00│プロローグ
辺境の村、シルヴァリア。
「また、ダメだ」
そう言ったお父さんの背中は疲れていた。
畑の土は父親の指の間からサラサラと零れ落ちていく。
水をやったはずなのに、土は湿り気を帯びない。
お母さんは何も言わず、お父さんの背中に手を添えた。
王都は今年はとても豊作だと商人が言っていた。
市場は活気にあふれ、庭園には花が咲き乱れていると。
けれど、シルヴァリアでは違った。
土は潤わない。
種は芽吹かない。
風は、薫らない。
フィーナは、ひび割れた土を見つめながら思う。
(どうして……?)
誰も責めない。
誰も泣かない。
けれど、何かが足りない。
この大地から、少しずつ何かが抜け落ちている。
*
夜の森は、まるで時間が止まったみたいに静かだった。
風も鳴かず、木々も動かない。
ただ、光だけが暴れている。
フィーナは小さな手に魔法書を抱いていた。
ほんの少しでも、畑に水を――。
干からびた畑を見て肩を落とす父の背中を見かねて、
フィーナはそう願った。
父の古い魔法書にあった「水脈を呼ぶ術」を
こっそり試してみただけだった。
けれど、手のひらから溢れ出たのは
水ではなく、まぶしい光だった。
それは最初、きらきらと美しく見えた。
けれど次の瞬間。
光は熱を帯び、形を失って暴れ出した。
「……どうして……止まって……!」
フィーナは泣きそうに呟いた。
しかしその願いとは裏腹に、溢れた光はどんどん膨らみ、畑も草も焦がしていく。
光がはじける音がして、フィーナは思わず目をつぶった。
爆発する。
そう思った次の瞬間――
「――収束。」
不思議なほど静かな声が響いた。
高くて幼いのにどこか透き通っていて、夜の水面みたいに落ち着いていた。
光がすっと収まり、空気がひんやりと冷たくなったのが分かった。
フィーナがそっと目を開けると、そこには黒髪の少年が立っていた。
月明かりを受けて銀に光る髪。
その瞳は夜明け前の空のように、青い。
少年は焦げた地面をゆっくり歩きながらフィーナの前に来ると、小さく息を吐いた。
「……大丈夫か。」
その声に頷こうとした瞬間、足が震えて膝をつく。
少年は目の前で膝をつき、迷わず手を差し出した。
フィーナは少し迷い、その掌に触れた。
瞬間、フィーナの左手の甲がふわりと光を放った。
銀の紋が浮かび上がり、ゆっくりと脈を打つ。
「な、なに……これ……?」
少年は一瞬だけ目を見開き、
それから静かに微笑んだ。
「……気にしなくていい。君の魔力が、形を探しているだけだ。」
「あなたは……誰?」
少年は少し間を置いてから答えた。
「……ルーク。」
「ルーク……?」
その名を繰り返した時には、もう彼は背を向けていた。
黒い外套が風に揺れ、森の闇へと溶けていく。
それはまるで、地上に落ちた星が再び夜空へ還っていったようだった。
フィーナはその背を見つめ続けた。
*
少年は、小さな声でぽつりと呟いた。
「あれはノクタ・ルミナ……?
呼んだのはーーーあの子?」
その声は風に溶け、誰の耳にも届くことなく消えていった。
光と闇の間あわいを漂いながら。
*
しばらくの間フィーナは立ち尽くした。
暴れまわる光。
それを抑えた闇。
光った手の甲。
そして、あの少年。
なにが起きたんだろう。
やがて、焦げた大地のひび割れの間から小さな芽が顔を出した。
土の下で、何かが静かに目を覚ました。
乾いた地面がほどけるように崩れ、
その隙間から、透明な水のしずくが溢れ出す。
しずくは光を受けてきらめき、
やがて細い筋となって流れ、焦げた土を潤していった。
潤った場所から次々と芽が顔を出し、畑は緑に満ちた。
それはほんの一瞬の出来事だった。
芽は月の光を受けて微かに揺れている。
フィーナは息をのんだ。
胸の中がじんわりと温かい。
――あの子は……神さま、なの?
風が通り抜ける。草と花の香りがかすかに混じった。
空気が、薫った。
*
翌朝。
村人たちは驚きの声をあげていた。
昨日までひび割れていた畑がしっとりと潤い、
芽吹いた草花が朝露を受けて輝いている。
「見ろよ、畑が生き返ってる!」
「昨日までひびだらけだったのに……」
その中で、語り守の老婆がゆっくり空を仰いだ。
「……光の賢者の、加護かもしれん。」
ざわめきが広がる。
その輪の外で、フィーナはただ黙って立っていた。
手の甲にまだ微かに残る温もりを見つめながら、
フィーナは小さく呟いた。
「……ルーク。
私たちの、神さま。」
その声が風に乗って静かに消えるころ、
シルヴァリアに一通の封書が届く。
それは「ルミナリア王立聖学院」からの特待生招待状だった。
送り主の名前は、どこにも書かれていなかった。
***
――その地に、古くから伝わる詠がある。
光と闇とを結び、
命と時とを巡らせ、
世界の均ひへ至る印なり。
ひとたび現はるれば、
その者は光の内に影を見、
影の底に黎明を望む。
印は運命の扉を開く鍵なり。
されどまた、滅びを封ずる鎖なり。
ゆえに古の賢者は記す。
「いづれ再び、光と闇、そして傍らに立つもの、
相巡り逢ふとき、
世界はその均衡を取り戻し、
生命は時と共に流れゆかん。」
――シルヴァリア古詠伝より




