プロローグ
オマエ、どこから来たの?
それが捨て猫だとわかったのは、散らばった缶詰と、段ボールに貼られた置き手紙があったからだ。見るからに痩せているその体を見てその場に置き去りにするわけにもいかず、家族の賛同を得ないままにその子を家に連れ帰った。一晩だけ。そうきつく言い聞かせて。
汚いその体をまずは拭かないといけないから、家に帰るなりバスルームに連れていく。夜も更けて12時を回りそうになっていたし、音を立てるわけにもいかず。慎重にその子を運んで静かにしててと言っても言うことを聞かないから、バスタオルでぐるぐる巻きにしてシャワーの水で汚れを落とした。暖かいお湯に気持ちよさげに体を預けて、うっとりとした表情を浮かべながらその子は、わけのわからないネコ語を発する。ニャーニャー言ったって何かが出てくるわけでもないよ?生憎うちの冷蔵庫にはちくわの1本も入ってない。オマエのために私の数少ないお小遣いを崩すつもりもない。こうしている間にもお母さんが起きて、こんな夜中になにやってんのとどやされる可能性さえあるんだから、ちょっと静かにしていてくれない?その子は子猫というだけあって、甘えたい盛りなのが分かるほど、離しても離してもすり寄ってきた。
オマエの名前はなんていうの?
私はその子の目を見て聞いた。当然、それには答えてくれない。キミが何者でどこからきてどこに帰るべきなのかを、明日までには見つけなきゃいけない。生憎うちは動物を飼っちゃダメなんだ。そういう厳格なルールがあってね。今だけはそのルールを犯してキミを安全な場所に連れてきてる。迷子の児童がいたら、暖かい暖房のついた交番の部屋に待っていてもらうように。
さて、キミのお母さんの名前を教えてくれるかな?
問いかけたところで、返ってくるのは水を含んだ毛がぺたりと額に張りついた、情けない顔だけだった。
その子は、ひどく小さかった。
手のひらに乗る、というほどではない。でも両腕で抱えれば簡単に隠れてしまうくらいには小さくて、骨ばった背中に指が触れるたび、私は少しだけ力を抜かなければならなかった。強く洗えば壊れてしまいそうだったからだ。
白い毛なのだと思っていた。拾ったときは灰色にしか見えなかったけれど、シャワーのお湯が茶色く濁って流れていくたび、その下から少しずつ白が出てきた。正確には真っ白ではない。耳の先と尻尾の先だけが夜みたいに黒くて、鼻の横に小さな黒い点がある。
それが妙に人間っぽくて、私はつい笑ってしまった。
「オマエ、そこだけインクこぼしたみたい」
ニャ、とその子が鳴いた。
まるで、失礼なこと言うな、とでも言っているみたいだった。
「なに。文句あるの」
ニャア。
「あるんだ」
ニャ。
「ふうん。じゃあ訂正する。インクじゃなくて、海苔」
ニャアア。
少し大きな声だったので、私は慌ててその口を手のひらで覆った。もちろん本気ではない。小さな顔が私の手の中でもぞもぞ動いて、濡れた鼻先がくすぐったかった。
「しー。夜中なんだから」
そう言う私の声も、実は少し笑っていた。
笑ったのは久しぶりのような気がした。
バスルームの鏡には、ひどい顔をした私が映っていた。髪は湿気でぼさぼさ、制服の袖は濡れて、膝には泥がついている。病院帰りに寄り道なんてしなければよかったのに。お母さんに見つかったらまず間違いなく怒られる。怒られたあとできっと心配されるだろうし、心配されたあとで、たぶん泣かれる。
それが一番面倒だった。
私は体があまり丈夫じゃない。
そんなこと、自分で言うのは好きじゃないけれど。小さいころから病院と仲良しで、注射の針とも消毒液のにおいとも、白い天井とも、もうずいぶん長い付き合いになる。学校を休むことも多いし、体育は見学が基本だし、走るとすぐ息が上がる。
だから私が夜道で子猫を拾って、しかも連れて帰って、さらにはこっそり洗っているなんて知られたら、お母さんはきっと額に手を当てて言う。
明、あなたは自分の体のことを何だと思っているの。
その顔が簡単に想像できた。
それでも置いてくることはできなかった。
あの段ボールを見たときのことを、私はまだよく覚えている。
病院を出たあと、雨が降っていた。天気予報では曇りだったはずなのに、夕方からぽつぽつ降り始め、夜には傘がないと困るくらいになっていた。私はコンビニでビニール傘を買うか迷って、結局買わなかった。家まで走ればいいと思ったわけではない。走れないから、ただ濡れて帰ればいいと思っただけだ。
そういう日って誰にでもあるでしょ?
