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最終章:終電の後で

「ちょっと待ってください」

 声が出ていた。

 課長が顔を上げた。


「今夜、僕が何をしていたか分かってますか」

彼女は意味が分からないというような顔をしている。

「データの復旧を」

「終電がなくなったんです!」

オフィスに声が反響した。深夜のフロアには誰もいない。僕の怒鳴り声だけが、冷たい空気を揺らした。


「30分あれば帰れたのに、対応しろと言われた。」

「タクシー代は自腹です。明日も普通に来なきゃいけない。それで報告したら「そうですか」の一言ですか?」

課長は黙っていた。


「3年間、ずっとそうだった。仕事量を減らしてほしいと言っても「確認します」で終わり。何も変わらない。休日も、深夜も、ずっと働いて。それで、労いの言葉一つない」

僕は続けた。声がどんどん大きくなっていく。

怒りなのか、衝動なのか、自己憐憫なのか、自分でも分からなかった。


「課長は、管理職として、部下のことを何も考えていないんじゃないですか?それとも、考える能力がないんですか?」

「クビになっても構いません。でも、これだけは言わせてもらいます。貴方の無能を僕に押し付けるのは金輪際やめてください」

沈黙が落ちた。


課長は俯いていた。

そしてしばらくして、僕は気づいた。

課長の肩が小さく震えていることに。


「……ごめんなさい」

声は、ひどく小さかった。

僕は呆気にとられて、黙った。


「本当にごめんなさい」

課長が顔を上げた。目が赤かった。

涙をこらえているのか、すでにこらえきれていないのか、その境界線上のような顔だった。


「言い訳にしかならないのはわかってます。でも……聞いてもらえますか」

僕は何も言わなかった。ただ立っていた。


「私も上とうまくいっていないの」

課長は静かに話し始めた。


「部長と次長、どちらとも、折り合いが悪くて。二人が押しつけてくる仕事が、そのまま私に来る。私が断れないから、どんどん増える。私一人じゃ捌けないから、下に流すしかない」

彼女は一息ついた。


「でも、誰にでも振れるわけじゃない。若手には育成の範囲内でしか頼めない」

「係長は去年からご両親の介護が始まって、残業を極力減らさないといけない」

「主任は子供が小さくて、定時に帰らないと保育園のお迎えに間に合わない」

「副主任は鬱を再発しかけていて、また長期休職をするかもしれない」

僕は黙って聞いていた。


「それで、あなたにばかり、頼んでしまってた。あなたが一番仕事ができるから。何を頼んでも、ちゃんとやってくれるから。無理だと言っても、最後はやり遂げてくれるから」

課長の声が、少し揺れた。


「分かってた。過剰な負担をかけているって。でも、私にはどうしようもなくて……上にも言えなくて……ただ、あなたに頼るしかなかった」

彼女は手の甲で目元を拭った。


「私ね、独身なの」

唐突な言葉だった。


「だから、分かってるの。独身だと、結局は自分が帳尻合わせをしなきゃいけないって。家庭がある人には頼みにくい、若い子にも無理はさせられない。でも仕事は終わらない。だから独身の自分が引き受けるしかない。そう思って、ずっとやってきた」

課長は続けた。


「あなたを見ていると……どこか、自分と似てるって思ってしまった。家庭のことを理由にしない。弱音を吐かない。きつくても、最後はちゃんと仕上げてくる。同士みたいな気持ちがあったのかもしれない」

その言葉は、不思議な程、静かに僕の中に落ちてきた。


「今夜みたいに、終電がなくなってもやり遂げてくれるって……どこかで、甘えてしまっていた。あなたが対応してくれることで、私はどれだけ助かっていたか。頼りにしていたか。心の支えにしていたか」

彼女は深く頭を下げた。


「本当に、ごめんなさい。管理職として失格だと思う。あなたの発言は、全部正しい」

しばらく、僕は何も言えなかった。



僕には何も見えていなかった。


部長も次長も、いわゆる昭和世代のサラリーマン管理職で仕事人間だ。

社会の女性管理職比率を増加させる雰囲気もあり、弊社では女性管理職が増えてきている。

管理職になったら男も女も関係ない、家族やプライベートよりも仕事を優先しろという考え方で、令和の今となっては、時代錯誤が服を着て歩いているような人たちだ。

しかし、そういう人たちだからだろう。毎晩遅くまで残業し、休日出勤もしている僕は、部長と次長からは、実はかなり可愛がられていた。


「お前も来年度には管理職になれるように推薦してやる」

そういえば先週、部長から急にそんな事を言われたのを思い出す。

僕は頑張りを認められて昇進ができると内心では喜んだが、その部長の時代錯誤の考え方が、課長を経由して、僕の今の状況を作り出している悪の根源だったことに気が付き、自分の浅はかさを痛感する。


