王と軍神
目の前に、四角い門が開いて、蒼は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
自分もたった一度だけ、この前まで来たことがある…ここをくぐれば、黄泉。もうこちらへは戻っては来れない。
しかし、寿命のあるものが、この門をくぐることは出来なかった。手の先が、この中へと通らないのだ。
焔は、ほうっとため息をついた。
「覚えておる。張維がこれを開いて、炎真の弟の、炎夕を呼び出したのだ。」焔は、遠い目をした。「炎真と張維、蓮と我、それに箔志がその前に集って酒を飲んだ。炎夕は戦で命を落としての。張維と炎夕は友であったし。法要の夜、酒を酌み交わして、楽しかった。」と、視線を落とした。「だが…炎夕はこれ以上は来れぬと言うた。なぜなら、そこへ来るには気を著しく消耗するからだ。転生のためにも、力は使うなとあちらで言われたと言うておったの。我にはあまりそういったことは分からなかったが、落ち着いて別れを言えたのだから良かったと、最後の別れをしたの。」
維心は、父の張維から前世その話を聞いていた。なので、自分も死んだ炎嘉と話をしたくて、この門を開いて呼び出した。炎嘉は、しかしそんなことは言わなかった…頻繁には呼ぶなとは言ったが、いくら気を消耗しても、来てくれたのだ。
それが、炎嘉が維心を案じるがゆえのことであったのだと、維心にはわかった。
維心がちらと炎嘉を気遣わしげに見ると、炎嘉は悟って呆れたように手を振った。
「まぁた主は。何を考えておるのか分かるが、しかしもう済んだことぞ。そんなことより、早よう呼ばぬか。」
そして、門の方を向く。維心は、つくづく炎嘉には世話を掛けているのだと思いながらも、門の中へ向かって呼びかけた…父上、炎真殿や蓮殿、箔志殿は居られるか?ここへ共にお越し頂けないだろうか…。
維心が黙って念を送る間、残りの三人はじっと黙って見守っていた。
弦は、慌てて知らないままにコロシアムの会議場の回廊を飛んで、コロシアムの闘技場の方へと出ていた。
闇雲に飛んで、急に目の前が開けたので驚いていると、突然に軍神達の姿が目に飛び込んで来たのだ。
避けねば!
弦は、急いで気の膜を張ろうとした。しかし、それより先に別の気が横から飛んで来て、弦はそれに押し返されて訓練中の軍神達と衝突せずに済んだ。
ほっと息をついていると、いきなり義心の姿が目の前に現れた。
「何をしておる!ここで訓練をしておるのは知っておるだろうが!」
弦は、義心の姿を見て、先ほどの膜は義心が発したものだったのだと思った。膜の感じが、義心の気と同じだったからだ。弦は、慌てて頭を下げた。
「申し訳ない、義心殿。我が王の、お邪魔になってはと慌てて出て参ったゆえ…まさか、あの回廊がここへ直接抜けておるとは思わずに。」
義心は、それを聞いてしばらく弦を見つめていたが、ふっと肩で息をつくと、皆に言った。
「続けよ。嘉韻、我は抜ける。後は主が。」
嘉韻は、義心に軽く頭を下げると、皆に向き直って訓練に戻れ、と合図を送る。義心は、それを見てから弦を振り返って、言った。
「こちらへ。ここの休憩室があるのだ。少し、我と話さぬか?」
弦は、ためらった。しかし、王から離れた今、この勝手の分からぬ宮の中で、どこへ行ったらいいのかも分からない。
仕方なく義心について、また今出て来た出口から入り、別の方向へと回廊を歩き抜けて行った。
しばらく歩くと、何やら大きな部屋へと出た。そこには、たくさんのテーブルと椅子があり、寛げるような形に配置されてある。端の方には、飲み物を勝手に持って来るようになっているようで、グラスやカップが積み上げてあった。
義心は、そのグラスへと歩み寄ると、弦にグラスを勧めながら言った。
「ここでは飲み物は各々こうして入れるのだ。」と、変わった形の丸いタンクのような物を指した。「それがほうじ茶、こっちが緑茶、水、紅茶、コーヒー、これは果汁を絞った…人世でジュースと言われるもの。好きに選んで入れるが良い。」
そう言う義心は、冷たいコーヒーを入れて、それを持って行く。弦も、そのコーヒーがなんなのか皆目分からなかったが、とにかく同じものを入れておけば安心だろうとそれを入れ、慌てて義心を追った。
義心は、奥の窓際のテーブルへと歩み寄ると、椅子へと腰掛けた。弦も、ぎこちなくそこへ座る。こんな風に軍神と対面で座って、何かを話すのなど初めてだ…会合でもないのに。
すると、義心は手元のコーヒーを一口飲んだ。弦は、それを見て自分も飲まねばならぬかと、じっとその褐色の見たこともない飲み物を見ていたが、意を決して口へと運んだ。
「!」
弦は、その苦さに思わず吐き出した。義心は、それを見て笑った。
「弦殿…もしかして、コーヒーを飲むのは初めてか?」
弦は、口を懐紙で拭いながら怒ったように義心を睨みながら頷いた。
「こんなもの。見たこともなければ飲んだこともない。香りは良さそうに思うたのに、何ぞ、これは。」
義心は、笑ったまま答えた。