どうでもいいや、と思う日。
濡れたら風邪をひくよ、と言われるだろうなと思いながら、それでも傘を買う気になれない日。
駅前の細い路地を曲がったところに、小さな公園がある。昼間は子どもたちの声がする場所だけど、夜は街灯がひとつ切れていて、なんとなく誰も近寄らない。私はそこを近道に使うことがある。お母さんには危ないからやめなさいと言われているけれど、病院帰りの疲れた足には、五分の短縮がとても魅力的だった。
その公園の滑り台の下に、段ボールがあった。
最初はただのゴミだと思った。
でも近くを通ったとき、か細い声が聞こえた。
ニャア。
それは鳴き声というより、ほとんど空気がこぼれた音だった。
私は立ち止まった。雨が傘もない頭を叩いて、首筋を冷たい水が伝ったんだ。嫌な予感がした。見なければよかったと思う未来が、見なくても想像できた。
それでも私は滑り台の下を覗いた。
段ボールの中に、缶詰が二つ転がっていた。ひとつは空で、もうひとつは開いてすらいない。側面には太い黒マジックで、拾ってください、と書かれた紙が貼られていた。
きたない字だった。
急いで書いたのか、泣きながら書いたのか、それとも何も考えずに書いたのか。そんなことはわからない。でもその字を見た瞬間、私はひどく腹が立った。
拾ってください。
まるで、ここに置いていく自分は悪くないとでも言いたげだった。
まるで、拾わない誰かが悪いとでも言いたげだった。
「勝手だな」
思わず声が出た。
段ボールの奥で、子猫が私を見ていた。
その目は黄色かった。濡れた暗闇の中で、そこだけ小さな月みたいに光っていた。怖がっているはずなのに、逃げようとはしなかった。逃げる力がなかったのかもしれない。あるいは逃げたところでどこにも行けないと、もうわかっていたのかもしれない。
私はしゃがみこんだ。
膝が痛くて、体が重かった。病院で採血をした腕がじんじんしていた。雨で制服は冷たくなって、指先の感覚も少し鈍かった。
「オマエ、どこから来たの?」
子猫は答えなかった。
代わりに、私の指先をぺろりと舐めた。
それだけだった。
気づけば段ボールからその子を抱き上げていた。命って、こんなに軽くていいんだろうかとその時には思った。腕の中で小さな体が震えていた。雨のせいだけじゃない。たぶん、ずっと怖かったのだ。
「一晩だけだからね」
私はその子に言った。
それは子猫に言ったのではなく、自分に言ったのだと思う。
一晩だけ。
明日になったら保護団体を探す。交番に届ける。動物病院に連れていく。何でもいい。私はこの子の人生に責任なんて持てない。だって自分の人生だって、まだまともに持て余しているのだから。
それなのに腕の中の小さな温度は、私の胸のあたりにぴたりとくっついて離れなかった。
まるで、ここにいていいかと聞いているみたいに。
だから私は、何も言えなくなった。
そして今、その子はうちのバスルームで私のタオルにくるまれている。
「……どうしよう」
口に出してみたところで、答えはない。
子猫はタオルの中から顔だけ出して、私を見上げていた。洗ったせいで少しふわふわになったけれど、まだ貧相だった。濡れた毛が乾けばもう少し猫らしくなるだろうか。少なくとも、拾ったときよりは生き物らしくなった。
私は洗面所の棚から古いバスタオルをもう一枚取った。弟が小さいころに使っていた、端のほうがほつれた青いタオルだ。そこに子猫をくるみ直して、そっと抱き上げる。
「部屋に行くよ。声出したら終わりだからね」
ニャ。
「返事はしなくていい」
廊下に出ると、家の中は静まり返っていた。
お父さんのいびきが、リビングのほうからかすかに聞こえる。お母さんは寝室。弟は自分の部屋。みんな寝ている。私は足音を殺して階段を上がった。途中で一段だけきしむ場所があるので、そこを避ける。何度も夜中にトイレへ行くうちに覚えた、家の中の小さな地図だ。
自分の部屋に戻ると、私はまずドアを閉めた。
鍵はない。
