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第1章:午前零時前

時計の針は24時の10分前。


オフィスの蛍光灯は僕のいる課だけを灯し続け、窓の外に広がる夜景のおかげで、この時間でも僕以外にもまだ仕事をしている人たちがいる事を思い出させてくれて、自分の現状を何とか受け止められる。僕はディスプレイを見つめながら、何度目か分からないため息をつく。


キーボードを叩き続き、システムの移行作業を続ける。残りは、あと営業第八課の分だけだ。


隣の島に目をやると、課長が僕と同じように画面を凝視している。

44歳。僕の丁度一回り年上の上司。

この女性が、僕は心底苦手だ。


彼女は一言で表すなら「機械」だ。


「対応してください」

「確認します」

「そうですか」


報連相をしても、大体この3パターンしか返ってこない。

感情の起伏が見えない。

叱られることはないが、褒められることもない。


会議では、自分の意見を無理に通そうとして、的外れな発言をしているようにも見えることもあるし、部下の仕事量を把握しているとも思えない。


東証プライム上場の化粧品メーカーに入社して10年。最初の7年は経理部決算課にいて、ひたすら財務諸表の作成と修正を繰り返す日々だった。

数字を扱う部署なので、最初の頃はそれなりに緊張感を持って仕事をしていたが、所詮は会計基準に沿って書類を作成するだけだ。

慣れるまでが大変だが、一度慣れてしまえば、それ以降はただの作業だ。

決算期は多忙だが、それ以外の時期は殆ど定時で帰れる日々だった。安定した大企業で定時で帰れるのだから、今から思い返せば、かなり恵まれた環境だったのだろう。

それでも、何か物足りなかった。SNSを開けば、学生時代の友人たちが、起業や家業を継いで事業で成功していたり、外資系のコンサルティングファームや投資銀行に入った知り合いたちは、日系企業ではありえない大金を稼いで、派手な生活をアップしていて単純に羨ましかった。


しかし、僕には起業や転職をする勇気がなく、昼は仕事をしながら、夜は社会人大学院でMBAを目指した。

入学当初は、会計から近い財務を学び、修了後は財務部への異動希望を出すか金融機関への転職を考えていた。

ところが、データ分析の講義が面白く、また講義を担当していた准教授と気が合い、その准教授の研究室にそのまま入り、AIを活用したビッグデータ解析によるマーケティング戦略を研究し大学院を修了した。


「MBAで学んだ知識を生かせる部署に異動させてくれなければ辞めます」


今から思えば、人事に言ったこの言葉が自分の首を絞める結果となった。


人事としても、AIを使いこなしてマーケティングができる人材と思ってくれたのだろう。僕は、希望通り、自分が研究した内容が活用できる営業企画部に異動できた。

異動すらも希望通りなのだから、僕は恵まれていると本当は思わなければならない。


しかし、3年前に営業企画部営業企画課に異動して、この課長の下で働くことになり運命が一変した。

異動当初は、歳の割にはキレイな女性の下で働けてラッキーと軽い気持ちだった。

そして、最初の1年は良かった。自分の研究した内容が、実務でも役立ち成果も出て仕事が本当に面白かった。

しかし、徐々に仕事が僕に集中し始める。営業企画の業務なら未だしも、全く関係ないような仕事まで僕に降ってくるようになった。


そして、いつの間にか、僕は営業企画部だけでなく、執務室がある30階のフロアにある他部署を含めた誰よりも、残業も休日出勤も一番多くなった。


今日なんて、在宅勤務が多い弊部の為に、部員が在宅勤務か出勤かをすぐに見て分かる在宅・出勤表をスプレッドシートで今日中に作れと命令される。

さすがに限界を感じて課長に直訴した。


「課長、少し相談があります」

「なんでしょうか」


「正直に言いますと、今の仕事量は、私一人でこなせる分を超えています。誰かに分担していただくか、優先順位を整理していただきたいのですが」


課長は一瞬だけ僕を見て、すぐに画面に視線を戻した。


「検討します」


その一言で終わった。

さすがに頭にきた。


「スプレッドシートの作成なんて仕事は、AIか新卒の彼女にでも振ってください。と言ってるんです」

「私が、明日の役員会議で、新製品のスキンケアクリームのマーケティング戦略を発表する準備で忙しいのはご存じですよね」


「それならば、あなたから彼女に話しをしてください」


一瞬、頭がフリーズした。部下全員の仕事の質と量を見て、それを適切に配分をするのが管理職の仕事だろう。


それをしないのは勤務放棄であり、できないのであれば管理職失格だ。


僕は、この課長は管理職として無能なのだろうと思い始めた。

部下の状況を見ず、上にも下にも何も言えず、仕事を処理できる人間に流すだけ。

それがこの課長の実像なのだろう。


僕は、話しても無駄だと分かり、自分のデスクに戻り、すぐにAIにプロンプトを入力し、スプレッドシートを作成させた。

しかし、案の定、幾つかの関数が誤っており、該当するセルの関数を打ち直し、出来上がったスプレッドシートを課長にメール添付した。


頭にきていたので、件名に「確認願います」とだけ書いて、本文は何も書かなかった。

課長からは返信がなかった。

修正依頼が来てもシカトしようと思ってたので、明日の役員会議の発表資料の作成に戻る。


AIにスプレッドシートを作成させて、課長にメール送信するまでわずか20分。しかし、このわずか20分で削がれた集中力を戻すには、さらに時間がかかる。


集中力が戻らず、ふと課長のデスクに目を向ける。


不思議に思うのは、彼女もまた、いつも遅くまで残っていることだった。


僕が、終電ギリギリに帰るとき、彼女はまだ席にいる。

僕が、23時に帰るとき、彼女はまだ席にいる。

僕が、24時まで残っているときでさえ、彼女もまだ席にいる。


管理職なら、もっと早く帰れるだろうにと思うこともあった。

しかし、そんなに遅くまで何をやっているのかは、よく分からなかった。


そして、この後、彼女の本心を知る事になる。


第2章に続く。

(第2章は2026年6月24日(水)21時00分に投稿します。)

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