第1話 明のかたちをした嘘
明がいなくなってから、一年が経った。
そう数えたのは、あたしじゃない。あたしは日にちを数えるのがあまり得意じゃないし、そもそも猫だったころのあたしにとって、一日というものは、お腹が空いて、眠くなって、またお腹が空くまでの長さでしかなかったから、人間みたいにカレンダーの四角をひとつずつ塗りつぶして、何月何日だとか、今日は誰かの命日だとか、そういうふうに時間をきれいに並べることができなかった。
でも、明は違った。
明はベッドの横に小さなカレンダーを置いていて、病院に行く日には赤い丸をつけ、学校に行けそうな日には青い丸をつけ、あたしを拾った日には、何も言わずに小さな猫の絵を描いていた。
それが、あたしの誕生日だよ、と明は笑っていた。
本当の誕生日なんてわからないから、ビビがうちに来た日を誕生日にしよう。そう言って、明はあたしの鼻先を指でちょんとつついた。あたしはその指を噛んだ。強くじゃない。痛くないくらいに。すると明は、痛い痛い、恩を仇で返す猫だ、と言いながら、ちゃんと笑ってくれた。
その明がいなくなった日にも、きっと赤い丸はついていなかった。
明は、自分がいなくなる日を知らなかったから。
あたしも、知らなかった。
知っていたら、もっとちゃんと鳴いたのに。
もっとちゃんと、そばにいたのに。
あの日の朝、明はいつもより白い顔で、でもいつもみたいにあたしの頭を撫でて、「ビビ、今日はお母さんの言うこと聞いてね」と言った。あたしは、ニャ、と返事をした。それは、うん、のつもりだった。だけど明はたぶん、いつもの猫の返事だと思っただけだった。
日本語を教えてくれたのは明だけど、そのころのあたしはまだ、人間の言葉を人間みたいに使うことができなかった。聞けば意味は少しわかる。明が悲しいときの声も、怒っているふりをしているときの声も、無理して笑っているときの声も、全部わかった。でも、自分の口で言葉にすることはできなかった。
だからあたしは、明に何も言えなかった。
行かないで、とも。
すぐ帰ってきて、とも。
あたしはここにいるよ、とも。
その日、明は帰ってこなかった。
日比野の家には、夜になっても明の匂いが戻らなかった。代わりに、病院の匂いがした。消毒液と、冷たい布と、泣いた人間の匂い。明のお母さんが玄関に入ってきたとき、あたしはいつものように走っていった。明が帰ってきたと思ったからだ。明のお母さんの後ろから、明が「ただいま」と言って顔を出すと思ったからだ。
でも、明はいなかった。
お母さんはあたしを見て、名前を呼ぼうとして、呼べなかった。
口が動いたのに、声が出なかった。
それを見た瞬間、あたしは理解した。
人間の言葉で説明されなくても、猫の体は先にわかってしまう。明の匂いがない。明の足音がない。明の呼吸がない。明がいない。どこにもいない。家の中にも、玄関にも、階段にも、ベッドにも、あたしの毛がついた毛布にも、明はいない。
お父さんはしばらく帰ってこなかった。弟は泣きながら何度もあたしを抱きしめた。あたしは逃げなかった。いつもなら、しつこい、重い、苦しい、と思って後ろ足で蹴って逃げるのに、その日は逃げなかった。弟の腕が震えていて、あたしの毛に涙が落ちて、それが少し熱くて、あたしはどうしていいかわからなかった。
その夜、あたしは明の部屋で鳴いた。
ベッドの上で鳴いた。机の下で鳴いた。窓辺で鳴いた。クローゼットの中にも入った。明が隠れているかもしれないと思った。馬鹿みたいだと思うかもしれないけど、そのときのあたしは本当にそう思ったのだ。明は体が弱いから、たまにベッドから動けなくなることがあったし、苦しいときは声が小さくなることもあったから、どこかに丸くなって、あたしを待っているかもしれないと思った。
でも、いなかった。
どれだけ探しても、いなかった。
明の匂いだけが、部屋のあちこちに残っていた。
枕に、制服に、教科書に、カーテンに、あたしが何度も爪を引っかけて怒られた水色のカーテンに、明は薄く残っていた。残っているのに、触れなかった。匂いはあるのに、明はいなかった。
それが、あたしには耐えられなかった。
だから、家を出た。