この家の方針で、子ども部屋に鍵はつけないことになっている。信用しているから、というのがお母さんの言い分だけど、私はたぶん半分くらい嘘だと思っている。信用しているなら鍵くらいつけてくれてもいい。そう思うことが、ときどきある。
「ここが私の部屋」
小さな声で紹介する。
もちろん子猫にはわからない。
私の部屋は狭い。ベッドと勉強机と本棚で、もうほとんどいっぱいだ。壁には去年の文化祭で友達と撮った写真が貼ってある。机の上には飲み忘れた薬と、途中まで解いた数学の問題集。カーテンは薄い水色で、お母さんが選んだものだ。
子猫は腕の中から首を伸ばし、部屋を見回した。
「豪邸じゃなくて悪かったね」
ニャ。
「そうでもないって? それとも不満?」
ニャア。
「どっち」
私は床に畳んだ毛布を置き、その上に子猫を下ろした。すぐに逃げ出すかと思ったけれど、その子はしばらく同じ場所に座っていた。知らない場所に連れてこられて警戒しているのだろう。濡れた耳がぴくぴく動いている。
私はクローゼットから古い箱を引っ張り出した。中には小学校のころのノートや、もう使わない文房具が入っていた。それらを机の上に避難させ、箱の中にタオルを敷く。
「今夜の宿。文句は受けつけません」
子猫は箱を覗きこみ、前足を入れ、すぐに出した。
「なに。お気に召さない?」
その子は私のベッドのほうを見た。
「ダメ」
ニャ。
「ダメです」
ニャア。
「話し合いの余地はありません」
そう言ったのに、十分後にはベッドの上にいた。
私ではない。子猫が、である。
どうやって上がったのかはわからない。少し目を離して、濡れた制服をハンガーにかけているあいだに、当然のような顔で枕の横に座っていた。小さいくせに、なかなか運動神経がいい。
「降りなさい」
私は小声で叱った。
子猫は私を見た。
「聞こえてるでしょ」
聞こえている顔だった。
でも動かなかった。
「……猫ってみんなこうなの?」
ニャ。
「肯定?」
ニャ。
私はため息をついた。
仕方なく、ベッドの端に古いタオルを広げてやる。そこだけならいい。そう決めた。決めたところで、守られる保証はどこにもないけれど。
子猫はタオルの上で丸くなった。
しばらくすると、小さな喉がごろごろ鳴り始めた。最初は何の音かわからなかった。お腹でも壊したのかと思って焦った。けれど、その顔があまりに気持ちよさそうだったので、たぶん違うのだと気づいた。
「……変な音」
私はベッドに腰掛け、指先でその頭を撫でた。
子猫は目を細めた。
その顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ痛くなった。
どうしてだろう。
私はこの子のことを何も知らない。どこで生まれたのかも、誰に捨てられたのかも、名前があるのかもわからない。明日には別れるかもしれない。いや、別れなければならない。うちでは飼えない。お母さんは動物の毛が苦手だし、お父さんは責任を持てないものを拾うなと言う。弟は喜ぶだろうけど、喜ぶだけだ。世話をするのはきっと私になる。
私は体が弱い。
自分の世話だって、半分くらい家族にしてもらっている。
それなのに。
「……オマエ、寂しかった?」
聞いてしまった。
子猫は答えない。
ただ、私の指に頬をこすりつけた。
その仕草があまりにも素直で、私は困った。
寂しかったのは、この子だけじゃない気がしたからだ。
その夜、私はほとんど眠れなかった。
子猫が気になったから、というのもある。寝返りを打って潰してしまわないか心配だったし、急に鳴き出したらどうしようとも思った。けれど本当は、それだけではない。
胸の奥が、妙にざわざわしていた。
拾ってください。
あの字が頭から離れなかった。
誰かにとって、いらなくなった命。
それを拾った私は、偉いのだろうか。優しいのだろうか。たぶん違う。私はただ、見てしまっただけだ。見てしまったものを、見なかったことにするほど器用ではなかっただけだ。
じゃあ、明日になったら?
