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第2章:緊急事態

その夜は底冷えがする水曜日だった。

定時の頃は外を見ると、帰路にいる人もいたが、飲み会に行くような人たちの方が大勢だった。


僕は、夕方から取り組んでいた新しい営業情報統合データベースシステムへの移行作業の最終確認をようやく終えようとしていた。


あと30分もすれば完了する。終電は0時47分。時計は24時の10分前で、十分間に合う。

 

その瞬間、チャットのポップアップが見えた。


「【緊急】新旧両方の営業データベースシステムの一部データが消失してます」

「こちらでも確認を急いでますが、大至急、貴部でも確認をお願いします」


送信者は、決算課時代に一緒に働いていた一つ下の後輩で、今は情報システム部の営業データベースシステム統合タスクフォースにいる。

営業部は営業第一課から第八課まであるのだが、数年前まで各課が別々の営業システムを使用しており、市場や顧客の情報をお互いに共有していなかった。

かつての弊社では社内競争を是としており、同じ営業部内でも課が異なればライバルという意識があり、現代となってはお互いに足を引っ張り合うだけの時代齟齬と言える悪習があった。


その為、業務の効率化と売上増加を目的として、営業各課がそれぞれの情報を共有できるように、全ての情報を新しい営業情報統合データベースシステムに移行する事になった。


しかし、意味不明なのが、営業部と営業支援部と営業企画部の協議の結果、営業企画部が本件の主担当部署となり、そしてさらに意味不明なのが、何故か僕にその仕事が降ってきた。


営業部が持つ情報を統合するのだから、営業部がやるのが筋だろう。

もしくは、営業の側面支援をするのが本業の営業支援部がやるべきだろう。


どう考えても、これは営業企画部の仕事ではないし、僕がやらなければならない仕事ではないことは明らかだ。


しかし、そんな事は言ってられない。僕は頭痛が激しくなっているのが分かった。

営業情報統合データベースシステムは翌朝の全社会議で使われる資料の元データだ。

新しいデータベースシステムの良さもアピールする為に、数字的根拠はデータベースシステムに飛んで、役員に見せるようなプレゼン内容になっている。

そのデータが消失してしまえば、明日の会議では、新データベースシステムの失敗を露呈するだけになる。


僕は立ち上がって、何故かまだ残っている課長の席へ向かった。

今、思えば、この時、課長の席に報告に行かず、さっさと対応を始めれば良かった。


どうせ報告をした所で、何も解決できないし、何の役にも立たない。

そう分かっていたのだが、僕は課長に報告をしに行った。

きっと、業務時間外の緊急事態なので、どうせ何も適切な指示ができなくても、報告だけはしておいた方が良いとでも思ってしまったのだろう。


「課長、緊急事態です」

課長は顔を上げた。

「なんですか」

面倒そうに話す言い方がムカつく。

「情報システム部から連絡があり、新旧両方の営業データベースシステムに消失が発生している可能性があるとの事です。明日の全社会議の資料に直結するデータです」

課長はしばらく黙って僕を見ていた。それから言った。

「そうですか。対応してください」

僕は耳を疑った。

「今からですか。終電まであと30分もないのですが」

「緊急事態ですから、対応してください」

「でも終電が」

「対応してください」

それ以上、僕も彼女も何も言わなかった。


僕は拳を握りしめ、自分の席に戻った。


頭の中で怒りが燃えていた。

だから、こんな数字的根拠をデータベースシステムに飛んで見せるような馬鹿げたプレゼン資料にする事は最初から大反対だったんだ。


僕は、営業各課が入力した売上や顧客情報等の営業データを旧営業データベースシステムからダウンロードして、数値や統計分析をした結果をプレゼン資料に載せていた。


しかし、そのプレゼン資料を見た課長が、新しい営業情報統合データベースシステムの進捗のアピールも入れた方が良いというお門違いな事を言い始めた。

営業情報統合データベースシステムから取得できる数字的根拠やデータはリンクで飛ばして、営業情報統合データベースシステムをアピールできるように修正してくださいという指示があった。


マーケティング戦略と営業情報統合データベースシステムの構築は全く別次元の話だ。役員会議の場で、それをごちゃ混ぜに話しをしたら混乱するだけだと何度も言ったのだが、修正をしてくださいしか言わない課長の無能さに反論をし続けるのが馬鹿らしくなり、指示通りの修正を行なった。


明日のプレゼンについては実は何とでもなる。新しい営業情報統合データベースシステムにリンクで飛ばす等という馬鹿げた資料にする前のプレゼンデータは残してあるので、これを使えば問題ない。


怒りが収まらないのは、システムにバグや故障が発生する事は、充分あり得る事で、容易に想像がつく。それにも関わらず、案の定、データベースに問題が発生し、このままでは明日の役員会議に支障をきたす結果になってしまったのに、それに対して何も謝罪がない。


さらには終電をなくして仕事をする部下に対して、労いの言葉も何もない。この無神経さに怒りを通り越して憎悪の念が生まれていた。


終電がなくなる。それは単なる不便という話しでは済まされない。

終電を逃せばタクシーで帰るしかない。深夜のタクシー代は、この時間帯に都心から自宅まで乗れば、1万円近くかかる。

それを会社が出してくれるわけでもないし、家に着くのは今から出発しても1時30分頃になる。


それを「対応してください」の一言で。


僕は、情報システム部の後輩に電話をかけながら、課長への憎悪が、静かに、しかし確実に、積み上がっていくのを感じていた。

これまでの3年間が走馬灯のように浮かんできた。

分担してほしいと言っても「確認します」。

スケジュールが無理だと言っても「対応してください」。

休日出勤が続いても「お疲れさまです」の一言もない。


この人は、僕を人間だと思っているのだろうか。


それでも僕はやった。


情報システム部の後輩と連携して、バックアップデータを掘り起こし、消失したレコードを一件ずつ照合し、復元できるものを復元し、できないものはダウンロードしてあった内容を手入力で行なった。

作業は予想以上に複雑で、気づけば時計は1時を回っていた。

終電は既に行ってしまった。

1時30分過ぎ、ようやく作業が全て完了した。

再度、馬鹿げたプレゼン資料の方でリンクから飛んでみたが、無事に問題ない事を確認した。


僕は課長の席へ歩いた。彼女はまだいた。

「対応完了しました。データは全て復元できています。明日の会議は予定通りに進められます」


彼女は画面から目を離さずに言った。

「そうですか」


その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが、はっきりと音を立てて切れた。


最終章に続く。

(最終章は2026年6月28日(日)21時00分に投稿します。)

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