逃げた、と言われたら、そうなのかもしれない。
あたしは日比野家の人たちを置いて逃げた。明を失って泣いている人たちのそばにいるべきだったのに、あたしは明の部屋の窓から外へ出て、雨どいを伝って庭に降りて、そのまま夜の中へ走った。どこへ行くかなんて考えていなかった。ただ、明の匂いが薄くなる前に、明を探さなきゃと思った。
あたしは猫だったから。
猫は、いなくなったものを探すとき、まず匂いを追う。
明の匂いは病院へ続いていた。何度も一緒に行ったから道は知っていた。けれど病院に着いても、明はいなかった。冷たい建物の中には入れなかったし、入れたとしても、きっと会えなかった。人間の世界には、人間だけが通れる場所がたくさんある。猫の体では、どうしても届かない場所がある。
だからあたしは、猫でいることをやめた。
正確に言うと、やめようとした。
あたしはただの猫じゃない。
明は知らなかった。日比野家の人たちも知らなかった。あたしは捨て猫なんかじゃなくて、捨てられた化け猫だった。人里から少し離れた山の奥に、あたしたちの村がある。そこでは、猫が猫の姿で生まれて、長く生きて、言葉を覚えて、人間のまねをし、やがて化ける力を持つようになる。
でも、あたしは下手だった。
尻尾は一本のままだったし、耳もうまく隠せなかったし、人間の顔を作ろうとすると、どこか歪んだ。村の大人たちは、あたしを見てため息をついた。お前は人に近づくな。人間は怖い。人間に情を移すな。人間に化けて、人間の家に入るなどもってのほかだ。そう何度も言われた。
掟もあった。
人間の死者に化けてはならない。
死んだ者の姿を借りて、残された者の前に立ってはならない。
それは、化け猫の村で一番重い掟のひとつだった。死んだ人間の姿を借りることは、死者の魂を汚すことであり、生きている者の悲しみを食い物にすることであり、化ける力を持つ者が絶対に越えてはいけない線なのだと、長老は言っていた。
あたしは、その言葉を覚えていた。
覚えていたけど、明のことも覚えていた。
明があたしを拾った夜のこと。あたしの汚れた体を洗ってくれたこと。寝る場所をくれたこと。名前をくれたこと。友達になろうと言ってくれたこと。自分だって苦しかったのに、あたしのことを助けてくれたこと。
明は、あたしに人間の言葉を教えてくれた。
おはよう。
ただいま。
ありがとう。
ごめんね。
大丈夫。
また明日。
その全部を、明は自分の声で教えてくれた。
だからあたしは、明がいなくなった世界で、何も言えない猫のままではいられなかった。
明に恩返しがしたかった。
でも明はいない。
それなら、明が大事にしていた人たちに、何かしたかった。
明のお母さんに、もう一度笑ってほしかった。明のお父さんに、夜中にひとりでリビングに座るのをやめてほしかった。明の弟に、あたしの名前を呼んで泣くのをやめてほしかった。
あたしがいなくなってからも、日比野家の人たちはあたしを探していた。
それを知ったのは、冬の終わりだった。
あたしはしばらく、町の裏側で暮らしていた。公園の植え込み、神社の床下、閉店した店の軒先、そういう場所を転々とした。人間の家の明かりを見ると胸が痛くなった。日比野家に帰りたいと思うたび、帰れないと思った。あたしが帰ったところで、明は帰らない。猫の姿のあたしがどれだけ鳴いても、明のお母さんの涙は止まらない。
そんなある日、電柱に貼られた紙を見つけた。
白い紙に、あたしの写真があった。
少し太って、毛並みも良くなって、鼻の横の黒い点がはっきり写っている写真だった。明が撮った写真だ。たしか、あたしが明の数学のノートを踏んづけて、証明問題の上に座っていたときの写真だったと思う。
紙には、こう書いてあった。
探しています。
名前 ビビ。
白い猫。耳としっぽの先が黒いです。鼻の横に黒い点があります。
見かけた方はご連絡ください。
家族同然の大切な猫です。
その文字を見たとき、あたしはしばらく動けなかった。
家族同然。
その言葉は、明がよく言っていた言葉だった。