私はこの子をどこかへ渡す。そのとき私は、捨てた人と何が違うのだろう。
違う。全然違う。
安全な場所に連れていくのだから。ちゃんと助けを求めるのだから。無責任に置いていくわけじゃない。
そう自分に言い聞かせても、腕の中で震えていた温度を思い出すと、言葉は少しずつ弱くなった。
明け方近く、うとうとしかけたころ、子猫が私の胸元に潜りこんできた。
タオルの上にいなさいと言ったのに、いつの間にか布団の中に入っていた。小さな体が、私の心臓の上あたりで丸くなる。ごろごろという音が、骨を通して伝わってきた。
「……勝手だなあ」
私は眠たい声で言った。
その子は返事をしなかった。
寝ていたのかもしれない。
私はその背中に手を置いた。
細い背骨。小さな呼吸。あたたかい毛。
生きている。
ただそれだけのことが、その夜の私にはとても大事に思えた。
翌朝、当然のように見つかった。
最初に気づいたのは弟だった。
「姉ちゃんの部屋から猫の声がする!」
朝六時半。
家中に響く声でそう叫ばれた瞬間、私は終わったと思った。
子猫は机の下に隠れていた。私が慌てて追いかけるより早く、弟がドアを開け、お母さんが階段を上がってきて、お父さんが寝癖だらけの頭で顔を出した。
「明」
お母さんの声は低かった。
私はベッドの上で正座した。
「説明します」
「その前に、制服が濡れてる理由も聞くけど」
「順番に説明します」
「病院帰りに寄り道したの?」
「その件につきましても、順番に」
机の下から、ニャ、と声がした。
弟が目を輝かせる。
「猫! 本当に猫だ!」
「大声出さないで」
「かわいい! 姉ちゃん、猫拾ったの?」
「拾ったというか、保護したというか」
「同じでしょ」
お父さんがぼそっと言った。
その言い方が妙に冷静で、私は少しだけ希望を持った。お父さんは怒るときほど静かになるけれど、今は寝起きでまだ頭が働いていないだけかもしれない。
お母さんは机の下を覗きこんだ。
子猫は奥で丸くなり、黄色い目だけを光らせていた。
「……ずいぶん痩せてる」
その声が、少しだけ変わった。
私はすぐに言った。
「公園に捨てられてたの。段ボールに入ってて、雨に濡れてて、缶詰も散らばってて。だから一晩だけと思って連れてきた。ほんとに一晩だけ。今日、どこかに相談するつもりだった」
早口になった。
言い訳みたいで嫌だった。でも言わなければ、何も伝わらない。
お母さんは私を見た。
怒っている顔だった。
心配している顔でもあった。
「明、あなた昨日、病院だったでしょ」
「うん」
「先生に無理しないようにって言われたでしょ」
「うん」
「雨の中、猫を抱えて帰ってきたの?」
「……うん」
「どうして」
どうして。
それは責める言葉だったけれど、同時に本当にわからないという声でもあった。
私は机の下を見た。
子猫と目が合った。
昨日の夜と同じ、月みたいな目だった。
「置いて帰れなかった」
それしか言えなかった。
部屋が静かになった。
弟だけが、床に腹ばいになって子猫を見つめている。お父さんは腕を組んで、窓の外を見ていた。お母さんは私の顔をじっと見ていた。
やがて、お母さんがため息をついた。
長くて、深いため息だった。
「まず病院」
「私?」
「猫」
「あ、猫」
「動物病院。状態を見てもらわないと。ノミとか病気とか、何があるかわからないから」
私は顔を上げた。
「じゃあ」
「飼うとは言ってない」
お母さんはすぐに釘を刺した。
「今日一日だけ。病院に連れていって、それからどうするか考える。明は学校を休まない。あなたは自分の体調を優先しなさい」
「でも」
「でもじゃない」
その声には逆らえなかった。
