付いて振り返った。蒼は、吊られて顔を上げる。すると、そこには屋久と麻衣が歩いて来て、客間へ戻ろうとしているところだった。炎嘉と蒼に気付いた二人は、慌てて頭を下げる。炎嘉は、それを見て表情を引き締めると、二人に歩み寄った。
「ちょうど良かったことよ。屋久、主に話があっての。」
屋久は、驚いたように顔を上げた。
「は。我に、いったいなんでございましょうか。」
会合では何も言わなかったのに。
屋久が、そう思っているのは蒼にも分かった。麻衣が、気を遣って横から言った。
「では、その、我は先に。」
しかし、炎嘉は首を振った。
「良い。どうせ我は、告示しようと思うておったところであったのだ。主も告示前に聞いておくが良いわ。」と、屋久を見た。「主、我がかつて鳥の宮を治めた炎嘉と同じ神であるのは、知っておるの。」
屋久は、慌てて頷いた。
「はい。転生なさって、今は龍であられるが、元は鳥の王の、炎嘉様であられることは。」
炎嘉は、頷いた。
「それを知った上で、申しておかねばならぬのだ。主の宮に、帝矢の宮の春香が居るな。」
屋久は、目を丸くした。麻衣も、気遣わしげに屋久を見る。炎嘉が、春香を欲しいと言い出すのではないか、と危惧しているのだ。
何しろ、春香は格下の宮の娘とは思えないほどの気品に溢れた女神だったからだ。
屋久は、頭を下げるように視線を下へと向けた。
「は…我の、正妃でありまする。」
正妃だと、わざわざ言ったところに、蒼は屋久の意地を見た。ただの妃ではない、というささやかな抵抗なのだろう。炎嘉は、少し表情を緩めると、言った。
「ふうん。だがあまり大事にはしておらぬのではないか?」屋久がますます下を向く。炎嘉は、笑った。「ああ、別にそこを責めようと思うておるのではないわ。ただ、春香は我が血筋に繋がる娘。遥か昔、前世我の乳母だった女に父が生ませた妹が、密かに帝矢の祖父に嫁いでの。よう見てみよ…我と春香は似ておるであろう?」
屋久と麻衣は、びっくりして顔を上げると、まじまじと遠慮なく炎嘉の顔を見た。そうして、あ!という顔をすると、その後はただ呆然と、呆けたように炎嘉を見た。炎嘉は、苦笑した。
「こら、口が開いておるわ。」二人は、慌てて口を閉じてかしこまった。炎嘉は続けた。「だがしかし、あれは苦労させられておるのであろう。我とて妹の曾孫に当たる春香のこと、不幸にはさせたくないのでな。で、主は焔から支援を受けて、きちんと改心したのであろうの?」
屋久は、そこまで知られてしまっていることを恥じた。確かに、龍王妃に相談したのだから、龍王にも話しは耳に入っていて、炎嘉の耳にも入るだろう。
しかし、屋久は本当に考えを改めていた。焔に、その生き方を聞いたこともあったが、何よりも春香が、他の宮からの借用を返した後、自分の着物も仕立てさせずに、屋久の着物ばかり仕立てさせていたことにあった。
大変に質のいい反物の数々を、臣下達に下賜する反物に変えるために、全て近隣の宮へ出したのだと思っていた。だが、違った…春香は、可能な限りその、質良い反物を残し、屋久のためにと今でも溢れる着物であるのに、仕立てさせるように命じていたのだ。
王が、お出掛け先で恥ずかしい思いをされないように。
春香は、そう言ったのだと、筆頭重臣の戸砂に聞いた。では春香はと言うと、自分は出かけることがまず無いので何も要らない、父が持たせてくれた着物はまだ充分に着られるので、と笑ったそうだ。
節約をしながら育ったので、そんな贅沢には全く興味がないようだった。だが、春香は大変に気品高い女神なので、着飾れば上位の宮の妃達より、ずっと美しいと誰もが思っていた。
鳥の王族の血筋だったのだ。
屋久は、それを知って、なぜか納得した。粗末な着物を着て居ようとも、春香の気品は失われなかった。春香には、心の美しさもあるからなのだ、とやっと屋久は悟ったのだ。
なので、贅沢はやめた。春香が残していた反物などは、里帰りに持って行くようにと全て持たせた。
だた、出掛ける前に、春香はそっと立ち並ぶ厨子の一個だけを選んで、他は置いて行ったのだった。
「炎嘉殿。」屋久は、表情をひきしめ、姿勢を正して言った。「我は、間違っておりました。これよりは、春香にあのような苦労を掛けることなく、大切に過ごして参りたいと思うておりまする。我が宮のこと、見ておって頂きたい。」
炎嘉は、じっと屋久を見ていた。炎嘉の目には、酒の影響など、本人が言うように全くなかった。そうしてしばらく、炎嘉はふっと笑うと、頷いた。
「見ておこうぞ。不幸せにしよったら、帝矢に連れ戻すように申す。あれのこと、ようよう頼んだぞ、屋久。」
「は!」
屋久は、深々と頭を下げた。釣られて麻衣まで、横で頭を下げている。炎嘉は苦笑すると、言った。
「行って良いぞ。」
二人は、それを聞いて頭を上げると、蒼にも軽く会釈してそこを去って行った。蒼は、炎嘉を見た。
「これで、春香殿も安泰でしょうか。」
炎嘉は、呆れたようにちらと蒼を見た。
「それが素直だと言うのだ。すぐに信じよってからに。」蒼がバツが悪そうな顔をするのを見てから、炎嘉は続けた。「だが、まあ、今のところ嘘はないようぞ。気長に見てやるとするか。」
蒼は、頷いた。確かに、これから先は分からないが、今の時点では屋久を信じていいと炎嘉も判断したのだろう。
「では、炎嘉様。オレはこれで。」
炎嘉は、蒼に軽く手を上げた。
「おお、ではの。」
そうして、蒼が去るのを見てから、炎嘉は東の宮へと足を踏み入れた。
しかし、向かったのは自分に割り当てられた最上階一番奥の部屋ではなく、その下の部屋だった。
炎嘉には、まだ気がかりな事があったのだ…焔の、ことだった。