ビビはもう家族同然だよね、と明は言った。お母さんに怒られたときも、弟にしつこく抱っこされたときも、お父さんのスリッパを攻撃していたときも、明は笑いながらそう言った。あたしはそのとき、家族というものの意味をちゃんとは知らなかった。ただ、あたたかい場所のことだと思っていた。名前を呼んでくれる場所。帰ってもいい場所。眠っても追い出されない場所。
あたしは、その家族を捨てた。
明がいなくなった悲しみに耐えられなくて、自分だけ逃げた。
それなのに、あの人たちはあたしを探していた。
明を失って、あたしまでいなくなって、それでも探してくれていた。
その日から、あたしは何度も日比野家の近くへ行った。
でも、玄関までは行けなかった。
庭の塀の上から、家の中を見た。夜の窓に映るお母さんの横顔は、一年前よりずっと細く見えた。お父さんは新聞を広げているのに、目は文字を追っていなかった。弟は背が少し伸びて、声も低くなっていたけど、リビングの隅に置かれたあたしの古い毛布を見るたび、顔をそらした。
明の部屋のカーテンは、閉じられたままだった。
あたしは思った。
あたしが何かしなきゃいけない。
でも、猫のままではだめだ。
猫のまま帰ったら、みんなはきっと喜ぶ。でも、その喜びは明の穴を埋めない。あたしを抱いて泣いて、よかった、ビビだけでも帰ってきた、と言うかもしれない。でも、そのあとに残る静けさは、きっともっと深くなる。
明がいないことを、あたしの帰りがかえってはっきりさせてしまう。
だから、あたしは考えた。
考えて、考えて、考えすぎて、何度も吐きそうになった。
明が帰ってきたらいいのに。
その願いは、日比野家の誰もが一度は思ったことだと思う。口には出さなくても、心の中で何度も思ったはずだ。明が帰ってきたら。あの玄関からただいまと言って入ってきたら。病気だったのも、亡くなったのも、全部悪い夢だったら。
でも、明は帰ってこない。
それなら。
あたしが、明になればいい。
最初にそう思ったとき、全身の毛が逆立った。
そんなことをしてはいけないと、あたしの中の古い声が叫んだ。村の掟を破ることになる。死んだ人間の姿を借りるなんて、許されるわけがない。見つかれば村に連れ戻される。尻尾を裂かれるかもしれない。二度と人里に降りられなくなるかもしれない。
それに、明に失礼だ。
明は明だ。
あたしがどれだけ姿を似せても、声をまねても、言葉を覚えても、明にはなれない。
そんなこと、わかっていた。
わかっていたけど、あたしは明が夢見ていたことも覚えていた。
明はよく言っていた。
高校をちゃんと卒業したい。制服で友達と寄り道してみたい。お母さんに心配されずに、ただいまって言いたい。弟の卒業式を見に行きたい。お父さんと一緒に遠くの海を見に行きたい。いつか、ビビを連れて日なたぼっこできる大きな家に住みたい。
明の夢は、特別大きなものじゃなかった。
世界一になるとか、誰かに勝つとか、遠い国へ行くとか、そういう派手な夢じゃなかった。
ただ、普通に生きたいという夢だった。
その普通が、明にはとても遠かった。
だから、もしあたしが明の姿で、その夢を少しでも叶えられるなら。
明が歩けなかった道を、明の足で歩けるなら。
明が言えなかった「ただいま」を、明の声で言えるなら。
それは恩返しになるんじゃないかと思った。
いいことか悪いことかなんて、わからなかった。
でも、何もしないよりはましだと思った。
あたしは化ける練習をした。
夜の公園で、明の姿を思い出しながら、何度も何度も体を変えた。白い毛を肌にして、前足を指にして、尻尾を消して、耳を丸くして、背を伸ばし、骨を変え、声を作る。化けるというのは、ただ見た目を変えることじゃない。自分が何者なのかを、内側から無理やりねじ曲げることだ。
最初はうまくいかなかった。
片耳だけ猫のままだったり、尻尾がスカートの中から出てしまったり、手の指が一本足りなかったりした。鏡代わりに公園の水飲み場を覗くと、そこに映る自分が怖くて、あたしは何度も逃げ出した。
でも、明の顔だけは忘れなかった。
丸い額。少し眠たそうな目。笑うと片方だけ深くなるえくぼ。病気のせいで細かった手首。髪は肩より少し下で、寝癖がつくと右側だけ外にはねる。声は高すぎず、でも弱いわけじゃない。怒るときは静かで、笑うときは最初に息が漏れる。
あたしは全部覚えていた。