結局、その子を動物病院に連れていったのはお母さんだった。
私は学校へ行かされた。
授業中、私は何度も時計を見た。先生の声は遠く、黒板の文字は頭に入ってこない。ノートには日付だけ書いて、その下に無意識に猫の絵を描いていた。隣の席の由衣がそれを見て、小さく笑った。
「なにそれ。猫?」
「たぶん」
「たぶんってなに」
「拾った」
「えっ」
大声を出しかけた由衣の口を、私は慌てて押さえた。
休み時間、私は昨日のことを話した。由衣は最初こそ目を丸くしていたけれど、すぐに真剣な顔になった。
「飼うの?」
「うちはダメ」
「でも明、もう名前つけそうな顔してる」
「してない」
「してる」
「してない」
「じゃあ、名前は?」
「まだない」
「ほら、“まだ”って言った」
私は黙った。
由衣は勝ち誇ったように笑った。
「明、そういうとこあるよね」
「どういうとこ」
「困ってるものを見ると、放っておけないとこ」
「そんな立派なものじゃないよ」
私は窓の外を見た。
校庭では男子たちがボールを蹴っていた。私は体育の見学席からなら何度も見た景色だ。走れる人たちは、どうしてあんなに簡単に走れるんだろう。息を切らしても、笑っていられるんだろう。
「私ができることなんて、たかが知れてる」
そう言うと、由衣は少し困った顔をした。
「でも、その猫は助かったんでしょ」
「まだわからない」
「助かったよ。少なくとも昨日の夜は」
その言葉は、思っていたより深く私の中に落ちた。
少なくとも昨日の夜は。
それで十分なこともあるのだろうか。
全部を救えなくても、最後まで責任を持てなくても、その一晩だけ寒さから守ったことには意味があるのだろうか。
放課後、私は急いで帰った。
走ってはいけないので、早歩きだった。早歩きでも息が上がって、途中で電柱に手をついた。胸が少し痛かった。病院の先生にもお母さんにも怒られるやつだと思いながら、それでも足を止める時間が惜しかった。
家に着くと、玄関に見慣れない小さなキャリーケースが置いてあった。
中から、ニャ、と声がした。
私は靴を脱ぐのももどかしく、しゃがみこんだ。
「ただいま」
子猫が格子の隙間から鼻を出した。
その鼻の横の黒い点を見た瞬間、変な安心がこみ上げた。
「生きてる」
「勝手に死んだことにしないで」
後ろからお母さんの声がした。
振り返ると、お母さんはエプロン姿で立っていた。少し疲れた顔をしている。でも、怒っているだけではない気がした。
「どうだった?」
「栄養失調気味。少し風邪もひいてる。ノミはいなかったけど、念のため薬をもらった。月齢はたぶん二か月くらい。女の子」
「女の子」
私はもう一度キャリーの中を見た。
「オマエ、女の子だったんだ」
ニャ。
「知ってたよ、みたいな顔しないで」
お母さんは小さく笑った。
本当に小さくだったけれど、私は見逃さなかった。
「それでね、明」
その声で、私は背筋を伸ばした。
お母さんは大事な話をするとき、必ず名前を呼ぶ。
「保護団体にも連絡してみた。でも、今すぐ引き取れるところはなかった。里親募集の掲示板に載せることはできるって」
「うん」
「だから、それまでの間だけ、うちで預かる」
心臓が跳ねた。
「ほんと?」
「預かるだけ」
「うん」
「飼うわけじゃない」
「うん」
「世話は家族全員でする。でも明は無理しない。体調が悪い日は絶対にやらない」
「うん」
「それから、名前はつけない」
「え」
思わず声が出た。
お母さんは眉を上げた。
「名前をつけると、別れるときにつらくなるでしょ」
それは正論だった。
正論すぎて、私は何も言えなかった。
キャリーの中で、子猫が小さく鳴いた。
まるで、自分には名前が必要だと言っているみたいに。