「人世の物ぞ。豆の一種を煎って削り、湯で濾すとこのようになるのだ。」と、立ち上がってまた先ほどの飲み物のテーブルへ行くと、水を入れて持って来た。「さ、これを。慣れぬと、コーヒーは不味いであろうの。我とて、最初に飲んだ時には驚いたもの…だが、我がこの世で一番に大切なかたが、これを好んで飲むのでな。我もと飲んでおるうちに、すっかり好むようになった。」
弦は、怪訝そうにコーヒーの入ったグラスを見ながら、義心の持って来た水を口に入れた。
「こんなものを好むというのが分からぬ。まあ、ここは人世の入り口のような宮と聞いておるから、珍しいものが多いのやもの。」
義心は微笑みながらそれを見て、そうして、言った。
「して…主はまるで焔様から逃げて参ったように見えたが、何かあったか?」
弦は、驚いて義心を見た。義心は、落ち着いて弦を見返している。大きな気…龍の筆頭だが、この男は一体何歳なのだろう。もしかして、我よりずっと年上なのではないだろうか。
「何も…ただ、王は大変に自由なかたであるから。我がべったり側に居ると思うたら、鬱陶しく思われるのではないかと思い、慌てて戸の側を離れただけぞ。」
義心は、じっと弦を見ていた。そして、言った。
「そうか。」義心は、窓の外を見た。「まあ、まだお若い王であられるから。主が案じるのも仕方がないことよ。我が王は、あのお姿とはいえ前世の記憶をお持ちであられ、それが偉大な王と讃えられた五代龍王でな。我は、あのかたに仕えることが出来ることを誇りに思うておる。」
弦は、少し驚いた顔をした。五代龍王…調べて知っている。歴代最強最高の龍王と讃えられた、五代龍王、維心。この世を平定した偉大な王だ。
あの七代龍王は、やはりその維心そのものだと言うのか。
「では…維心様は、あの五代龍王の、生まれ変わりであられると?」
義心は、頷いた。
「ある時点までは、普通に記憶もなくお暮らしであったが、成人した頃に記憶を戻されての。なので、六代龍王の将維様は、すぐに譲位されたのだ。ご自身の父上が、どれほどに偉大であったのか、将維様はお側でずっと見ていらしたからの。まだ若くして王座に就かれていたが、さっさと王座を譲られて、今はこの月の宮で気軽にお過ごしであるわ。」と、ふっと息をついた。「…我は時に思うのだが。炎嘉様も、同じように記憶を持たれて転生された。あのように重要な責を負って生まれて来られる方々は、その重責ゆえに、前世の知識が要るのではないかとの。我らのような普通の神であったなら、そこまでの知識は要らぬ。生きておる間の知識があれば充分であるからの。だが、あの方々は違う。広くこの世を統べねばならぬから。」
弦は、それを聞いて考えた。
確かに、焔様も重要な何かを背負って生まれて来られたのであろう。だからこそ、ああして記憶を持っていらして、その記憶を持って神世に戻り、鷲を世につつがなく認めさせることが出来る。そうして、恐らくは世を統べることに、手を貸して行かれるのだ。それだけの、力をお持ちであるから…。
ならば、我はそれをお手伝いするのみ。記憶をお持ちだったことが分かって、自分が思っている、お若い幼さの抜けない王ではないことが、あの瞬間に分かってしまった。それが、ショックだったのだ。そうして、そう思うとあの王が、今まで仕えていた王ではなく、何か別の神になってしまったような気がして、自分はあの場から思わず逃げ出してしまったのだ…王のお顔を、どんな顔で見ればいいのか分からなかったのだ。
弦は、義心を見た。
「主が、なぜにそんなことを我に話したのかは分からぬ。だが、我は己の責務を思い出したような気がする。」
義心は、フッと微笑んだ。
「何と申した?ただの世間話ぞ。」と、コーヒーを飲み干した。「だがまあ、我は少しばかり主より長く生きておるから。あっちこっちの事情は、結構見ておるし、知っておる。何かを気取って話したのやもしれぬの。」
そして、グラスを持って立ち上がった。
弦は、慌てて自分もグラスを持つと立ち上がった。
「え?!主は我と同い年ぐらいの外見であろう?やはり、年上か。いったい、幾つになるのだ?!」
義心は、先に歩きながら、呆れたように弦を振り返った。
「別に歳は良いではないか。」と、テーブルを指した。「ほら、コーヒーの方のグラスを忘れておる。ここでは己で使ったグラスは皆、ここへ戻して置く決まりなのだ。守らねばならぬ。」
弦は、それを聞いてハッとして急いでまだコーヒーが残ったグラスを持って、片付ける場所へと置いた。
「義心殿…」すると、義心はもう戸から出て行こうとしていた。「あ、待たぬか!まだ話は途中であろう?」
義心は笑いながら言った。
「後は立ち合いをしてからにしようぞ。歳の話はあまりしとうないし。」
弦は、急いで義心を追いながら、叫んだ。
「義心殿!歳の話を避けるということは、それなりの歳か!義心殿!」
しかし義心は振り返らず、弦はそれをひたすらに追って、気がつくと訓練場で義心と立ち合うことになっていたのだった。