明が自分のことをあまり好きじゃなかった分、あたしが覚えていた。
明が鏡を見てため息をつくたび、何をため息ついてるの、かわいいのに、と言えなかった分、覚えていた。
そして一年が経ったころ、あたしはようやく、人間の前に立てるくらいには明になれた。
もちろん、本物じゃない。
そんなことは、あたしが一番知っていた。
でも遠目には、明だった。
声も、たぶん明だった。
歩き方は少し違うかもしれない。明は体が弱かったから、急ぐとすぐ息が上がった。あたしは猫だから、本当はもっと走れる。でも明の体で走ったらおかしい。だから歩幅を小さくして、少し肩を落として、息を大事に使うみたいに歩いた。
服は、明のものを着た。
日比野家に入ったわけじゃない。そんなことはまだできなかった。ただ、明が亡くなったあと、家の人たちが一度だけ処分しようとして、やっぱりできなくて、近所の古い倉庫にしまっていた服を見つけたのだ。少し薄い春物のワンピース。明があまり着なかった服。お母さんが買ってきたけど、明が「ちょっと私には可愛すぎる」と言って、結局一度しか着なかった服。
それを着ると、胸の奥が痛くなった。
服は明の匂いをほとんど失っていた。
それでも、袖を通すと、あたしの中で何かが震えた。
ごめんね、明。
借りるね。
返せるかどうかは、わからないけど。
日比野家へ向かった日は、夕方だった。
空は少し曇っていて、雨が降りそうで降らない、明が嫌いじゃなかった天気だった。明は晴れすぎている日より、こういう空のほうが落ち着くと言っていた。眩しくないから、と。
あたしは日比野家の前に立った。
見慣れた門。小さな庭。弟が小さいころに落書きした塀の傷。お父さんが休日に直したけど少し傾いている郵便受け。玄関の横には、まだビビの貼り紙があった。雨に濡れて、端がふやけて、写真の色が少し薄くなっていた。
探しています。
名前 ビビ。
家族同然の大切な猫です。
あたしはその文字を、明の目で見た。
人間の目は、猫の目より色が鈍い。
でも、涙は猫より出やすいらしい。
視界がすぐに滲んだ。
あたしは手を伸ばして、貼り紙に触れた。
紙はざらざらしていて、冷たかった。
「……ただいま」
練習した言葉が、口からこぼれた。
でも、まだ早い。
玄関の向こうには、明のお母さんがいるかもしれない。お父さんがいるかもしれない。弟がいるかもしれない。あたしがチャイムを押せば、誰かが出てくる。そしてあたしを見る。
その瞬間、何が起こるのか、あたしにはわからなかった。
抱きしめられるかもしれない。
叫ばれるかもしれない。
化け物と言われるかもしれない。
明を返せと言われるかもしれない。
それが一番怖かった。
だって、返せないから。
あたしは明を返せない。
あたしがどれだけ明の姿をしていても、明は戻らない。
それでも、あたしはここまで来てしまった。
もう猫の姿に戻って逃げることもできた。実際、体の奥では猫の本能が何度もそう言っていた。怖いなら逃げろ。危ないなら隠れろ。人間の悲しみに近づくな。掟を破るな。帰れ。帰れ。帰れ。
でも、明の声も聞こえた。
ビビ、こっちおいで。
明はいつも、そうやって呼んでくれた。
あたしが怖がって机の下に隠れたときも、病院に連れていかれるのが嫌でキャリーに入らなかったときも、雷の夜にベッドの下で震えていたときも、明は無理やり引っ張り出さずに、ただ手を伸ばして待ってくれた。
ビビ、こっちおいで。
大丈夫だから。
あたしは、その手に何度も助けられた。
だから今度は、あたしが行かなきゃいけない。
あたしは震える指で、インターホンを押した。
ピンポーン、と家の中に音が響いた。
その音は、あたしが猫だったころには何度も聞いた音なのに、人の姿で聞くと、まるで自分の罪を知らせる鐘みたいだった。
足音がした。
廊下を歩く音。
少し急いでいるけど、走ってはいない。スリッパが床をこする音。これは、お母さんだ。あたしは耳を澄ませなくてもわかった。明のお母さんの足音は、いつも家の中を整えるみたいな音がする。
「はい」
玄関の向こうから声がした。
あたしの喉が固まった。
返事をしなきゃ。
人間は、こういうとき返事をする。
明なら、なんて言う。
ただいま?
