第24章 豊穣の神
噂という不確実なデータが村に定着するまで、それほど多くの時間は必要なかった。
ほんの僅かな時間。それは一一個体から次の一一個体へ、一軒の家屋から隣の家屋へ、一つの会話から次の会話へと、データの転送を執行するのに十分なスパンに過ぎなかった。
そしてその噂の変更履歴が、最高統治者モーレンの元へと二度目のパッチとして送信されてきた頃には、その記述内容は初期値から著しくかけ離れた別物へと変貌を遂げていた。
「村長、少しよろしいですか」
モーレンは、手元にあった小麦の分配計画の台帳からゆっくりと顔を持ち上げた。
「今度は、一体どのような不具合かね?」
正面に直立した農民の個体は、いささか躊躇の様子を示していた。自らの出力しようとしている文字列に対して、確信のパラメータが不足しているようだった。
「いや、村の連中がまたあのボスのことについて、新しいログを流通させ始めてるんだ」
モーレンは静かに目を閉じた。
予測演算の範囲内であった。問題の本質は、噂のデータが自己増殖するか否かではなく、その処理速度がどれほど異常かという一点だったのだ。
「で、現在の村のネットワークでは、彼は何と言われているんだい?」
農民は一つ、咳払いを執行した。
「それが、なかなかの分量でして」
「それは質問の答えになっていないよ」
「……連中、ボスの漂着以降にハンツの畑の出力結果が跳ね上がったのは事実だって言ってます。あいつが、農業に関する仕様を奇妙な手順で完璧に把握していることも。……それで」
農民は言葉を詰め、生唾を飲み下した。
「……あいつのことを、『豊穣の神』って呼び始めてるんだ」
執務室の中に、冷酷な静寂が沈み込んだ。
モーレンは農民を見つめ、農民もまた統治者を見返し、そして両者は同時にひとつの論理的な整合性へと行き着いた。
その文字列は、著しく非論理的で、滑稽極まりない仕様だった。
なぜなら当のボス自身は、毎日村の主要道路を徘徊しながら、己の正体は全宇宙を創った「創世神」であるとこれ以上ないほど大真面目に確定申告しているからだ。「豊穣の神」などという局所的な役職名など、一微ミクロンも口にしてはいない。
しかし、だからこそ状況は悍ましいほどのズレ(カオス)を形成していた。
モーレンは太い掌で己の顔を乱暴に擦りむいた。その挙動には、深い精神的疲弊のパラメータが染み出している。
「……そんなものは、論理的にあり得ない」
「ええ、あり得ねえことです」
「あいつは、絶対に豊穣の神などではないよ」
「間違いねえです」
両の知的生命体の間で、ひとつの合意が形成された。
問題の構造は、彼ら二人がどれほど正しい等式を布設しようとも、村の全体がそのレギュレーション(常識)から一斉に脱落し始めていたという点だった。
一方で、村中のトランクラインで実務上の問題(噂)として処理されている張本人は、その事実をただの一微ミクロンも感知していなかった。
マコトは、ハンツの畑で収穫されたジャガイモの麻袋を、自らの脆弱な二本の足で地道に物理移動させていた。
一袋、二袋、三袋。
それを備蓄倉庫の境界線へと、生真面目な動作で設置していく。
タスクの完了結果が即座に可視化されるその実務は、彼にとってそれなりに満足度の高いものであった。
マコトの論理回路によれば、やはり人間の農業というシステムは、世界の創造管理業務と多くの共通した基本思想を共有している。
両者ともに、時間の経過という不確定要素を必要とする。
両者ともに、結果の出力を待つための果てしない忍耐を要求される。
そして両者ともに、生命の生存システムを維持するための根源的な熱量を生産するのだ。
異なるのは、単に対象のスケール(規模)だけであった。
マコトがそのような宇宙規模の比較監査を真顔で行っていると、耕作地の脇を一群の農民たちが通り抜けていった。彼らはマコトの姿を検知するなりピタリと動きを止め、互いに視線を同期させながら、声を潜めて何らかの情報共有(ヒソヒソ話)を開始した。
