(4)
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ジリンッ、とベルが鳴る。
枕元に置いた目覚まし時計――五月の定期市で買ったレトロな黄色い目覚まし時計だ――に手を伸ばし、ベルを止めた。
「……」
寒くも暑くもない程よい気温と温かい布団が、微睡む私を二度寝へと誘う。寝入りかけた時、胸の上にドスンと重い物が乗ってきた。
眠気を振り払いながら胸元を見下ろすと、ホワイトとブルーグレーの毛並みが目に入る。ボーダーコリーのアーティが、水色の円らな目でじっとこちらを見ていた。
「……おはよう、アーティ」
「わうっ」
元気に挨拶したアーティが、伏せの体勢から起き上がって布団を引っ張る。アーティに促されてようやく起きた私の足元で、布団から落ちたヴァンが「きゅっ」と小さな寝ぼけ声を上げた。
バスルームで顔を洗って、身支度を済ませる。短かった髪は伸び、顎の辺りまで伸びていた。日本にいた頃はすぐに切っていたが、どうしようか。もう少し伸ばしてもいいかもしれない。
考えながら、薄手のシャツにカーディガンを羽織り、ジーンズを履いた。開いたクローゼットの端には、黄色いレインコートが下がっている。先日クリーニングから帰ってきたそれは、泥や血の汚れが綺麗に落とされ、破れた箇所も修繕されていた。
クローゼットの扉を閉じ、アーティとヴァンと共に一階に降りる。
廊下には何かを焼いている香ばしい匂いが漂っていた。ダイニングからキッチンに入り、挨拶する。
「おはようございます」
「おはようございます、サキ」
コンロに向かっていたジャックが振り返り、静かな笑顔で挨拶を返してきた。
ジャックの手元のフライパンでは、大きなソーセージと分厚いベーコンがじゅうじゅうと音を立てている。テーブルには、週に一度は朝の食卓に並ぶイングリッシュ・ブレックファーストが着々と用意されていた。
ジャックの作業する傍らで、私はアーリーティーを淹れる。
ティーバッグを使った手軽なものではあるが、沸騰したお湯を使うこと、カップを温めておくこと、蓋をして蒸らすこと……などのいわゆるゴールデンルールを守れば、十分においしい紅茶が淹れられる――というのはジャックからの受け売りである。
淹れている間に薄いトーストが焼けたので、バターを塗って、ブレックファーストの大きな皿の端に載せる。その横に、ジャックが焼き上がったソーセージとベーコンを置いた。
「サキ、卵はどうします?」
「フライド……ええと、サニーサイドアップでお願いします」
半熟の目玉焼きをリクエストする。ジャックの目玉焼きは半熟加減が絶妙で、カリカリのトーストに付けて食べると美味しいのだ。
ジャックは「了解しました」と、片手で器用に卵を割ってフライパンに落とした。
その間にアーリーティーができあがり、カップの一つをジャックの傍らに置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます。珍しいですね、サキがハーブティーを淹れるのは」
オレンジピールやレモンピール、ハイビスカスなどがブレンドされたハーブティーは、すっきりとした清々しい香りだ。
「昨日、お店で飲みやすいものを教えてもらったんです」
「そうですか。……うん、おいしいです」
ジャックは褒めてくれるものの、彼の淹れるお茶の美味しさを知っている身としては、面映ゆい。照れくささを誤魔化すように、自分もカップに口を付ける。
すっとした香りだが、口当たりは優しく、たしかに飲みやすい。少し酸味もあって、頭の奥に残っていた眠気の残滓を消していった。
ほう、と息を吐き出す私に、ジャックは目玉焼きを皿に移しながら尋ねてくる。
「昨夜は夜更かしでも?」
「えっ」
「少し眠そうでしたから」
ジャックにはお見通しだったようだ。私はカップを両手で弄りながら、訥々と答える。
「その……メールを、日本に……義父と、姉に……」
イギリスに到着して以来、日本への連絡は最低限で、業務報告しか送っていなかった。それを、昨日初めて、私的な内容のものを送った。
――お元気ですか。私は元気にしています。
コッツウォルズの丘は綺麗です。風が吹くと緑の波みたいです。天気が変わりやすいので、レインコートを買いました。
ジャックの作るご飯が美味しいです。スコーンもビスケットも。少し太ってしまいました。
アーティが可愛いです。ヴァンも可愛いです。
姉さん、ストールありがとう。大事に使います――。
そんな他愛のない言葉の数々を並べては消し、並び変えては書き直しして、ようやく送信できたのは夜中の二時だった。送った後も何だか心配で寝付けずに、今朝は二度寝しそうになったのだ。
イギリスと日本の時差は九時間……いや、サマータイムだから八時間。イギリスの朝七時は、日本では十五時だから、もうとっくにメールは読まれている頃だろう。
少しそわそわして落ち着かない私に、ジャックは微笑む。
「それはよかったですね」
「……はい」
今まで姉のことから目を背けてきた私の、小さな一歩。ほんの些細なことだが、どこに向かえばいいか分からずに立ち往生して時よりも、きっといいことだ。
顔を上げて頷いた私に、ジャックは目元を綻ばせる。
「それでは、朝食にしましょう。しっかり食べて、今日も一日頑張りましょうね」
「はい」
電話のベルが鳴ったのは、たっぷりの朝食をとった後。
電話に出たジャックが柔らかな笑みを見せ、私を手招きして受話器を渡すのは、それから少し後のことだった。
『英国カントリーサイドの吸血鬼』 春の章・完
これにて一区切りの完結といたします。
まだ序の部分ではありますが、今後のサキの成長のお話は機会がありましたら。