違う。
最初からそれはおかしい。
あたしは一年いなかった明だ。死んだはずの明だ。普通にただいまと言うのは、あまりにも変だ。けれど、何を言っても変なのだ。死んだ人間が玄関の前に立っている時点で、何もかもが変なのだから。
鍵が開く音がした。
ドアが少しずつ開いた。
そして、明のお母さんが顔を出した。
お母さんは、一年前より痩せていた。
髪には白いものが増えて、目の下には薄い影があった。エプロンをつけていて、手には布巾を持っていた。きっと台所にいたのだろう。夕飯を作っていたのかもしれない。明が好きだった煮物の匂いが、ほんの少しだけした。
お母さんはあたしを見た。
そして、時間が止まった。
人間は、本当に驚くと声が出ない。
あたしはそのことを、明が死んだ夜に知った。
お母さんの目が大きく開いた。布巾が手から落ちた。唇が震えた。息を吸ったのに、吐き出す音が出なかった。
あたしは逃げたくなった。
この顔をさせたのは、あたしだ。
明に似せた顔で、明の声を持って、明のお母さんの前に立ったせいで、この人の心を乱してしまった。
ごめんなさい。
そう言うべきだった。
でも、あたしの口から出たのは、明の声だった。
「……お母さん」
お母さんの顔が歪んだ。
その瞬間、あたしは自分がとんでもないことをしたのだと、骨の奥まで理解した。
これは恩返しなんかじゃないかもしれない。
あたしはこの人の傷口を、明の形をした爪で引っかいたのかもしれない。
でももう、戻れなかった。
「明……?」
お母さんの声は、ほとんど息だった。
あたしはうなずいた。
嘘をついた。
最初の嘘だった。
いや、違う。
インターホンを押した時点で、もう嘘は始まっていた。
明の姿でここに立った時点で、あたしは嘘そのものになっていた。
「明、なの?」
お母さんが一歩近づいた。
あたしは逃げなかった。
猫なら逃げていた。怖い人間が近づいたら、爪を立てるか、身を翻して塀の上へ飛んでいた。でも今のあたしは明で、明はお母さんから逃げたりしない。明はお母さんに心配をかけまいとして、いつも少し困ったように笑う子だった。
だから、あたしは明の笑い方をした。
できていたかは、わからない。
「……ただいま」
今度は、ちゃんと言った。
お母さんの目から、涙がこぼれた。
一粒だけじゃなかった。
次から次へとこぼれて、頬を伝って、顎から落ちた。お母さんは手を伸ばし、あたしの頬に触れた。人間の手は、猫のときに撫でられるよりずっと大きく感じた。指先が震えていて、温かくて、少し台所の水の匂いがした。
「冷たい……」
お母さんはそう言った。
あたしは、そうかな、と思った。
猫だったころのあたしは、明によく「ビビはあったかいね」と言われていた。でも人間の肌は、猫の毛皮みたいに熱を抱えていられない。夕方の外に立っていたせいで、指先も頬も冷えていた。
お母さんは、あたしの顔を両手で包んだ。
「本当に、明なの……?」
その問いに、どう答えればよかったのだろう。
本当ではない。
でも、まったく嘘だけでもない。
あたしの中には、明がくれた言葉がある。明が教えてくれた優しさがある。明の部屋で過ごした夜がある。明の膝の温度がある。明の夢がある。あたしのこの姿は借り物だけど、明を思う気持ちだけは、たぶん本物だった。
だからあたしは、もう一度うなずいた。
「うん。……帰ってきたよ」
お母さんは崩れるように、あたしを抱きしめた。
苦しかった。
人間の腕は強い。
猫の体ならすり抜けられたかもしれないけど、人間の体はそう簡単には逃げられない。お母さんの肩が震えて、あたしの髪に涙が落ちた。あたしはどうしたらいいのかわからなくて、しばらく腕を下ろしたまま立っていた。
明ならどうする。
明なら、お母さんの背中に手を回す。
そう思って、あたしはぎこちなく腕を上げた。
お母さんの背中に触れる。
細い。
前よりずっと細い。
あたしがいなくなっているあいだ、この人はどれだけ泣いたのだろう。明を失って、ビビまでいなくなって、それでも毎日ご飯を作って、洗濯をして、家の中を掃除して、貼り紙を配って、どれだけの夜を越えたのだろう。
あたしの中で、何かが泣いた。
ビビとして泣いたのか、明として泣いたのか、自分でもわからなかった。
「ごめんね」
口から出た。
「ごめんね、お母さん」
それは明の謝罪ではなく、あたしの謝罪だった。
でもお母さんは、もっと強くあたしを抱きしめた。
「いいの、いいのよ……帰ってきてくれたなら、それでいいの……」
その言葉が、あたしの胸に深く刺さった。
帰ってきてくれたなら、それでいい。
でも、帰ってきたのは明じゃない。
帰ってきたのは、明の姿をしたビビだ。
それでも、お母さんは泣きながら笑っていた。
その笑顔を見たとき、あたしは思ってしまった。
よかった。
この嘘で、この人が少しでも救われるなら。
この嘘に意味があるなら。
あたしは、もう戻れないところまで来ていた。