マコトは、その生体反応を正確にスキャンしていた。ここ数日のタイムラインにおいて、著しく頻発するようになった環境ノイズであった。
「何か、実務上の不具合でも発生しましたかね?」
マコトが生真面目なトーンで問いかけた。
二人の農民は弾かれたように身体を引きつらせた。
「い、いや! 何でもねえです!」
「エラーは一切発生してねえです!」
彼らはそう言い残すと、通常の二倍以上の移動速度でその座標から敗走していった。
マコトはわずかに首を傾げた。
人間という生命体の行動特性は、やはりデバッグ(理解)が困難なバグに満ちている。
太陽の座標が西へと傾く頃には、状況はさらに一段階上の複雑なレイヤーへと突入していた。
いくつかの個体群が、本来ならば全く関連性のない個別の事象を、自らの脳内で強引に等式として結びつけ始めていたからだ。
ボスの漂着という仕様変更。
ハンツの畑の出力結果の大幅な向上。
分岐路におけるゴブリンの群れの強制終了。
ボスが直接耕作地へ介入したという物理的なファクト。
そしてそれに伴う、さらなる収穫量の増殖。
誰かがその非論理的な因果関係をシステムから除外しようと正論を吐くたびに、必ず別の個体がこのような定型句を出力して反論するのだ。
「ああ、そりゃあ分かってる。だけどよ、……やっぱりおかしいだろ」
そしてその「やっぱりおかしい」という非論理的な一言は、時にあらゆる正論のネットワークを軽々と突破して社会を書き換えてしまう、強力な認知バイアスとしての魔術的パワーを持っていた。
モーレンは村の中央広場を通り抜ける際、その強力なバグの蔓延を肌で実感することになった。
一塊の農民たちが熱心に通信を行っていたが、モーレンの進入を検知した瞬間、彼らの音声データは完璧にミュート(沈黙)された。そのあまりにも不自然な初期化挙動が、かえって事態の怪しさを証明していた。
「……話を聞かせなさい、お前たち」
モーレンが低い声を響かせる。彼らは互いに焦白した視線をリレーさせたのち、年長の農民が一つ、気まずそうに顎を擦りむいた。
「村長」
「何かな?」
「あんたの見解から見てよ……あのボスって若者は、本当は一体『何者』なんだい?」
「分からないよ」
モーレンは偽らざる客観的なデータをそのまま実直に出力した。
「それは、統治者としてあまり有難くない返信データ(答え)だなあ」
「しかし事実、あたしにも分からんのだから仕様がないだろ」
それは厳然たるファクト(事実)だった。モーレンには分からない。
彼がこれまでの観測ログから確実に把握しているのは、あの「ボス」という青年が、村の悠久の歴史において最も規格外で、不可解な変人であるというデータだけだった。
貨幣の保持量は完璧なゼロ。毎日泥にまみれて仕事を探索している困窮個体。
そのくせ、自らの手で昼天に輝く太陽を創り出したと平然と言い放つ狂人。
――そして悍ましいことに、その口腔から出力されるすべての荒唐無稽な文字列に、一片の「嘘」のノイズも検出できないという点だった。
それこそが、統治者として最もこめかみを破壊されるバグだったのだ。通常の虚偽データには必ずどこかに論理的な綻び(脆弱性)が散見されるものだが、ボスの出力する真実は、完璧な整合性を保ったまま不条理の等式を結んでいるからだ。
「俺の個人的な検証によるとよ」
農民の一人が、声を潜めてつぶやいた。
「あいつが自分で言ってる『創世神』ってデータだけは、絶対にデカすぎる嘘だ」
「ああ」
周囲の個体群が一斉に同意のログを返した。
「そいつは仕様として、スケールがデカすぎて受け入れられねえ」
「間違いねえ」
「だけどよ……『豊穣の神様』って仕様なら、まだしもしっくりくるんだよなあ」
空間が、妙な納得の静寂に沈み込んだ。
モーレンは無言のまま、天を仰いだ。
なぜ彼ら人間という生き物は、二つの間違ったデータのうち、まだしも「常識に近い方の間違ったデータ」を、進んで真実として受容(誤解)してしまうのだろうか。どちらを選んだところで、等式の解としては完璧なエラーであることに相違ないというのに。