その日の夜から、子猫との仮暮らしが始まった。
リビングの隅にケージが置かれた。お母さんが病院の帰りに買ってきたものだ。トイレ、餌皿、水入れ、小さな毛布。見たことのない猫用品が家の中に増えていくたび、私は不思議な気持ちになった。
預かるだけ。
そう言っていたのに、家は少しずつその子を迎える形に変わっていった。
弟は宿題そっちのけでケージの前に張りついた。
お父さんは興味がないふりをしながら、仕事帰りに猫用のおもちゃを買ってきた。
お母さんは「安かったから」と言って、ふわふわの寝床を追加した。
私は何も言わなかった。
何も言わない代わりに、毎朝その子に挨拶をした。
「おはよう、名無しさん」
ニャ。
「ごはん食べる?」
ニャア。
「返事だけはいいね」
餌を出すと、その子はものすごい勢いで食べた。最初のころは、見ていて心配になるくらいだった。誰かに取られると思っているのかもしれない。食べられるときに食べなければ、次がないと思っているのかもしれない。
私はその背中を撫でながら言った。
「大丈夫。誰も取らないよ」
子猫は一瞬だけ顔を上げ、私を見た。
それからまた食べ始めた。
信じていない。
そう思った。
この子はきっと、簡単には信じない。捨てられたから。寒い場所に置かれたから。人間の手が必ず優しいとは限らないと、もう知ってしまったから。
それなのに、夜になると私の部屋に来たがった。
リビングのドアの前で鳴く。階段の下で鳴く。私が迎えに行くまで鳴く。お母さんには「甘やかしすぎ」と言われたけれど、私は毎回負けた。
「今日だけだからね」
そう言いながら抱き上げる。
今日だけ、は便利な言葉だ。
一晩だけ、と同じくらい。
子猫は私の部屋に入ると、まず本棚の匂いを嗅ぎ、机の下を確認し、ベッドに飛び乗る。そして当然のように私の枕の横を占領する。
「そこ、私の場所」
ニャ。
「違わない」
ニャア。
「違わなくない」
そんな会話を、私たちは毎晩した。
会話と言っていいのかはわからない。言葉は通じていない。少なくとも、私の言葉を正確に理解しているわけではないと思う。けれど、不思議と返事が返ってくる気がした。
学校で嫌なことがあった日。
検査の数値が悪くて、お母さんが台所でこっそり泣いていた日。
友達に「無理しないで」と言われすぎて、何もしていない自分がますます役立たずに思えた日。
私は部屋でその子に話した。
「今日さ、体育の時間にまた見学だったんだけど」
ニャ。
「別に走りたいわけじゃないんだよ。走ったらしんどいし。でも、走れないって決まってるのと、走らないのは違うじゃん」
ニャア。
「わかる?」
ニャ。
「ほんとに?」
子猫は私の膝の上で丸くなり、尻尾の先だけを動かした。
わかっているのか、眠いだけなのか。
たぶん後者だ。
でも、それでよかった。
人間相手だと、言葉を選ばなければならない。心配させないように。重くならないように。面倒くさい子だと思われないように。かわいそうな子だと思われないように。
猫相手なら、何を言ってもいい。
返事はニャアだけ。
慰めも、励ましも、正論もない。
ただそこにいて、私の膝を温めてくれる。
それが、思っていた以上に救いだった。
ある夜、私は名前をつけてしまった。
本当に、ついだった。
期末テストの勉強中、子猫が机の上に乗ってきた。シャーペンを転がし、消しゴムを落とし、ノートの上に座る。私は何度もどかしたけれど、そのたびに戻ってくる。
「邪魔」
ニャ。
「そこ、重要なところ」
ニャア。
「字が書けない」
ニャ。
「……オマエさあ、びびりのくせに図々しいよね」
そう言った瞬間、子猫が顔を上げた。
黄色い目が、まっすぐ私を見た。