また、僕は単独で仕事をしていることが多い。最近は、りサーチや統計分析、プレゼン作成等の作業は、AIにやらせた方が早く、マーケティング戦略を考える事は自分一人の方が集中できるし、意見を聞くのもAIに壁打ちで済む。


決算課にいた時は、ランチや飲み会、休みの日でさえ仲の良い同僚やその家族も含めてお花見やバーベキュー等もしていた。特に年度末や四半期の決算が終わった後は、皆で飲みながら、お互いに労い合い、楽しい時間を過ごしては、仲を深めていた。

しかし、営業企画課にきてからは全くそういう事をしなくなった。


もしかしたら、僕以外の課員たちでやっているのかもしれないが、それも知らないし、声をかけられたとしても、きっと今の僕が行くことはなかっただろう。

それくらいに僕は、良く言えば仕事に没頭していたが、悪く言えばスタンドプレーをしていたのかもしれない。


皆さんがそんな状況だったとは、全く知らなかった。

毎日オフィスに来ているのに気が付かないなんて、自分の薄情さに失望した。


3年間この課長のことを「機械」だと思っていた。

感情のない、ただ仕事を流すだけの機械のようだと思っていた。

でも今、目の前にいるのは、泣いている一人の女性だった。

自分と同じように上からの重圧を受け、同じように孤独に残業をして、同じように誰にも言えない鬱屈を抱えていた人間だった。


僕は大きく息を吸った。

怒りは、まだあった。

「そうですか」のさっきの一言については、正直に言えば、まだ腹が立っている。

しかし、それと同時に、何か別の感情も生まれていた。


課長が「心の支え」と言ったとき、彼女の声がわずかに温かくなったこと。頭を下げたとき、その肩が細く、どこか頼りなく見えたこと。涙をこらえる横顔が、初めて「人間」に見えたこと。

そして不意に僕は思った。

この人は、ずっと一人で抱え込んでいたのだと。

上にも言えず、下にも気を使い、部下の誰よりも遅くまで残って、それでも「お疲れさま」の一言も言えない不器用な女性がここにいる。


「課長」

僕は口を開いた。

課長が顔を上げた。目が赤い。頬に涙の跡がある。


「怒鳴って、すみませんでした」

「……いいえ、あなたは」

「でも、一つだけ言わせてください」

課長を見た。


「それ、一人で抱えすぎです」

彼女は少し目を見開いた。

「上にも言えず、下にも言えず、全部一人で。それは……無能なんじゃなくて、真面目すぎるんだと思います」

課長は何も言わなかった。ただ僕を見ていた。


「僕も、同じようなもんかもしれません。断れなくて、つい引き受けて、一人でパンクする。似た者同士なのかもしれないですね。僕たち」

その言葉を言いながら、自分でも少し可笑しくなった。

3年間、ソリが合わないと思っていた相手が、実は最も似た境遇にいた。


「あの」

僕は窓の外に目をやった。深夜の都市は静かで、遠くのビルの灯りだけが瞬いていた。


「どっちみち終電ないですし、このままオフィスにいるのも寒いんで……」

課長は小さく首を傾げた。


「始発まで飲みませんか。」

「愚痴でも、仕事の話でも、何でも話しましょう」

しばらく沈黙があった。


それから課長は、3年間で初めて見せる顔をした。

困ったような、照れたような、それでいてどこか安堵したような、そんな表情だった。


「意外と優しいんですね」

「優しくないですよ。さっき怒鳴ったじゃないですか」

「それでも、優しい」

彼女は小さく笑った。

僕もつられて笑った。


コートを手に取り、2人でエレベーターへ向かった。

深夜のオフィスビルを出ると、11月の夜気が頬を刺した。


街はまだ、眠っていなかった。

僕たちは並んで歩き始めた。終電のない、長い夜の中へ。

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