モーレンの脳細胞の奥底が、パチンと不吉な音を立ててパニック(頭痛)を起動した。どうやらこの不具合は、交易都市の受付嬢リサから感染した、共通のシステムバグであるようだった。
その日の夜、ハンツは宿屋の木製のベンチに腰掛け、夜空を見上げているマコトの姿を発見した。
天井のない漆黒のセクターには無数の恒星データ(星々)が燦然と輝き、夏の夜特有の涼やかな冷気が、荒野の熱量を心地よく初期化していく。マコトはこの世界線に墜落して以来、夜間のルーチンとして、ただ静かにこの天体の運行を監査する習性があった。
ハンツは無造作な足取りで隣のスペースへと身を沈めると、しばしの間の不毛な空白時間を置いて、口を開いた。
「おい、ボス」
「なんだい?」
「あんたについてな、村のネットワークに著しく奇妙な噂が流通し始めてるぜ」
マコトは無表情のまま、首を縦に振った。
「ええ、それは私の生存ログにおいても、特に珍しい現象ではありませんよ」
「ハハ、そりゃそうだな」
初老の農民はクスクスと喉を鳴らした。それから言葉を継続した。
「村の連中がな……あんたのことを『豊穣の神』って呼び始めてるんだ」
マコトは即座に首を巡らせた。
本日始まって以来、初めて記録された有意な速度での質量移動(反応)であった。
「なんだって?」
ハンツはぱちくりと瞬きをした。相手側のパラメータの変化が、自らの予測値を上回る規模だったからだ。
「いや、ただの根拠のねえ噂だよ」
「いいえ、それはシステム設計の観点から見て、著しく深刻なバグ(問題)だね」
「問題?」
マコトの澄み切った瞳の奥に、本物の困惑の色が浮かんでいるのが分かった。
「私は、そのような豊穣などという局所的な仕様に限定された、下位の専門神(豊穣の神)などではありませんよ」
「ああ、分かってるさ」
「私は、宇宙のあらゆる法則を布いた創世神だ」
「ああ、分かってる分かってるとも」
マコトは静かに口を閉ざした。ハンツもまた、無言のまま夜空を見上げた。
両者はそこで通信を完全に一時凍結した。なぜなら、その対話ログの往復は、システム上何一つの新しいリファレンスを生成(進展)しなかったからだ。
ハンツの受信機は、マコトが創世神であるという厳然たるファクトを、一微ミクロンも信用してはいなかった。
そしてマコトの論理回路は、なぜ人間という生命体が、目の前にある純度百パーセントの真実を頑なに拒絶し、わざわざ別の間違ったデータを「事実」として盲目的に受容(誤解)してしまうのか、その非論理的なバグ仕様を完璧に理解できずにいた。
「……不可解ですね」
マコトが静かに呟いた。
「俺も、全く同感だぜ」
ハンツが実直に応答する。
しかし不運なことに、両の知的生命体が認識している不具合の本質は、全く異なるセクターに位置していた。
マコトは、真実を認識できない人間の脳内仕様を「おかしい」と評価していた。
ハンツは、この村の住民のほぼ全個体が、目の前の青年を本物の「豊穣の神」として勝手に崇拝し始めているという現在のカオスな状況を「おかしい」と感じていたのだ。
そんな二人の対話を他所に、村のあらゆるトランクラインにおいて、その新しい識別符号(あだ名)は指数関数的な自己増殖を継続していた。
家屋から家屋へ。耕作地から耕作地へ。会話から会話へ。
じわじわと、しかし確実に、そのデータは社会のレギュレーションとして固定化(ファクト化)されていく。
彼らが知る由もなかったが、この夏の冷涼な夜は――最高神マコトの本質に対して、全く新しい不都合な属性が完全に付着してしまった、記念すべき最初の夜となったのである。
宇宙を創った絶対者でもなく。
天界の管理事務室の「ボス」でもなく。
これからの彼の漂流生活において、著しく過酷で、磨り減るような大不祥事を連発させることになる、最悪の仕様。
――「豊穣の神、マコト」。
その誤解という名の植物は、人間たちの盲目的な信用というエネルギーを吸収し、自らの最終的な収穫期へ向けて、静かに、しかし確実な音を立てて成長を継続しているのであった。