「ビビ」
口の中で、その音が転がった。
びびり。
ビビ。
鼻の横に海苔をつけた、小さな白い猫。
「……ビビ」
もう一度呼んだ。
子猫は、ニャ、と鳴いた。
返事をした。
たぶん偶然だ。
でも私は、その偶然を運命みたいに受け取ってしまった。
「今のなし」
私は慌てて言った。
「名前つけちゃダメって言われてるし。今のなし。聞かなかったことにして」
ニャア。
「聞いた顔するな」
ビビはノートの上で香箱座りをした。
完全に居座る姿勢だった。
「ビビ」
小さく呼ぶ。
耳がぴくりと動いた。
「ビビ」
今度は顔を上げた。
「……覚えるの早くない?」
ビビは、当然でしょ、という顔をした。
その日から、その子はビビになった。
家族の前ではしばらく「猫」と呼んだ。でも弟がすぐに気づいた。
「姉ちゃん、この猫のことビビって呼んでない?」
「呼んでない」
「昨日呼んでた」
「寝言」
「起きてたじゃん」
「空耳」
「ビビ!」
弟が呼ぶと、子猫は振り向いた。
終わった。
お母さんは台所で手を止めた。お父さんは新聞から顔を上げた。私はソファの上で固まった。
沈黙。
その中心で、ビビだけが何も知らない顔で尻尾を揺らしている。
お母さんはため息をついた。
「……誰がつけたの」
「事故です」
「名前に事故はないでしょ」
「自然発生的に」
「明」
「私です」
お母さんはもう一度ため息をついた。
怒られると思った。
でも、お母さんはビビを見て、それから少し困ったように笑った。
「ビビ」
呼ばれたビビが、ニャ、と鳴いた。
お母さんの顔が、ほんの少しやわらかくなった。
「……返事するんだ」
その瞬間、私は思った。
あ、これは勝ったな、と。
もちろん口には出さなかった。
それから季節が少し進んだ。
ビビは家に慣れていった。
最初は物音に驚いてソファの下に逃げこんでいたのに、いつの間にか掃除機にも立ち向かうようになった。弟のランドセルの中に入りこんで学校へ行きかけたこともある。お父さんのスリッパをなぜか敵認定して、毎朝戦っていた。お母さんが料理をしていると足元に座り、何か落ちてこないか真剣に待っていた。
少しずつ、痩せた体に肉がついた。
毛並みもふわふわになった。
目の光も強くなった。
病院の先生に「もう大丈夫そうですね」と言われた日、お母さんは帰り道で里親募集の話をしなかった。
私も聞かなかった。
聞けば、答えなければならなくなる。
答えが怖いとき、人は質問をしない。
ビビは正式にうちの猫になった。
それが決まったのは、何か大きな家族会議があったからではない。
ある日、お母さんがカレンダーに「ビビ予防接種」と書きこんだ。
それを見たお父さんが、「この日、車出せる」と言った。
弟が「ビビの誕生日っていつ?」と聞いた。
私は「拾った日でいいんじゃない」と答えた。
それだけだった。
そうやって、ビビはいつの間にか日比野家の一員になった。
友達、という言葉を使うようになったのは、もっとあとだ。
猫を友達と呼ぶのは変だろうか。
たぶん、変だ。
でも私は、ビビのことを妹とは思わなかった。ペットとも、少し違った。守ってあげなければいけない小さな存在でありながら、同時に、私の弱いところを知っている唯一の相手でもあった。
ビビは私の病気のことを知らない。
難しい病名も、薬の名前も、検査の数値もわからない。
でも、私が本当に苦しい日を、誰より早く見抜いた。
朝、ベッドから起き上がれない日。家族には大丈夫と言ったけれど、本当は息をするだけで疲れている日。そんな日は、ビビがいつもより静かにそばにいた。遊べと鳴かない。机の上を荒らさない。布団の端に丸くなって、時々こちらを見る。
「なに」
私が聞くと、ビビはゆっくり瞬きをする。
猫のそれが信頼の合図だと知ったのは、ずっと後のことだ。
そのときの私は、ただ思った。
この子は、私を責めないんだな。
無理をするなとも言わない。
頑張れとも言わない。
かわいそうとも言わない。
ただ、そこにいる。
それがどれだけありがたいことか、元気な人にはたぶんわからない。
ある日の夕方、私はビビを抱いて庭に出た。
空は薄いオレンジ色で、洗濯物が風に揺れていた。お母さんは買い物に行っていて、弟は友達の家。お父さんはまだ仕事から帰っていない。家には私とビビだけだった。
「ビビ」
呼ぶと、腕の中のビビが私を見上げた。
「オマエはいいね」
ニャ。
「いや、よくないか。捨てられてたもんね」
ニャア。
「でもさ、猫はいいなって思うときがある。学校行かなくていいし、テストもないし、病院で採血されないし」
ビビは私の腕から抜け出し、庭の草の匂いを嗅ぎ始めた。
私は縁側に座って、それを見ていた。
「私さ」
口にしてから、少し迷った。
ビビは草に鼻を近づけたまま、耳だけこちらに向けている。
「たまに、自分が家族のお荷物なんじゃないかって思うんだよね」
言ってしまった。
言った途端、空気が少し冷たくなった気がした。
「お母さんはいつも私のことで心配してるし、お父さんは仕事休んで病院に連れてってくれるし、弟は遠足の日でも私が熱出すと静かにしてくれるし。みんな優しいんだけど、その優しさがたまに重くて。私がいなかったら、もっと普通の家だったのかなって」
ビビは振り返った。
その目が、夕焼けを映して金色に光った。
「……猫に言うことじゃないね」
私は笑った。
笑ったつもりだった。
でも声が少し震えた。
ビビは私のほうへ歩いてきた。
そして、ぴょんと膝に乗った。
何も言わず、そこに座った。
私はその背中を撫でた。
あたたかかった。
「ビビは、私が拾ったんだよ」
ニャ。
「だから、私が助けたんだよね」
ニャア。
「でも本当は、逆かも」
ビビは首をかしげた。
「私が助けられたのかも」
風が吹いた。
庭の隅で、名前のわからない花が揺れた。
そのとき私は、はっきり思った。
この子を拾ってよかった。
たとえ最初が一晩だけのつもりでも。
たとえ家族に黙って連れ帰ったとしても。
たとえいつか、この選択を後悔する日が来るとしても。
この小さな命が、今ここで私の膝にいることだけは、間違いではないと思いたかった。
「ビビ」
私は言った。
「友達になろうか」
ビビは私を見た。
「いや、もうなってるか」
ニャ。
「そっか」
私は笑った。
今度はちゃんと笑えた。
ビビは私の指先を舐めた。
初めて会った夜と同じように。
あの雨の日、公園の滑り台の下で、私が差し出した指を舐めたのと同じように。
それは約束みたいだった。
言葉にはならない、小さな約束。
私はビビを助ける。
ビビは私のそばにいる。
どちらが先に破るかなんて、そのときは考えもしなかった。
ずっと続くと思っていた。
明日も、明後日も、その次の日も。
朝になればビビが私の布団を踏んで起こしに来て、私は文句を言いながら餌を出す。学校から帰れば玄関で鳴き声がして、私はただいまと言う。夜になればベッドの端を奪い合って、負けるのはいつも私。
そんな日々が、当たり前に続くと思っていた。
命は軽い。
あの雨の日、腕に抱いたビビはそう教えてくれた。
でも命は、重い。
一緒に暮らすほど、名前を呼ぶほど、思い出が増えるほど、どんどん重くなる。
私はその重さを、まだ本当には知らなかった。
ビビも、きっと知らなかった。
だから私たちは、何も知らないまま友達になった。
嘘も、別れも、後悔も、まだ遠い場所にあると思いながら。




